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第二幕 6.とてもきれいですごくかわいそう②

 犬は痛覚が鈍いが、鼻だけは別だと図鑑で読んだ。それを思い出して、どうすればいいか瞬時に理解した。  引きつけて引きつけて、俺の首元に牙が届く一寸先まで。充血した白目の血管、蜘蛛の巣のように走った赤が見えるくらいまで、そいつが勝利を確信するまで引きつけてから、一つ大きく息を吸う。  俺は掴んだ枝を、犬の口吻の先端、びしょびしょに濡れた黒い鼻に空いた2つの穴。その片方めがけて、思い切り突き出した。  尖った枝が、長いマズルを突き破りながら深く食い込む。眼窩まで突き抜けた先端がその向こうの目玉を押し上げた。  枝の先に引っかかって押され、ぎゅるんと片目が間抜けに白目を剥くと、そこでやっと犬は「ぎゃん」と悲しそうに鳴いた。  犬の飼い主だった中学生は、喉が破れるのではないかというほど大声で泣き叫んでいた。 「あいつがリクを刺した、血がいっぱい出てた!」  署に呼ばれた母親に縋り付いて、俺を指さしながら半狂乱になって喚き散らしていた。 「ワンちゃんが興奮して、噛もうとしたんでしょう? 遠藤くんだって、びっくりして身を守るために、咄嗟にしたことかもしれない」  女の警官が中学生を宥めているのを、少し離れた場所で見ていた。 「そんなわけない! 俺達が後から追いついた時には、リクは血の中で伏せてて、あいつはそれを上から見下ろしてて」 「俺らがびっくりして、わーって声上げたら」 「あいつ、すっと顔上げて」 「笑ってた」  切れ切れに、震える声を一つ一つ繋ぐように、彼は話した。真剣なその声の色は、まるで嘘には聞こえなかった。  俺は笑っていたのだろうか?  もしかしたらそうかもしれないと思った。  裂けた傷口から漏れる空気と血の混じった音を聞いた。  果敢にまだ噛みつこうとする口吻を、突き刺さった枝ごと何度も殴った。  ショック状態で垂れ流しになった犬の、糞尿の臭いを嗅いだ。  耳を伏せ尾を後ろ脚の間に巻き込み、恐怖に震える姿を見た。  ぼたぼたと垂れて広がる血溜まりに、晴れた秋の日の木漏れ日が反射していた。  土の上をすべる赤い生命の色、普段は被毛に隠されて見えない体温の色。  犬はとてもかわいそうだった。  俺は心の中でたくさん謝った。取り返しのつかないことをしたと思った。  けれどそれ以上に、きらきらとした赤が、犬の漏らす息で不規則に揺らいで光って、なんてきれいなんだろうと思った。  静かだった周囲がだんだんと喧しくなって、誰かに名前を呼ばれるまでずっと、俺は生命の色を見ていた。

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