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【番外編】恋と毒刃①

 都会のネズミは大きい。冗談ではなく、フランスパンくらいはある。バタールではなくバゲットのほうだ。  飲食店でひしめく大通りの裏のさらに奥まった細い路地の空気は、夜の闇に揺蕩う紫煙よりも身体に悪そうな毒に満ちている。  埃をまとった脂を羽に乗せて、もたつきながら回る換気扇のファンの不格好な音がする。  黒々とした分厚いバゲットが、足元を走り抜ける。そのミミズのような細長い尻尾が、四角いポリプロピレンのゴミ箱の向こうに消えた。 「ご協力、感謝しますよ」  男は国枝聖に向かって頭を下げた。歳の頃は三十代前半、背の高い、細身だが筋肉質な男だ。夜のジメッとした空気が不快なのか、麻のヘンリーシャツの胸元をはだけさせて、ぱたぱたと仰いでいる。 「いーえ、どういたしまして。ウチの若いのにおつかいしてもらっただけだし、安いもんだよ。むしろそんなんでいいの?」  国枝は男の手の中の、小さな二つのビニール袋を顎で示した。ジッパー付きの透明なパッケージの中にはそれぞれ、白い粉末とタバコの吸殻が入っている。 「十分ですよ。奴らの尻尾の先の毛でも掴みたいと思ってたとこなんで……それに、あんたにも会いたかったですしね」 「あは、ほんと? うれしー」  火の着いたタバコの煙を吸い込んでわざとらしく笑うと、国枝は空咳をひとつした。 「久々に会えたのに、こんな場所で申し訳ないです」  卑屈そうな笑みを国枝に向ける男は、佐和(さわ)という。国枝属する織原組とは敵対組織の、川濱組の幹部候補だ。国枝より少し若く、今年32歳になる。 「いいよ。俺ら悪党なんだし、汚い路地裏は、悪だくみにはおあつらえ向きの場所でしょ。それとも、ハイアットの最上階でも押さえてくれんの?」  国枝に、軽口と流し目を向けられた佐和は、ツーブロックの刈り上げの部分をポリポリと掻いた。 「……はは。検討しておきます」  国枝の細くて骨っぽく白い指が、トントンとタバコの尻を叩いて灰を散らす。舐めるように、佐和の視線がその動きを追う。  きっと国枝は気づいているだろう。けれど、何も言わない。ビルの足元を見つめる眠そうな目は、街中の穢れが煮詰まって溶け出したインクのような、夜の闇だけを映している。  いい男だ。  佐和はそう思う。狡くて賢しらで、婀娜(あだ)っぽい。そんな国枝が、自分のことだけを見てくれたら、どんなに快感だろうと。  国枝と通じていることが川濱組にバレたら、死ぬだけではすまない。それでも、二人だけの秘密という甘美な響きは、佐和を狂わせるには十分だ。  佐和という男は、卑屈だがそれほど馬鹿ではなかった。自分が国枝にとってただの手駒で、いざ組の間でややこしいことになれば、一つの躊躇いもなくトカゲの尻尾にされるであろうことは、痛いほどに理解していた。  そういう人間だからこそ、欲しくなるということも。 「お怪我の調子、どうですか」  骨の浮き出る手の甲に数個、丸い火傷の跡がある。焼けて白く凹んだ皮膚は、跡が残り続けるに違いない。 「もう骨もくっついたよ。おかげさまでね」  国枝はすっかり短くなった自分のタバコを携帯灰皿で消してしまうと、白いサマージャケットの内ポケットにしまった。 「あのときは暴れるだけ暴れて、事後処理してもらってごめんね。ありがとう佐和くん」  名字を呼ばれて感謝を述べられただけで、気持ちが浮つく。  国枝は独自で何か調べていることがあるようで、そのために川濱組の幹部の女と(ねんご)ろになっていたのがバレて、先月殺されかけた。  組同士の対立に発展する前に佐和が先んじて奔走し、なんとか事なきを得た。口には出さないが、随分骨を折ったものだ。 「無事でなによりですけどね、もう無茶はしないでくださいよ。これでもだいぶ心配したんで」 「……ふふ、そっちに迷惑かけないように気をつけます」  そうではない。「わかった、もうしない」という言葉が、ただ欲しかったのだ。佐和は唇を歪めた。 「ほんと、助かったよ。借りを作るのは嫌だからさ。できることがあったらなんでも言って。俺と佐和くんの仲なんだし」  こんなことを言いながら、少しでも内側に踏み込もうとすると、国枝は佐和をやんわり拒絶する。決して破れない薄い膜を張っているみたいだ。  貸し借りなんて、今更だろうが。俺たちはこの瞬間も、組織を裏切り続けているのに。  喉まで出かかった言葉を、生唾とともに飲み込む。 「佐和くんさ、欲しいものある? いつもお世話になってるし、プレゼントするよ」  歯痒かった。  この人は、誰の前でなら泣き言を漏らしたり、正直な気持ちを吐露するのだろう。  国枝に一緒に住んでいる女が居るのも知っているし、たとえフリーだったとして、自分みたいな薄汚いチンピラに心を寄せるわけがない。  ただ、共犯という点でなんとなく。他の人間とは違うものをわかち合っていると思っていた。 「どうしたの、そんな変な顔して。別になんでもいーよ……なんでもはダメだけど」  でもそれは全て、佐和の勘違いだったのかもしれない。  覗き込んでくる表情も声も、話していると楽しいと言って笑ってくれたことも。まるっきり嘘なのだとはなから知っていてなお、好きになってしまったのだ。  彼のペルソナの下が見たい。  佐和は、国枝の顔を見つめた。視線が合うと細められる妙に優しい目は、お前の考えなんて全部見透かしていると言わんばかりだ。 「はは……ほんとに、なんでもいいんですか」 「なんでもはダメだって」  気持ちを利用されていることはわかっているのに、止められない。国枝が女のヒモを長年やっている理由がよくわかる。  この人に根付いた深い闇を、もしかしたら自分なら祓ってあげられるのではないかと、この人の一番になれるのではないかと錯覚させてくれる。  もっと話したい、触れたい、認めてほしい。  依存と恋とエゴの混ざった沼の水面は、いつの間にか佐和の胸の中程にまで及んでいて、もう抜けられない。 「俺は、国枝さんがほしいです」  目を二度瞬かせて、少し驚いたような顔をしたあと、国枝はきゅっと唇を噛んだ。  その仕草の意味を、佐和はわかってしまった。うっかり唇が笑みの形に歪むのを堪えるために噛んだのだ。  予想通り、という笑いだろうか。まったく、小賢しい(かわうそ)みたいな男だ。  この人を少しでも、翻弄してみたい。佐和の胸がチリチリと疼く。 「それはどういう意味で?」 「そのままの意味です、あんたとのセックスがいい」 「うーん、そっかあ……」  国枝はため息をついた。  わざとらしい、俺があんたを好きなのを知ってるくせに。佐和は思う。 「まあ、いいけどね」  諦めたようにそう言ってみせるところまできっと、国枝の描いた絵。彼の手練手管。  反社とはいえそれなりの地位もある人間なのに、どこまでも自虐的で、自分の身体も心も大事にしていない。そんなところが愛おしい……と思ってしまうのは、きっと彼の思うツボだろう。 「あ、待って……もしかして今ここで? いいの?」  そっと抱き寄せる。初めて触れた腰は、思っていたよりもずっと細い。国枝はやんわりと、佐和の身体を押し返す。 「はい、あんたの心が変わらないうちに……ここで」 「じゃなくて、怖くないの? 俺が殺した川濱の組員、片付けてくれたの佐和くんでしょ」 「あ……」  国枝が連れ込まれたと思しき部屋には、マイナスドライバーの刺さった遺体が一つ残されていた。  耳の穴から脳みそを一突きにされた拷問係の男の死体は、下半身の衣服が無かった。萎びた陰茎には体液や潤滑剤が乾いたものが、ガビガビにこびりついていた。  おおかた、国枝を殺すついでに屈辱を味わわせようとして調子に乗って、返り討ちにされたのだろう。  男物のスーツには、ポケットが多い。薄いナイフや、それこそ小さな工具くらいならどこにでも隠せるだろう。  複雑な表情を隠しもしない佐和に、国枝はジャケットを少しめくって見せた。サスペンダーを着けていたことに、そこで初めて気づいた。 「身体検査、してもいいよ」  やけに挑発的な声のトーンに、佐和の頬がかっと熱くなった。 「ま、俺は佐和くんを信じてるけどね」  佐和は、自分より少しだけ背の低い国枝の頬に唇を寄せた。キレイに整えられた口ひげがちくりと当たる。 「俺の忠誠心を試してるんですか?」  頬を擦り寄せながら耳元で言うと、国枝はにわかにくすぐったそうに身を捩った。 「あははっ、やだな。雰囲気づくりだよ」 「別に俺は国枝さんにだったら、いいんですよ……」  殺されてもいい。  そう囁いてから、国枝の黒い髪に染み付いた香水とタバコの匂いを吸い込むと、もう止まらなくなった。  シャツを引き出して冷たい素肌の感触を確かめると、いてもたってもいられなくなり、性急に手を動かしてしまう。  国枝が小さく吐息を漏らすたび、彼を拷問した男の死に顔がちらつく。  骸といえど許すことができなくて、その場で頭を思い切り踏み砕いた。  頭と内臓は、さらに細かく砕き乾燥させて養豚場に。その他の肉は冷凍して、好事家の中国人の飼っている数匹のサーバルキャットたちにやった。  佐和という男は、解体屋であった。  バラしが上手いだけでなく、手堅い処理のツテを持っているというので、国枝から声をかけられたのが最初だった。  決して川濱に忠義がないわけではなかった佐和を、国枝が個人的に食事に誘ったりして徐々に懐柔していったのだ。  俺が死んだら佐和くんが解体してね。  そう言ったことを国枝はきっと憶えていないだろう。  憶えていなくてもいいと思えるほど、佐和は大人ではなかった。だから、国枝に触れたかった。小さくても爪痕を残したかった。

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