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第9話
「七凪!」
岳の声が七凪を追いかけてくる。
七凪は高校に入ってから天文学部に入ったが、中学では陸上部だった。短距離だったら今でもサッカー部の岳に負けない自信はある。
けど、それはあくまでも短距離だったらの話だ。
学校と駅の中間くらいにある、通称“心臓破りの坂”を下りたところで、七凪は岳に捕まった。
七凪に追いついた岳は傘をさしていなかった。七凪と同じように頭からびしょ濡れで、前髪から雫が滴り落ちている。
「岳、傘は?」
七凪の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「傘を持ってたら七凪に追いつけないから、途中で捨てた」
心臓破りの坂の上で、岳の黒い傘が転がっているのが小さく見えた。
「取ってきたら?」
「七凪、逃げるだろ」
「もう逃げないよ」
岳は七凪に自分の鞄を預けると、坂道を駆け上がり、傘を拾うとあっという間に戻ってきた。
そうして一つの傘に収まった二人は無言で歩き出す。行き交う人が二人にチラリと視線を向けてくる。
「なんかこの傘、もう意味なくない?」
「でもこれ以上は濡れないだろ」
そう言って、岳は七凪の方に傘を傾けた。
岳の肩が雨に濡れている。いや、肩だけじゃなく、岳は七凪のせいで全身ずぶ濡れだ。
「七凪、さっきは叩いてごめんな」
なのに、岳はまだ七凪に謝ってくる。あれは七凪の方が悪かったのに。
岳は恋の媚薬を飲んでいる。好きな相手にいきなり股間を触られそうになったら、誰だってあんな反応をするだろう。
「俺の方こそ、ごめん」
もう部室でのことはどうでもよかった。ちょっと変わった趣向の動画だったのかも知れない。どんなに仲が良くたって、知られたくないことの一つや二つはある。現に七凪だって、岳に恋の媚薬を飲ませてしまったという、とんでもない秘密を隠し持っているではないか。
「もう怒ってない?」
「べ、別に最初から怒ってなんかないよ」
「よかった」
春の雨は冷たい。濡れて冷えてしまった身体を温めるような笑顔で、岳は七凪を包んだ。
出た、岳のこの目。
岳の眼差しから逃げるように彷徨う七凪の視線が、傘からはみ出た岳の肩で止まる。
傘の露先からポタリ、ポタリと落ちる雫が当たっていた。雨雫の一つ一つが岳の言葉にできない声のように、岳の肩に当たっては弾けた。
七凪が好き。七凪が好きだ。
雨音が七凪の心を叩く。
それから数日後の昼休み、蓮が七凪の教室にやってきた。
蓮も岳と同様、一年の時は同じクラスだったが二年で別々になってしまった。
「七凪、お願いがあるんだ」
蓮は七凪の机の前に来るといきなり拝むように手を合わせた。
何かと思ったら、蓮のお願いは七凪にというより、七凪の母親への頼み事だった。
蓮の家の近くには教会があって、春休み、妹と行った教会のバザーで蓮はある少女に一目惚れをしてしまったらしい。
少女の名前はバルバーラといって、それ以来、蓮はクリスチャンでもないのに毎週日曜日は教会のミサに参加しているのだそうだ。涙ぐましい努力だ。
それで蓮の頼みというのは、
「彼女はハンガリー人なんだ。日本に来たばかりで日本語はほとんど分からなくてさ、簡単な日常会話でいいんだ、七凪のお母さんに俺にハンガリー語教えてくれるかどうか聞いてもらえないかな?」
というものだった。
いいよ、と即答しそうになって、七凪はあることを思いついた。七凪の片方の口角が悪戯に吊り上がる。
「聞いてやってもいいけど、条件がある」
「なんだよ、条件って」
「この前の雨の日、みんなが部室で見てた動画、俺にも見せてよ」
えっ、と、蓮の顔が引きつった。
「あれは悠馬のスマホで見てたから、俺持ってないし」
「なんの動画だったの?」
「アダルトだよ」
「どんな?」
蓮は黙った。周りを見回し誰も自分たちの話を聞いていないか確認すると、小さな声でぼそりと答えた。
「男同士でやってるやつ」
今度は、えっ、と、七凪が顔を引きつらせた。普通のアダルトではないと思っていたが、まさか男同士のものだとは想定外だった。
だとしてもだ、あの時のみんなの七凪への態度は変だった。
「なんで俺に隠したんだよ」
「別に隠しては……」
「いいや、隠したね」
七凪がまったく納得していないという態度をあらわにすると、蓮は腹をくくったように白状した。
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