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第1話

 第一章 蒼穹遠く  龍は空を飛んでいた。  どこまでも高く、青く、澄んだ空だ。雲はほとんど見当たらず、太陽が暑いくらいに照りつけている。陽射しが白い鱗に跳ね返り、虹色の光を生む。  きれいだ。  龍はじゃれつくようなそのきらめきに夢中になって、くるくると宙を回った。  しばらく時を忘れて遊んでいたが、やがて飽きて、彼は地上を見下ろした。  空気がひどく乾いている。  龍は首を傾げた。彼は生まれたばかりの赤子のようなもの。なんの記憶も持っていない。眼下の景色に見覚えなどなかったが、それでもわかった。  何かが、おかしい。  なんだろう? 何がおかしい?  龍はあちらこちら目を走らせながら速度を上げた。  ずいぶん飛んだが、やせた土地しかない。大地はひび割れ、水田や畑の作物もうなだれている。見るからに弱々しく、いまにも倒れそうだ。  おかしいと感じたのは、きっとこれだ。  龍は小さな村を見つけ、上空をゆっくり旋回した。  空はこんなにも明るいのに、村は暗い。  人々は家の中にこもっているようだった。通りを行く人もなく、笑い声も聞こえない。よくよく耳を凝らしてやっと、ひそひそ囁きかわす声が聞こえてくるくらいだ。  誰もが息をひそめている。  妙な不安が、龍の胸をかきたてた。  龍は怖くなって村を離れた。どこか遠くへ行きたい。  ――……様……。  誰かに呼ばれたような気がした。  身体が重い。この暑さのせいか。それとも、胸を焦がす焦燥のせいか。  龍は少しずつ降下してきた。高度を保てなくなってきたのだ。もがき、あがいて、浮上しようとするものの、いままでできていたことがなぜかできない。  長く伸びた尾が上を向く。頭は下がっていく。  落ちる。  誰か止めてくれ。  龍が目を向けた先に、馬が走っていた。背に人を乗せている。ひとりは長身の男で、もうひとりは小柄な少年だ。 「龍神様!」  長身の男が叫んだ。  彼の声を聞いた瞬間、龍ははっきりと理解した。先ほど自分を呼んだのは、この男だ。  長身の男はこちらに向かって懸命に馬を走らせていた。小柄な少年が振り落とされないようしがみついているのが見える。  男が右手を伸ばした。  いまや龍は馬よりほんの少し上を飛んでいるだけだった。落ちてきたのが男にもわかったのだろう。彼は手を差し伸べている。助けようとしているのだ。  美しい男だった。長い髪と、彫刻のごとく端麗な顔立ち。だが、その目は吊り上がり、奥歯を噛みしめている。  彼の手が伸びる。  龍も力を振り絞り、手を伸ばした。白い鱗がさらさらと鳴り、姿が変わる。白く細い手足を持つ、人の身体に。  そして龍は、男の胸に飛び込んだ。         ***  誰かの足音がする。  もうちょっと寝ていたい。今日は何曜日だったっけ? 土曜日なら二度寝してもいいけれど、どうせ平日に決まっている。出勤して、仕事して、残業して、家に辿り着く頃には深夜に近いはず。  ああ、会社に行きたくない。疲れた。朝一番に思うことがこれって、人として終わっている。  俺は目を閉じたままスマートフォンを探した。いつも枕元に置いて、寝る前にはゲームとSNSチェック、朝にはアラームで起きる。  でも、今朝はアラームが鳴らなかった。  俺は目を開けた。  目の前に、知らない少年がいた。 「お目覚めですね」  何、これ。どういう状況?  さっき、誰かの足音で目が覚めた――たぶんこの子のだったんだろうけど、おかしいんだ。俺はひとり暮らし。もう長い間誰も家に泊めてないし、こんな子見たこともない。  少年は、だいたい十二、三ってところ。小柄だ。やや丸い、かわいい顔をしている。 「君、誰?」  不信感たっぷりに俺が尋ねると、少年はにっこり微笑んだ。 「申し遅れました。僕はショウレンです」  ショウレンは頭の上に布で髪の毛をまとめている。あんまり見たことのない髪型だ。服装も、日本のものじゃなさそう。前で襟を合わせるのは着物に似ているけれど、下はシンプルなズボン。  どうなっているんだ。 「お身体のお加減はいかがですか?」  ショウレンはにこにこしている。 「身体は……」  俺は自分の身体を見下ろした。ショウレンのと似た、白と緑の着物みたいな服を着ている。ただしこっちは、上着が長くて広がっているデザインだ。  なんだ、これ。こんなの着た覚えないんだけど。 「一応……、なんともない、かな……」 「よかった。まる二日お眠りになってらしたので、心配してしまいました」  俺が眠っていたのは、大きなベッドだった。寝台を囲む側面の板が上まで伸びて、天蓋と繋がっている。まるで箱。板は一部に透かし彫りが施されて、箱の中にいるわりにはさほど閉塞感を覚えなかった。  よく見れば、長辺は両方が扉になっているようだ。いまは部屋の扉に向いた側が開いていて、逆の窓側は閉じている。  だけど、まる二日眠っていたって?  理解できない。 「エイメイ様をお呼びしますね。少しお待ちください」  ショウレンは頭を下げて、部屋を出ていった。  残された俺は。 「……夢でも見てるのかな」  そのくらいしか、思いつかなかった。  とりあえず部屋を見てみよう。俺はそっと床に足を下ろしてみる。木の床だ。  白い壁と濃く塗られた茶色の柱、欄間には凝った透かし彫りが見える。箱ベッドと同じ意匠かもしれない。  ベッドのほかには、部屋の中央寄りにテーブルと椅子、壁側に小ぶりな机と椅子。それから棚、箪笥、鏡台。どれも見たことがないものだ。  広い。この部屋だけで二十畳くらいありそう。  窓は丸い。嵌っているのはガラスじゃなくて、障子だろうか。  入口の扉は両開き。その扉が、開いた。 「失礼いたします」  入ってきたのは長身の男だ。背筋が伸びて堂々としている。服装は俺と似たもので、色は光沢のある紺だ。歳は二十代後半くらいか。長い髪を半分垂らして、半分は上で丸くまとめている。  俺はぽかんと口を開けていた。  びっくりするくらい整った顔だ――でも、どことなくこの人、見覚えがあるような……それも、つい最近。 「目覚められてよろしゅうございました。お身体も問題ないようだとショウレンは申しておりますが」  そのショウレンは、彼の後ろに控えている。  俺は我に返った。 「ああ、まあ、大丈夫そうだけど」 「お待ち申し上げておりました。龍神様」  龍神って、あの龍神……だよな。神社とかに祀られていたり、アニメでは最後の切り札だったり、ラスボスだったりもする、龍の神様。  俺がよほど変な顔をしていたのか、彼は片方の眉を上げた。 「龍神様? いかがなさいました?」 「違う」  俺が言い、彼が目を見開く。 「俺は龍神じゃないよ。ただの人間」 「しかし、天から降りていらっしゃったでしょう」 「なんの話? そんなの――」  知らない、と言おうとして、思い出した。  目が覚める前に、変な夢を見ていた気がする。空を飛ぶ夢だったような……。 「でも、違うと思うよ。あれはただの夢だし、これだって夢かもしれないし。俺の顔見ればわかるだろ? 普通の人間だって」  彼はなんともいえない、理解したがいものを見るように俺を見て、その後ショウレンを振り返った。 「龍神様に鏡をお持ちしなさい」 「はい」  ショウレンは鏡台の引き出しから手鏡を出してきた。 「どうぞご自分のお姿をご覧ください」

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