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第2話
俺に向けられた鏡。
映っていた俺は、俺じゃなかった。
髪は白で、ところどころ銀色に輝いている。肩にかかるくらいの長さ。前髪の下にはぱっちりした、深い緑色の瞳がある。髪と同じくらいに白い肌。頬がちょっぴり上気している。全体的に見てかなりきれいな顔だけど、全然、まったく、見覚えがない。
もっと驚いたことがある。
白い頭の上に、瞳と似た緑色の、角のようなものが二本生えていた。
「え? あ? あれ? 鏡、変じゃない?」
頭の角に触ってみる。鏡の中の俺も、同じ動作を取る。
ショウレンが首を傾げた。
「龍神様は、ご自分がどなたかもおわかりでいらっしゃらないんですか?」
「そんなわけないだろ! 俺は日本人で、会社員で、今日も仕事だから出勤しなきゃいけなくて! それで、名前は……。名前、は……」
出てこない。
「名前……名前……俺の名前……」
おかしい。どうして出てこないんだ。自分の名前を忘れるなんて。
「ち、違うんだよ。ちょっと混乱してて思い出せないだけで、名前はちゃんと……」
ちゃんとある、はず。
「とにかく、俺は日本人なの。会社に行かなきゃいけないんだよ。こんなところで寝てる暇ないの。だいたい二日も寝てたなんてありえないんだけど! ここ、病院? 俺ってなんか怪我でもした?」
自分で言った言葉に、ざわりと鳥肌が立った。
怪我……したかもしれない。頭に浮かんだんだ。ここに来る前に何があったか。
俺は連日の残業で疲れ果てていた。出勤しようと歩いていたら気分が悪くなって、でも会社には行かなきゃいけないから、ふらふらしながら横断歩道に向かって……。
信号は、赤だった。
あ、ヤバい――なんて、気づいた時にはもう遅くて。
右から白いタクシーが来た。俺はそっちを向いた。
そこで記憶が途切れている。
「俺、車に、轢かれた? 救急車で運ばれたってこと? 会社に連絡しなきゃ!」
「龍神様」
彼が止める。なんの感情も窺わせない顔だ。
「何をおっしゃっているかはわかりませんが、ここは龍神様のために建てられた祠廟です。どこにも行く必要はございません。どうぞごゆるりとお過ごしください」
何を言っているかわからないのはそっちだ。ここが俺の家でも病院でもないなら、「ごゆるりと」なんて過ごせるもんか。
「俺のスマホどこ?」
「すま……? なんですか、それは」
「電話! 端末!」
「でんわ……? たんまつ……?」
彼は眉をひそめている。
スマートフォンを見れば、俺の名前だってわかるはずなんだ。メッセージのやり取りもプロフィール登録もあるんだから。
「なんで……。なんで名前が思い出せないんだ。おかしいよ」
住んでいた場所とか、会社員だったこととか、仕事がしんどかったことなんかははっきり覚えている。それなのに、名前だけが思い出せない。
「あの、龍神様。お名前がないと不便……ということでしょうか?」
ショウレンがおずおずと進み出た。
「……違うけど。でも、そう」
「でしたら、河伯(かはく)様とお呼びするのはいかがでしょう? 伝承にある龍神様の呼び名のひとつですし、ふさわしいかと思います」
河伯。
その名前を聞いて、なぜだか俺は落ち着いた。知らない名前だ。日本人の名前でもない。なのに、不思議としっくりくる。
「ああ……。まあ、いいよ。それで」
「ショウレン。龍神様に名づけるなど畏れ多い」
長身の男が少年の腕を掴んでいた。
畏れ多いとか、そんなの、どっちだっていいよ。
「それで、あんたは? あんたの名前はまだ聞いてないよ」
睨む俺に、彼は目礼する。
「大変失礼いたしました。私はシュウ・エイメイと申します。龍神様の世話役を仰せつかりました。どうぞなんなりとお申しつけください」
「帰りたい」
「それは困ります」
間髪入れずに言い返しやがって。どこが「なんなりと」だよ。
エイメイはショウレンを手で示した。
「身の回りのお世話はこちらのショウレンがいたします」
「よろしくお願いいたします」
少年はぴょこんと頭を振る。
「ほか、お食事やお着替え、ご入浴のお世話などは祠廟の者がさせていただきます。のちほどご挨拶させます」
「俺は王様かなんかなの?」
「あなたは龍神様ですが」
ああ、そう。
俺は持ったままの鏡を見る。不機嫌そうな顔の男が映っている。こんなの俺じゃないと思うのに、その表情を見ていると間違いなく俺だとも思えて、変な気分になってくる。
この表情、俺そのものなんだよなあ。数分見ているだけでどんどん見慣れてきちゃうから始末に悪い。
それから、もうひとつ。
「祠廟って何?」
「神を祀る社です」
神社みたいなものか。
「その割にはこの部屋変じゃない? なんで机とか寝る場所とかあるの。神様は人間界には住んでないんでしょ? ここ、誰の部屋?」
「ここは龍神様のお部屋です。祠廟には管理人がおりまして、いつ龍神様が顕現してもよろしいように万端整えてございます」
「そうなの?」
「はい。龍神様にはお部屋が必要でしょう。むろん、寝台も」
そうなのか?
「龍神が俺みたいなのばっかりなら、そりゃあそうだろうけどさあ」
俺は疲れを覚えた。
「ねえ、喉が渇いた。なんか飲みものない?」
「お茶をお持ちしますね」
ショウレンが答えて、部屋を出ていった。
お茶かあ。できればスポーツドリンクとかミネラルウォーターがよかった。もしくは、エナジードリンク。いや、仕事はもうしなくていいんだっけ。それならエナジードリンクはいらないか。だけど、この状況って本当に現実? 目が覚めたら病院のベッドの上だったりしない?
「よくわからないな」
俺が呟いたのを、エイメイが聞きとがめた。
「龍神様。本当にお身体は問題ないのですよね?」
「うん。ない、と思う」
「ですが、何も覚えていらっしゃらない」
「覚えてるってば。名前が思い出せないだけ」
「いえ、私が申し上げているのはそういうことではなく」
じゃあ、なんだ。
「ひとつ確認させていただいてもよろしゅうございますか」
改まって言われると、嫌な予感がする。
「ご自身のお力を使う方法はご存じですか?」
「龍神ってなんか力があるの? 神通力ってやつ?」
「そうですが……」
エイメイは天を仰いだ。その仕草の意味はよくわかる。
――だめだ、こいつ。
目の前で自分に向けてやられると、結構腹が立つ。
ショウレンがお茶を持ってきてくれた。俺が想像したのとはちょっと違った。二口くらいで飲み終わってしまいそうな小さなカップに、色の濃いお茶が入っている。
「どうぞお召し上がりください。その後で、ひとつひとつお話しいたします」
エイメイが無表情に言った。
この部屋には全員分の椅子はない。自分だけ座るのも嫌で、俺は立ったまま小さなカップを手に取った。
ひと口含んだとたん、濃厚な風味が広がった。全体的には渋いのに、ほんのり甘みも感じて、後味はすっきりしている。
少ない量でも一杯でかなりの満足感。日本では飲んだことのない、新感覚のお茶だった。
「美味しい」
素直に口から零れた。
ショウレンが無邪気な笑顔を見せる。
「こちらは都でもごく一部の方しか口にできない、大変貴重なお茶なんですよ」
それを早く言って。
「次からは普通のお茶でいいよ。これは確かにすごく美味しいけど、そんな高級なお茶俺にはもったいない」
エイメイが意外そうに俺を見た。
この人はさっきからずっと何か言いたそうにしているんだよな。
盆にはカップがあとふたつ。
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