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第二幕 6.とてもきれいですごくかわいそう③

 あの中で俺は、笑っていたのだろうか?  そうかもしれない。  犬を憐れだと思う気持ちとは別に、あの興奮を思い返すと心臓がドキドキする。  あの恐ろしい経験が、まるで胸をときめかせる恋であるかのように錯覚してしまう。  俺はどこかおかしいのだろうか。  現に俺は、母親が死んだ時も泣きはしなかった。泣けなかった。いつかこうなることが予想できていたかのように、心のどこかで『ああ、やっぱり』と思っていたのかもしれない。  俺は、おかしいのだろうか?  そうかもしれない。  事情聴取を何度も受けて、日もとっぷり暮れ夜を回ってから、親父に家に連れ帰られた。  ごめんなさいと謝っても、「疲れただろ、メシ食って早く寝ろ」と言うだけで、親父は俺を強く責めはしなかった。それが辛かった。  親父を含め大人にとって、どこまでも俺はかわいそうな子供で、たとえ俺のやることなすことがどんなに異常でも、それは母親がああだったせいだ。すぐにそう結論付けられる。  親父はテレビの方を向いて何も言わず、ビールを飲んでいる。厭じゃないのだろうか。得体のしれない、血の繋がりもない子供が、面倒事を起こして。厭に決まっている。  親父が飲んでいるビールの、プルタブの空気の抜ける、あの気持ちの良い音がする。よく家で聞いていた。母さん? じゃない。愛人のミズタニさんの飲む、高いビール。その酒気。テレビの野球中継。  食器の割れる音、母さんの化粧品、笑い声、ささやき声、甘い匂い血の匂い。新しい動物図鑑の背表紙が並んでいるさま。  嫌だったことも、少し嬉しかったことも、頑張ったこともそうでないことも、全部繋がって何もかも、俺の評価は『かわいそうな子供』に帰結する。  すべてが馬鹿らしかった。  何週間か後、匂いを感じる器官が傷ついてだめになって、メシを食えなくなったあの犬が死んだと聞いた。こちらは器物破損の損害を、金で払って解決しただけだ。あれ以来中学生はずっと家にこもりきりらしい。  犬にも彼にも、申し訳ないことをしたと思った。けれど、彼にもその家族にも面会は許されず、俺は謝ることすらできなかった。  学校の先生からも、取り立ててお咎めはなく。その代わりにうちのポストに、区の子育て支援課から『家庭訪問のお知らせ』『カウンセリングのご案内』などと書かれた封書が頻繁に届くようになった。  人の家の犬を殺したのに、人の心を壊したのに。  俺はまだかわいそうな子供の範疇だった。    かわいそうな子供はやがて、かわいそうな大人になるのだろうか。  どこまでいけば、俺はかわいそうじゃなくなるんだろうか。  もうたくさんだった。同情の余地もないくらいに悪い人間になりたくて、沢山喧嘩を買ったし売った。そのうちに俺は、乱暴者だの暴力装置だのと、噂を立てられるようになった。  親父のお役に立てるようになりたいので、ヤクザをやらせてください。  捨て鉢のようにそう言った俺を見て、親父は少し寂しそうな顔をした。 「そうかァ……ごめんなあ、景虎」  どれだけ他人を殴ろうが壊そうが、この人にとって俺は一生かわいそうな人間なのだと、その時に悟った。

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