5 / 31

第4話 二つの指輪

◇◇◇  「ん……」  鼻先をうっすらと、コーヒーのいい香りが擽る。その香りを嗅ぐと能天気な笑顔の葵が目に浮かぶようだった。  そういえばオールソーツに行く途中だったなと思い、パッと目を開く。視力のひどく悪い目には、目の前に浮かぶ白いものがなんであるのかがわからない。  僅かに首を捻り周囲を見渡す。色味しかわからない状態ではあるけれども、とりあえずここが自分の家ではないことだけは確かだった。    コーヒーの香りの向こう側に、消毒液の匂いがすることに気がついた。今やどこへ行ってもアルコールや次亜塩素酸の匂いが付き纏うが、それが異様に強い。それでふと、自分が刺されて救急車で運ばれたのだと思い出した。  それを忘れてしまうくらいに、目覚めは良く、気分はスッキリとしていた。 「ああ、そうか。病院……」  あの量の出血で助かったのかと、我ながら運の強さに驚いた。 ——助かったのは幸運だが、刺されたのは間違いなく不運だけどな。  暗がりで後ろから突然、誰だかわからない女に刺された事だけはわかっている。焼けるような痛みと出血による急激な血圧低下で、強烈な不快感に襲われた。  そして道路に倒れ込んで……あの後どうやってこの状況になったのだろうか。 「悲鳴はミドリだったはず……大丈夫かな、あいつ」  発見した時は恐ろしかっただろう。曲がり角を曲がったら、すぐに血溜まりとそこに倒れている俺が見えたはずだ。  ミドリとは直接話したことは数回しかなかったけれど、確か血が苦手だと言っていた。  それなのにあの現場に居合わせるなんて、トラウマになっていないといいけれど、と申し訳ない気持ちになった。  とりあえずメガネをかけようと思い体を動かそうとするが、重だるくてなかなかいうことをきかない。モゾモゾとどうにか寝返りを打とうとしたところ、左側に人の気配がした。  刺されたばかりの人間にとって、人の姿が見えずに気配だけを感じられる状況は、恐怖でしか無い。俺は首だけを捻り、視線をそちらに動かした。  するとそこには、夕焼けの光の中に紛れて、オレンジ色のくるくるとした巻き毛が揺れていた。その中に埋もれていたのは、頰にうっすらと涙の跡を残し、疲れ切って眠る優希の横顔だった。 「優希」  優希はベッドの端に頭をもたげて、顔をこちらに向けたまま突っ伏して寝ていた。俺はフワフワの髪を少し指で掬おうとした。しかし、途端に左脇腹に鋭い痛みが走り、思わず「うっ」と声を上げてしまった。起こさずにいようと思っていたのに、思いの外大きな声が出てしまった。しまったなと思いつつ優希の方へ目をやると、声に反応したのかゴソゴソと起き上がろうとしている。 「……サトル?」  優希は寝ぼけたままこちらをしばらく見ていたが、俺が目を覚ましたのだと理解するとガバッと上体を起こした。大きな目を見開いてじっと見つめると一度大きく息を飲んだ。どうやら軽いパニックに陥ったようで、俺に向かって手を伸ばしかけたかと思うと、今度は遠慮がちに引っ込めるという行動を繰り返している。  胸に溢れ出しそうなものを堪えながらも、パートナーとしてやるべきことを思い出そうとしているようだった。 「よか……よかった。サトル、よかった。本当に。よかった……えと、そうだ、僕、先生に連絡しないと」  そう言いながら、立ち上がろうとした。けれども、カタカタと震え始めた体では全く力が入らないらしく、なかなか立ち上がれなかった。そんな優希を見て、俺はその体に触れようと、痛む脇腹にかまわずに手を伸ばした。 「優希」  しかし、手が届くよりも先に、鋭い痛みがビリビリと左半身を駆け抜けていった。意思でねじ伏せられるほどの痛みでは無く、どうしても手を伸ばすことが出来無い。 「いっ……」  それでも、俺はこのタイミングで優希に触れてあげないといけない。治療によりせっかく身についてきたものを、ここで無駄にさせたくなかった。  優希は、泣くことは悪いことだと親から刷り込まれて育っている。子供が嫌いな母親から泣くことを疎ましがられ、強くそれを制限されて育っていた。  母親は継母で、優希は父の連れ子だ。実母から捨てられたと思っていた優希は、継母に嫌われたくなくて必死になってその理不尽な躾を守っていた。実父が不在がちだったことが災いして、誰もその継母のエスカレートしていく躾と言う名のDVを止めることが出来なかった。そのうちに、子供らしい行動のほぼ全てを禁止され、それが普通だと思い込んで育ってしまった。 「泣くな、笑うな、騒ぐな、喋るな、存在感を出すな、じっとしてろ、寝る時以外はどこかに行け」  リョウとミドリは、何度も優希が壁に叩きつけられる音を聞いている。それでも優希が反抗することは無かったそうだ。自分の人生を自分で生きていくために、耐えに耐えていた。結果としてとても我慢強く育つことは出来たが、同じくらいに心に傷を負ってしまったのだった。  その悪影響が多方面に渡って出ていたのだが、そのうちの一つが、追い込まれた時にそれを病的なまでに隠そうとしてしまうことだ。  そこで、ペドフィリア治療チームは、その治療と並行して、トラウマ排除のために泣くことを許可するスイッチを優希の中に作った。    今の優希は、ルーティンを行うことでようやく自分が泣くことを許せるようになってきたところだ。この五年の間でようやくそこまで来た。だから、明らかにパニックを起こしている今、きちんと泣くという行動をとっておいてもらいたい。そうすることで解消される事もあるのだと知ってもらいたい。  抱えている問題のうちのほとんどは、親からの酷い扱いによる自信の無さが原因になっていた。だから、俺という当然のように愛情を返してあげられる存在が手に入ったことで、ほとんどの問題が解消もしくは縮小されていった。  ただ、今回刺されたことでまたそれを失うかもしれないという恐怖が、自分の価値を無くしていくと思い込ませてパニックを引き起こしている。俺がいれば大丈夫だと思っているということは、言い換えれば俺がいなくなるとダメだということだ。それでは依存していることになってしまう。そうではなく、自分だけでも感情の制御が出来るようになれるのが理想だ。  このタイミングを逃すと、またペースが狂ってしまうかもしれない。下手をすると、スタートラインに戻ってしまうかもしれなかった。  それに、俺自身も優希の温もりを感じたい。気がつけば、段々と命を奪われかけた恐怖が背筋を冷やしていくようになってきた。その想いから逃れたい。  死にかけたのだという思いは、一人では抱えきれないほどに重くのしかかってくる。  一人では無いという実感が欲しい。優希に触れることで、それを確たるものにしたかった。  俺の想いが通じたのか、優希はふと顔を上げて、じっとこちらを見つめた。見つめて、これが夢では無いのだと確認しているようだった。 「優希」  俺の声にピクリと反応した優希は、ゆっくりと這うようにこちらへ近づいてきた。そして俺の頰に自分の右手を当て、今目の前の俺がちゃんと生きているという証である体温を確認していく。 「あったかい」  俯いてポツリとそう呟いた。  俺はその手に頬を擦り寄せ、今度は俺が優希の存在を確認した。 「心配したよな? ごめんな。怖かったな」  オレンジ色の巻き毛に指を入れ、優しくかき混ぜた。それを大人しく受け入れていた優希は、左手の薬指に嵌めた指輪を俺のものと重ねた。  二つの指輪を軽く衝突させると、キィンと軽い金属音を立て、空気を波立たせていく。それは優希の涙腺を優しくほぐしていった。  ひく、と僅かにしゃくりあげる声が漏れた。微かな振動に揺れる細胞が、泣いていいよと優希に伝える。その度に、ひくっという声をまた漏らした。  キィン、ひっく。キィン、ううっ。キィン……  そうやって泣く準備を整えた体が、ようやく優希にそれを許可してくれる。 「ふっ、うう……。よ、良かった。ほ、本当に……。い、い、いなくなったら、どうしようかっ……て、おもっ思って……」  そう言うと、堰を切ったように泣き始めた。  感情が洪水のように溢れて、子供のような泣き声と涙と共に、優希の中を流れ落ちて来た。その勢いは強く、心の底にたまった澱を、まるで存在しなかったかのように綺麗に消し去っていった。  温もりを感じる事。そして、指輪を鳴らすこと。ぶつけたその影響で、中の装置を作動する。そこから発生する音波が優希を強制的に涙させる。  これを習慣化し、優希が「泣いてもいい」と自分を許すための条件づけになるように訓練を重ねて来た。  その一連の流れがうまく行えたことで、俺は安心して優希を抱きしめた。 「うん。大丈夫。俺はお前を遺して死んだりしない」  俺がそういうと、優希は肩を拳で叩きながら「死にかけてたくせに!」と言った。「あ、そうだったな」と俺が返すと、信じられないと言う顔をして笑い始めた。その涙に塗れた笑顔には、深い安堵の色があった。 「い、いなくなったらダメだからね」  俺の腕に縋り付くようにして、優希は叫んだ。 「うん」  俺はその腕をぐいっと曲げて、優希を側へと引き寄せる。 「こんなに好きにさせておいて、置いて行かないでよね」  涙でぐしゃぐしゃになった顔を近づけて訴えてきた。 「うん。約束するよ」  優希は俺の体に負担がかからないように、しっかりと腕で体を支えながらも顔をさらに近づけてきた。 「絶対だよ!」  俺は「うん」と言いながら、そのまま優希の後頭部をそっと支えて引き寄せ、お互いの傷を塞ぐように深く口付けた。

ともだちにシェアしよう!