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【番外編】恋と毒刃②

「お金、払わせてください」  佐和は手持ちの数枚の万札を、あるだけ財布から取り出す。国枝に手渡すと、さすがに少し驚いた顔をした。 「え。いいよ、お礼だって言ったでしょ」  すっかりスーツの前を整えてしまった国枝は、何事もなかったようにタバコを吸っている。 「クリーニング代ですよ。いやマジ……がっついてすみませんでした」  うっすらと埃で汚れたスーツは、国枝が好きなイタリアのブランドものだ。佐和は申し訳が立たなくて、頭を下げたままになった。 「あ、それか同じものを買って返しますよ。サイズとか教えてもらえれば……」 「もう。わかったわかった、受け取るよ」  国枝は渋々と金を受け取ると、手早く枚数を数えて財布にしまった。 「そんな大したことしてないのに、お金まで……パパ活しちゃったよ、オッサンなのに」  国枝がタバコを吸い終えるのを待って、佐和は切り出した。射精後特有の、陰鬱さを伴う倦怠感が上ってくるのを、軽く頭を振って押さえつけた。 「また連絡しますんで」 「エッチしよって連絡? リベンジ希望?」 「あんたね……人の失敗をそうやって」  挿入はしなかった。というよりも、国枝に足先で軽く擦られただけで佐和が達してしまい、その後役に立たなかったのだ。  もとより、いくら誰も来ない路地裏とはいえ、こんな場所で最後までできるわけがなかったから、別にこれはこれでいい。……そうは思ってみたものの、すぐ射精してしまうなんてあまりにも思春期のようで、佐和は自分が情けなかった。   「わかりました、今度はハイアットの最上階にお誘いしますよ」  袖のボタンを留めていた国枝が、思わず顔を上げて佐和を見た。不貞腐れたようにそう言うので、つい吹き出してしまった。 「あっは、高級だね~! いいじゃん。刺青あっても入れるデカい風呂とジャグジー、最高だね。俺、鉄板焼きの鮑のやつが食べたいな。もちろん部屋で」 「オッサンのくせに港区女子みたいなことばっかり言って……」  次の約束を、自分にはできもしない夢物語で満たしても、寂しさは消えない。二人の時間が終わるのが名残惜しい。 「じゃ、おやすみ。そっちの状況も報告待ってる」  細い路地の向こう、表通りの喧騒の方へ、国枝は振り向きもしないで歩き去ってゆく。  ピンと伸びた白いスーツの背中がきれいで、声をかけそうになるのを必死で我慢した。  一人になった暗がりで、佐和は今までそこにいた国枝の痕跡を探すが、彼は徹底して、体液どころかタバコの吸い殻の一つも残していない。幻だったのかと思うほどに。  手の指に、国枝の匂いがほんのりとうつっていることだけが、証だった。  ふと、サルエルパンツの腰のあたりが重くなっていることに気づいた。深めのポケットに手を突っ込んで取り出す。  それはロックバック式の、小さな折りたたみナイフだった。国枝のものだろう。 「性格わるっ……」  国枝になら殺されてもいい、そう言ってポケットを調べなかった佐和に対する当てつけのようだった。  お前のことを信頼しきっているわけではないから、お前も俺を信用するな。  色ボケしてると寝首を掻くぞ。  国枝はそう言いたいのだろうか?  してやられてばかりで悔しい。  佐和は本当に東京のてっぺんで、反吐が出るような街並みを国枝と見下ろしたかった。  どれだけ自分が、国枝のことを思っているかを伝えながら。  もしかしたら。この先も生きていられたら、そんな途方もない夢だってワンチャンあるかもしれない。  昔からニンゲンの死体ばっかりバラしてきた俺にも、一度くらい運が回ってきてもいいだろ。  彼の抱く希望は、斜陽にあるジャパニーズ・ヤクザ・ドリームが水平線に落ちる前の、最後の輝きのようだった。  佐和はナイフを折りたたむと、ポケットにもう一度入れ直した。  しかしいつだって地を這う都会のネズミは、無謀な夢に囚われて上を向きすぎ、陽に目を焼かれて死ぬものだという。

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