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第3話 耐える力とその姿
僕の治療の日々は、朝起きてから寝るまでずっとサトルとともにあった。
行動療法により性的指向の矯正が行われ、全体的に性欲を抑えるための薬物療法を並行して受けていた。
仕事は所内で出来るようにしてもらい、治療時間以外はずっと担当作家と連絡を取り続けることが出来るようにしてもらった。
先生方に直接会いに行けなくなったため、サポートが行き届かなくなることを恐れていたのだが、自分だけでは不足しがちな面を雑誌編集をしている仲の良い同僚の高橋がサポートしてくれていた。
そのため、毎日淡々と治療と仕事に明け暮れていた。
そして、その合間によく見かけたのが、女性がサトルとお近づきになろうと躍起になっている姿だった。
「ねえ、世理さんって甘いもの食べるんだっけ? 確かどこかのお店で食べてるって言ってなかった?」
「駅前通り沿いのオールソーツでしょ? イケメン店長がいるところ」
「買ってきてお茶に誘おうよ。世理さん、食事に誘っても絶対行かないらしいから。まずはテラスでお茶しよう」
そう言って数人の女性がオールソーツでクッキーやケーキを買い占めてくる姿を何度も見た。
ただ、サトルはいつも一人でいて、時折とても背が高くてがっしりした体格の同僚と話すくらいで、その人以外と口を利いている姿をあまり見たことがない。女性に話しかけられても必要最小限の会話で済むようにしていた。
それでもとても人気があり、たまに本人が全く関係無いところで、空想上の奪い合いが発生していたりした。
僕は最初にそれを見た時、失礼だなとは思ったのだけれど、じっと見惚れてしまったほどの見事なキャットファイトだった。
「サトルは全く関わってないんでしょ? あの争いはほっといていいの?」
「ん? あー、あの子達だろ。やべーよな、俺がいないところで俺の取り合い……俺はそもそも女に興味ないし、それを知ってるはずなのにあれだからね。恐ろしいよな」
そう言って僕の方を見ると「そう思わねえ?」と笑った。
その笑顔は、とても柔らかくて穏やかで、ずっと見ていたいような魅力的なものだった。
治療が始まってすぐに敬語を使うのやめて以来、友人のように接してくれることに甘えさせてもらっていた。
そもそも僕には友人など高橋と葵くらいしか思い浮かばないが、その二人にも会えないとなると途端に寂しくなってきて、サトルが治療時間に自室へ来てくれることを心待ちにするようになっていた。
サトルへ開かれていく心は、日毎に勢いを増していくようだった。それも仕方がないと言えばそうだ。毎日、自分のあられもない姿を全てを晒し続ける生活を余儀なくされてるのだから。
VRゴーグルをつけ、リョウとミドリの映像を見ながら、性的興奮が起きる度に成人女性の映像を刷り込まれた。錯覚を利用して行動随伴性を作り上げていく治療法だ。幼児に対する性愛を、大人に対して抱いた感情だと思い込ませていく日々だった。
同時に、幼児に対して起きる興奮は常に計測され続け、それを感知された場合には、電撃による行動制限をかけることも並行して行われる。
人前で、性的興奮を無理に起こしては罰を受け、もしくはそれを違うもので助長して、そのまま解消するまで観察される。
一日の治療の完了は、数値上の確認と、僕の手が白く汚れているのをサトルが目視確認するところまで含まれる。心をあけ渡すくらいの覚悟がないと、とても毎日続けることは出来ない。
サトルは僕が不安感なくそれを出来るように、いつも僕を励まし続けてくれた。
同時に投薬によるホルモンのコントロールを行ったことで、幼児に対する性的興奮は徐々に起きなくなって行った。
最初に治療の効果を実感したのは、入院してからわずか三ヶ月でのことだった。
「すごい、あんなに苦しんでたのが嘘みたいだ!」
そして、ある日ふと気がついた。毎朝、サトルが来ることを楽しみにしている自分がいた。それは、友人に会う楽しみとは少し違っていた。
心地よい動悸、気分の高揚、時間を共有することへの興奮。近づきたい、触れたい、愛されたい……
いつの間にか僕は、サトルを好きになっていた。
自分の隣で僕のいろんな姿をチェックをしている時の横顔、その香りに次第にクラクラとめまいが起きるほどに魅了されていった。
真剣に計測結果を読み込んでは、結果が良く出ると不意に僕に向けられる笑顔。それをずっと見ていたいと思うようになっていた。
ただ、最初はあまり無邪気にその気持ちを喜ぶことは出来なかった。これは刷り込みの結果に起きたことであって、自然な恋愛感情とは違うのだろうと思っていたから。
子供を傷つけないのであればなんだっていいと思って始めたことだった。でも、自分の恋心が治療の上にしか成り立っていないのであれば、少しだけ寂しいと思ってしまう。そんな自分に驚いていた。
隣を見ると、輝くように美しい銀色の長い髪がある。「白髪が多いからめんどくさくなって」幼馴染の美容師に相談したところ、研究職で頭髪に規則が無いならばとシルバーにすることを勧められたのだと言う。
そのサラサラと光り輝く髪は、肩下まで伸びている。サトルが振り向くとそれがゆらゆらと揺れ動く。その様はいつも優雅で妖艶だ。
シルバーフレームのメガネの奥に鋭い目を隠しているが、それが向かう先はいつも研究結果であって、人への攻撃性はない。
むしろ、いつも自分を弁えて人との距離を調整し、穏やかに接するように徹底している。
そうそう出会えることのない、とても素敵な人だと会う度に心が柔らかくなるのを感じた。
恋心に気がついてからしばらくしたある日、それを持て余した僕は、ついうっかり訊ねてしまった。
「僕、サトルを好きになっているみたいなんだけど、これは治験の予定通りの結果だということで合ってる?」
それを聞いたサトルは、かなり面食らっていて、驚きのあまり、手にしたデータを全て下に落としてしまった。
印字したものだったからよかったものの、タブレットを落としては大変だと慌てる姿が愛らしい。
しばらくそうやって慌てふためいた後、少し間をおいて優雅にふふっと微笑んだ。
「いや、確か女性を好きになるようにプログラムされていたはずだ。VRの女性よりも、俺の方が魅力的だったのか?」
「え? ち、違うの? え? なんか、ちょっと、あの、僕、その、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……」
つまり、僕は自然にサトルに恋をしていたのだった。
この質問は、結果的にサトルへ告白になってしまった。
出来ることならこのまま逃げ出してしまいたいと思い、俯いてベッドのシーツを思いっきりギュッと握りしめた。
「そうか、俺に好意が向いたのか……」
そう呟いた声に体がカッと熱くなった。真っ赤になった顔を両手で隠すくらいしか逃避することが出来ない状況に絶望していた。
サトルはゆっくりと椅子から立ち上がると、穏やかに微笑みながらその長い腕で僕をふわっと包み込んだ。そして、少しだけぎゅっと力を込めて抱きしめてくれた。
「気が合うな。ちょうど俺もお前が好きになっていたところなんだ。治療してすぐに両思いになれるとは恵まれてるな、優希。頑張ったご褒美になったんじゃないか?」
そう言うと、僕が必死に顔を隠していた手を優しく握りしめ、その温もりを味わうように口づけた。
その展開を想像していなかった僕は、頭がついていかず、色々と言いがかりをつけてはそのラッキーを否定しようとしていた。
「自分がゲイだとしても、ペドフィリアは気持ち悪いでしょ? 小さな子供に興奮するヤツなんて、触りたくもないでしょ?」
一般的には、実験対象だったペドフィリアのバイであった男から、いきなり「好き」だと言われてたとしても受け入れ難いに決まっている。
だから、すんなりと自分を受け入れてくれたサトルのことが最初は信じられなかった。
そうだな、と目を閉じて思い出しながら、サトルはこう答えた。
「毎日健気に頑張るお前の姿を側で見て行くうちに、自然に好きになっていったから……。お前の治療に関する苦痛は、全て数字で現れる。それを毎日黙って受け入れている姿は、感動ものだぞ。尋常じゃない辛さだろうに、それを耐え抜く強さは素晴らしい。その強さに憧れたのが始まりかもな。尊敬から好意に変わっていった感じだな。痛みも恥ずかしさも、全ての苦痛が数字になって現れるんだぞ。普通なら逃げ出すような辛い治療だ。それに耐えることが出来たモチベーションが、弱者を傷つけたく無いからという、強く優しい願いだった。人のためを思う気持ちが強い人なんだなと思うと、もう一直線だったな」
そう言いながら、サトルは僕の額にキスをくれた。その唇が触れた時、あの十八歳の日にお風呂場で感じた異変と同じことが起きつつあるのを感じた。
僕はそれがとても嬉しかった。あんなに自分を嫌悪した感覚を喜ぶ日が来ようとは思いもしなかったから。
改めてそれを感じていると、ぐっと溢れそうになるものがあった。
「叶えてはならないものを持ってた僕を救ってくれてありがとう。気持ちが悪いものとして見ずに、同情してくれて導いてくれて」
堪えていたものが限界を迎え、ボロボロと零れ落ちる。サトルはそれを指で拭いながら、ポツリと呟いた。
「同情か……それもあるのかも知れないな」
サトルにも、マイノリティの苦悩は少なからずあった。僕もサトルに関して、理解の無い声を何度か聞いたことがある。
ペドフィリアとゲイでは、犯罪かそうで無いかと言う時点で厳密には違うと思うけれど、マイノリティとして似ているところはあったのだろうと思っている。小さなテリトリーを持ち、その中でひっそりと生きてきたはずだ。
たまたまマジョリティとして生まれてきた人々に、何の疑いもなく無邪気に傷つけられることが起き得る日々を、サトルもまた生きていた。
ただ、僕だって受け入れがたく理解したくないと思う事を、排除したくなる側の気持ちもわからなくもない。だから、どんな目に遭ってもそれはこちら側に非があるのだと、心のどこかで諦めていた。
「俺は基本的に、言いたいヤツには言わせておけばいいし、自分も自分を大切にして、傷つく必要はないと割り切って来た。それでもそれなりに不満はあったんだろうな。自分よりも大変な状況下にいるのに健気に生きているお前の姿が、自分を惹きつけて止まなかったんだ」
◇◇◇
あの日から僕とサトルは、過去の問題も含めて、これから先も共に生きていく関係になった。そしてこの後からの治療の全ては、パートナーであるサトルに全て委ねられた。この治療は近しい人が診た方が結果が現れやすいからと、それが許されているらしい。
「だから、いなくなったら嫌だよ。今更僕をひとりにしないで」
何度もこの言葉を繰り返した。自分の中では、誰よりも心の底から信用できる人。そんなサトルのような優しい人間が、命を狙われていたとは思い難い。思いたくない。
それに、自分たちは、ただ愛し合った奇跡を大切にして、穏やかに生きて行きたいだけなのだ。それすら許されないのだろうか。
でも、たとえ誰かに迷惑をかけたとしても、もうサトルと別々に生きていくことは考えたくない。
僕はパートナーだ。入籍は出来ないけど、緊急時に面会できる資格はある。何かあれば、判断を任されることも出来る……。そう考えながら、流れていく夜景を見ていた。溢れていた陽気な人々はいつの間にか消え、見えているものは病院の灯りのみになっていた。
ふと触れた左手の指輪は、心に決めた人だけに思いを寄せる僕の体に、甘い痺れのような優しい電流を流してくれていた。
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