119 / 170

第二幕 9.庄助を救え!〜GPS職人・涙の追走劇〜②

「どしたの?」 「うちの猫、若いのが一匹避妊手術したんですけどね。そいつを迎えに行きたくて……病院が開いてる間に」  ナカバヤシは、小指のない左手で頬を掻いた。  妻や子供と離縁したナカバヤシだが、最近その元家族からなぜか猫を引き取ったらしい。  男やもめに猫が三匹もいると掃除が追いつかないのか、ナカバヤシの服にはよく白や茶色の細かい毛が付着している。 「ブチコチャン、手術したんですか」  景虎は白地に雉の斑が頭にある、変な髪型のような猫を思い浮かべながら言った。猫を触りにナカバヤシの家まで押しかけたことがあるが、その時に見た一匹のメス猫の名前が確か『ブチコチャン』だ。 「そうなんだよ。どこかよその猫に発情してんのか、外に出たいってミャーミャー鳴くから……もっとはやくに手術してやればよかったなぁ」 「猫には優しいよねー、ナカバヤシさん。俺の田舎なんか、そこらじゅうで猫がぽんぽん子供産んでたけどねぇ」  何気なく国枝が茶々を入れると、ナカバヤシは少し怒ったように説明した。 「あのね国枝さん、今の時代の猫、特に車の多い都会の猫は、去勢して完全室内飼いがスタンダードなんです。一生家の中から出さない、繁殖させない代わりに、外敵から守ってあげようって決めるんです。飼い主にも覚悟がいることなんですよォ……」 「へ~。じゃあまあ、帰っていいよ」 「興味なさすぎでしょ!」  ナカバヤシは荷物をまとめると、少し悲しそうに事務所を出ていった。  ブチコチャン、はやく元気になるといいな。景虎は、1年ほど前に抱いた仔猫時代の彼女の、ぽわぽわとした毛並みを思い出した。  ナカバヤシを見送り、ぽつりぽつりと他の組員も帰り始める。雨が降りそうだから、はやく帰れよ。そう声をかけられて、景虎は頭を下げる。  組長付きの立場とはいえ、歳上の人間には基本的に礼儀正しくするように、景虎は矢野に躾られてきた。  やたらに腕が立ち、暴力ごとに強い景虎だが、矢野の教えのおかげで、事務所の人間とはそれなりにうまくやっている。  ふと、スマホを見る景虎の表情が強張った。 「……国枝さん、車貸してください」 「え~なんで?」 「庄助が移動し始めたんです」  画面から目を離さずに、景虎は低い声を出した。見ると、庄助の位置を示しているアイコンは、新宿西口のロータリーあたりから、車に乗ったと思しきスピードで職安通りを突き抜けて、北へ移動し始めている。  いつもの作業車は、今日は他の組員が使っていてここにはないが、駐車場には国枝のラングラーが置かれている。  肩書上は上司・先輩と言えど、景虎にとって国枝は、子供の頃から一緒に過ごしてきた存在だ。お互い『これくらいは許される』というのがわかっている間柄でもある。  車を貸してくれと言われそうだなと、国枝は最初から予想していた。 「タクシーにでも乗ったんじゃないの?」 「庄助は、向田の女と一緒にいるはずです。二人でタクシーに乗るっていうのは、ちょっと……」 「別にそんなありえなくはないじゃん」 「いえ……他の女と一緒に密室に入るのは、ちょっと許せないってだけです」 「こわ」  二人で見守っている間にも、通学帽のアイコンは中野区近辺の古いビジネスホテルの前に停まった。景虎の顔色がサッと変わるのを、国枝は横目で見ていた。 「GPSがズレてなければだけど、このホテル、向田さんの息がかかってるとこだね。オーナーぐるみで“仕事”の面接とか、撮影とか。その他諸々によく使うとこだ」  言い終わる前に景虎は立ち上がっていた。  国枝が腕を伸ばして、窓のブラインドのスラットを押し下げる。外はもう暗く、夜の闇を覆い尽くすような、分厚い雨雲がそこまで来ていた。 「車くらいいいけどさ~? でも、たまには俺にも一枚噛ませてよ。ちょうど運動不足だったし、鬱憤も溜まってんだよね」  国枝はサポーターが巻かれた手のひらを開閉させて、にこりと笑った。

ともだちにシェアしよう!