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第5話 black and white
◇◇◇
「今何時なんだろう……サトルさんがここに運ばれてから、どれくらい経ったかな……」
窓の外には墨を落としたような青黒い夜空が広がっていた。
その中で、病院の敷地内にある街灯と遠くに立ち並ぶビルの灯りが、キラキラと輝いている。
日暮の中で倒れていたサトルさんが運ばれてから、もう随分長い時間が経ったように思う。
付き添いで病院へとやって来た俺は、急いでいたために時計をするのを忘れていた。そのことに、今になってようやく気がついた。
そして、サトルさんの手術中に待合室で待っていたのだが、碧 の目が覚めたと聞いて、その顔を見るために、今は廊下を走っている。
「走らず歩いてくださいね!」と声をかけられた。聞こえてはいるけれど、どうしても聞き入れられそうには無い。
「念のために入院していただきます」と言われただけだから、きっとどこも悪くないとは思っている。でも、やっぱり碧 を一人で行かせるんじゃなかったと、後悔していた。
大柄でショートカットの碧 は、暗がりだと男性に間違えられやすい。だから、「暗くなってるけど、一人でも大丈夫だから。サトルさんみてくるよ」と、一向に現れないサトルさんを探しに行った。
そして、店の裏で血の海に倒れていたサトルさんを見つけ、そのまま倒れてしまったらしい。
頭を打ったわけでもないらしく「おそらくショックで倒れているだけです。ある程度の検査が終わったら、目が覚めるまで待ちましょう」と言われた。
待合室から少し離れていた病室の前に立つと、混乱する頭を落ち着かせるために呼吸を整えた。口から全ての息を吐き切ると、優希から教えてもらった四七八呼吸法をやってみた。
「ふー、すー、ん、はー」
カウントと呼吸に集中すると、頭がどんどん冷えていく。もう一回、もう一回……何度か繰り返した後、短くはっと息を吐いた。
——うん、よし。大丈夫。
そして、ゆっくりと中に入って行った。
部屋は暗く、カーテンの向こう側にぼんやりと先ほど見ていた街の明かりが透けて見えているのがわかった。その光に照らされて、碧 の姿が浮かび上がっている。
どうやら目を覚ましてからは体を起こしていたようで、入り口に背を向けて窓の外を眺めていた。
——きっとあの目をしてるんだろうな。
碧 は時折、何を思っているのかわからないビー玉のような目をすることがある。ストレスを逃がすために、必死になって戦っている目だ。ああやって座り込んで身じろぎもしない時は、そうなっていることが多い。
「碧 。大丈夫?」
怖がらせないように、そっと声をかけた。碧 が勢いよく振り向く。外の光は、真っ黒な碧 の髪色がわからなくなるほどに赤かった。どうやら近くに救急車が停まっているらしい。
碧 はその真っ赤な光に包まれ、やや脅えたような表情で俺を見た。
「リョウ……」
俺の顔を見て安心したのか、ほっと表情が緩んでいくのがわかる。サトルさんはかなり出血していた。碧 はそれを暗闇で一人で見たばかり。そのせいか、いつもより多少怖がりになっているようだった。
「サトルさんはどうなったの? もしかして、私も倒れた? 私も救急車で運ばれの?」
ベッドの柵には佐野碧様と書かれたネームプレートが見える。碧は「アオイ」と読む。ただし、オールソーツにいる時は「葵」さんがいるので、店では「ミドリ」と呼ばれている。
俺は葵さんに出会う前から碧と一緒にいるので「ミドリ」と呼ぶのは抵抗があり、店に一緒にいる時だけ「ミドリ」と呼んでいる。それ以外はいつも「アオ」と読んでいる。そして、そう呼ぶのは俺だけだ。
ついでに言うと、俺は「了」と書く。ただ、サトルさんの漢字も「了」なので、二人とも名前を書く時はカタカナで書くようにしている。「アオイとか了とかややこしいなあ」と優希さんが笑っていたことを思い出した。
サトルさんを発見した後に気を失っていた碧 は、病院に運ばれたあたりのことは覚えていないらしい。俺はサトルさんを見つけてからの流れを碧 に説明した。
碧 は店の裏の曲がり角付近で倒れていたサトルさんを見つけた後、救急車を呼んだが大量の血を見た事で倒れてしまった。ただの貧血というよりは、おそらく過去の記憶が蘇らないようにするための自己防衛だ。
碧 の両親はかなり不仲で、母親がよく自殺未遂を起こしていた。何度か手首を切っては倒れており、それを発見するのはいつも碧 だった。そのうちに碧 は血が苦手になってしまった。血を見るとその当時のことを思い出すのか、極端に嫌がるようになっていった。
「サトルさんと一緒に運ばれたんだよ。サトルさんはまだ目を覚まして無い。でも優希さんがサトルさんのそばにいるから、心配はいらないよ」
そう言って微笑んだ俺を見て、碧 は何か引っかかったようだ。眉間に皺を寄せながら、俺の腕にそっと触れた。そして、少しだけ苦しそうな顔をしながら、おずおずとあのことを俺に確認をする。
「リョウ、優希さんと一緒に来たの? 大丈夫だった? 何も無かった?」
碧 は、優希さんが過去に自分達に対して抱いていた感情を知っている。ただ、今の発言は、俺が優希さんに何かされたことを心配してして訊いて来たわけじゃ無いことも分かった。
俺に何かしようとする事で、優希さんもまた傷つくことを知っている。だから、それが無かったということで、二人の無事を確かめずにはいられなかったんだろう。
「優希さんは、サトルさんの乗った救急車に同乗したよ。俺は、碧 の方の救急車に乗ってきた。あ、おばさんには俺から連絡しておいたからね」
俺はそう言ってそっと碧 の髪を撫でた。
俺と碧 は無意識にそれぞれの両耳のピアスを摩っていた。これは、できれば永遠に出番のないものであって欲しいと、ずっと願っている代物だ。
——何もなくてよかった。
何か起きそうになるたびに、俺はそう思わずにいられなかった。
優希さんがこれを渡してくれた日。それは、俺たち二人にとって忘れることのできない、十歳のある日のことだった。
◇◇◇
その日は、まだ暑かった。
話したい事があるからと、バータイムのオールソーツに呼び出された俺と碧 は、葵さんが淹れてくれたアイスコーヒーを飲みながら、サトルさんと優希さんを待っていた。
遅くなるこの時間にまだ小四の俺たちを呼び出すなんて、よほどのことがあったに違いない。そう思うと心なしかストローを持つ手が震えていた。
帰りは葵さんと一緒に帰るので碧 の母は外出許可を出してくれた。そうでなくても、ダメだとは言われなかっただろう。というよりは、碧 はそもそもおばさんからずっとほったらかしにされている。
「こんな時間に呼び出されたって言ったらさ、少しは何か言いそうなもんじゃない? 全く何も言われなかったからね」
「まあ、今日は葵さんと帰るからじゃないの? だから心配いらないって思ったんじゃない?」
「どうだかね」と言いながら、碧 は不貞腐れていた。碧 曰く、俺と付き合っていると話したときも「そう」と言われただけで、それ以上の興味は無さそうだったらしい。「どうでもいいんだろうし、私もどうでもいいけどね」と碧 は吐き捨てるように言った。
そんなことを話しながらゆっくりと氷を回していると、サトルさんと優希さんが現れた。
優希さんはほんの少しだけいつもより元気がなさそうで、やや足元をふらつかせながらサトルさんに寄りかかるようにして店に入ってきた。
「悪い、遅くなった。ちょっと優希が安定しなくて」
そう言うと、サトルさんは優希さんのピアスを覗いた。
「何してるの?」
碧 がそう訊くと、サトルさんは「うん? うん……投薬の量と採取した血液の量のバランスが合ってるかどうかの確認だ。詳しくは今から説明させてもらうから、ちょっと待っててくれるか?」と言って、眩しそうに目を細めた。
「よし、大丈夫だな」
サトルさんはそう言うと、優希さんがふらつくからとカウンターではなくテーブル席へ移動してくれと俺たちを促した。
俺と碧 は言われた通りにカウンター近くのテーブル席に移動して、優希さんはサトルさんに半ば抱えられるようにしてソファに沈み込んだ。
優希さんはサトルさんから手足を動かして貰っていた。まるで介護をされているようなやり取りだった。楽な姿勢になったのか「ありがとう、サトル」と微笑みかけると、サトルさんもそれを聞いて満足そうに笑っていた。
「葵、お前もここにいろ」
サトルさんはカウンターの向こう側で二人のコーヒーを用意している葵さんに向かってそう声をかけた。葵さんは「はいよ」と答えると、トレイにコーヒーを載せて「リョウ、これ提供して」と俺に声をかけた。そしてエプロンを外しながら、カウンターを回ってこちらへとやってきた。
「リョウ、ミドリ、遅い時間にごめんね。これから僕が話すことをどうか最後まで聞いて欲しいんだ。もしかしたらすごく不快な思いをして逃げたくなるかもしれないんだけれど……それでも、どうしてもやってもらいたいことがあって、だから、最後まで聞いて欲しいんだ。お願いします」
優希さんはそう言うと頭を下げた。俺と碧 は何もわからない状態だったけれど、ずっと面倒を見てくれていた優希さんがそんな風に頭を下げるのを見たことがなかったから、少し構えてしまった。
「大丈夫だから。とにかく聞いてあげてくれ」
葵さんはそう言うと、俺の背中をポンと叩いた。今の俺の親は葵さんだ。その葵さんが聞いてあげてくれと言うなら、そうするのが正しいのだろうと思い、俺は「わかりました。最後まで聞きます」と言った。「私も聞きます」隣で碧 もそう言った。
優希さんはしばらく目を閉じて、何かに思いを馳せているようだった。今にして思えば、あの時は俺たちと三人で過ごしていた日々を思い返していたのかも知れない。開かれた目には、うっすらと涙が滲んでいた。
そうしてゆっくりと深呼吸をした。「うん」と小さく頷くと、重い口を開き始めた。
「二人に僕の大きな秘密を一つ明かしたいんだ。あのね、実は僕、サトルと出会う前は小さい子供しか愛せない病気だったんだ。ペドフィリアって言うんだけど、知ってる?」
それから優希さんは、俺たち二人のことをどういう目で見ていたかという話を訥々としてくれた。ただし、あまり具体的なことは言いたく無いから、事実がわかる最低限のラインを辿って話すことを許して欲しいと繰り返していた。
「僕は治療するまでの自分のことを、よく思っていない。この治療がうまくいかなかったら、自分には死ぬしか道が無いと思っていた。たまたまうまくいって、成人を好きになることが出来たんだ。こうやってサトルと一緒に並んでいられるようになったから、二人には説明しておこうと思って、来てもらったんだ」
俺たちはあっけに取られた。これまで良くしてくれていた「お隣の優くん」が、自分たちをそんな目で見ていたということが、俄かには信じ難かった。
「え? 嘘ですよね?」
「本当に?」
そう答えるのが精一杯だった。これまで一緒に過ごして来た長い時間のうちのいくつかが、汚い欲望の眼差しとともにあったのかと思うと、一瞬ゾッとした。
ただし、それは軽蔑したからじゃない。全くそう感じた事がなかった、気づかせなかった優希さんの忍耐力の凄さに対して恐怖した。
ずっと優しくて、どことなく全てがフワフワしていて、お人好しの隣のお兄ちゃんだと思っていた。その心の奥に、そんな感情を抱えていたなんて、それをあんなにも完璧に隠していたなんて……。
一度や二度じゃない。ほぼ毎日一緒にいた。ずっと隠していたなんて、正気の沙汰じゃない。どれほどの苦痛があったのだろうかと考えると、とても可哀想だと思ってしまった。ただ、その可哀想という気持ちが、正しいのかどうかもわからない。そんな風にぐるぐる考えていると、パニックになりそうだった。
「でも、そう言われてみれば納得いくことが何度かあった気はします。それが……」
俺は何度か風呂で疑問に思ったことがあった。それまで一緒に入ってくれていたのに、突然服を着たまま俺だけを風呂に入れるようになった時期があった。そして俺が寝た後に、遠くの方で泣いている声が聞こえていた時期があった。その泣き声が聞こえた次の日は、必ずと言っていいほど目を合わせてくれなかった。
——あれは後ろめたくて目が合わせられなかったってことだったのか……。
そんな風に、優希さん自身が望まないことで苦しんでいるんだろうなと思える状態が、何度かあった。
「それがなんでなのか分かったから、ちょっとスッキリした」
俺のその言葉に、優希さんは驚いていた。そして、「ありがとう。優しいね、リョウ。そっとしておいてくれたんだね。ごめんね、そんな気を使わせて」と、涙を流しながら微笑んだ。
「さっきの質問だが、優希の性的な興奮状態をこれで管理しているんだ。今日はちょっと数値が安定しなくて、この装置だけじゃ足りないかもしれないと思って、研究所で点滴を受けさせた。だから遅くなったんだよ」
サトルさんはそう言いながら、優希さんの耳についているダイヤのピアスを見せてくれた。
「ごく少量の血が定期的に抜き取られ、チェックが入る。優希は、テストステロン値が一定濃度を超えると、未成年に会うことを禁じられている。このピアスは、未然に性被害を減らすために使用されている器具だが、これはまだ開発段階の未認可品なんだ。調整は、開発関係部署に携わっている俺に任されている……って難しいな。えっと……」
「優希がお前たちに手出しをしないように、右の耳から血を採って調べてるんだ。その血の中に悪いものがあったら、左のピアスから薬が出るようになってる。そうやって体調管理してるんだよ」
研究機関で大人とばかり話しているサトルさんには、小学生の俺たちへの説明が難しかったようで、子供慣れしている葵さんが言い換えてくれた。
「私たちに会うために、薬が必要なの?」
そう尋ねた碧 の声は、涙に濡れていた。
「うん。そうなんだ。でも、これからしばらく治療していけば、もう二人に性的な意味で興味を持つことは、無くなるはずなんだ。ただ、もしリョウとミドリに手を出してしまったりすると、これまでの治療の全てが無駄になる可能性もあるらしくて。僕はそんなことが無いように頑張るんだけど、もし、もし僕が何かして来たら、全力で止めて欲しいんだ。そのために、協力して欲しいことがあって」
そう言って、優希は、二組のピアスを差し出した。
「これを貰って欲しいんだ」
それは優希さんのものと似たようなピアスだった。一組はダイヤ、もう一組は黒いダイヤが嵌め込まれている。どちらもスタットピアスだった。アクセサリーは好きだから、その時からよく知っていた。
ただ、それは一般のものよりは、ヘッドの部分が、やや分厚いのが気になった。
「ヘッドとキャッチを強い力で押して近づけると、信号が生まれるようになっているんだ。その信号を、この指輪が拾うんだよ」
優希さんは自分の左手の指輪を見せてそう言った。艶やかに輝くその指輪は、ダイヤが埋め込まれたよくあるタイプの結婚指輪にしか見えない。その埋め込まれている石が、実は宝石のダイヤではなく、それに似せた受信機なのだそうだ。驚く二人に、さらに優希はこう言った。
「指輪がピアスから信号を受信したら、僕の異常行動を抑制するために、電流が流れるようになっているんだよ」
ことも無げに話す優希さんとは対照的に、俺たちは目を見開いて驚いた。幸せの象徴が持ち主に罰を下すの? と結構なショックを受けていた。
「で、電流? なんで?」
オロオロする碧 をよそに、俺は気づいてしまった。
「優くんが、僕たちに何かしようとしたら、やめさせるための罰としてビリビリするってことですか?」
優希さんが行動療法と言ったから、そうなのかもしれないと思った。ある行動の後に、毎回嫌な思いをする要素が続けば、その行動は減って行くということを、俺は何かで読んで知っていた。
「うん、そうだよ。ピアスからの信号は静電気のちょっと強いやつって感じだから、心配はしないで大丈だからね。だから、少しでも僕のすることが嫌だと感じたら、躊躇わずに押してくれる? これ、僕に会う時には必ずつけていて欲しいんだ。だから、この店にも予備を置いてもらうことにするよ。今は二人に会うとしたら、だいたいここでしょ?」
確かに今、優希さんと顔を合わせるのはオールソーツにいる時だけだ。三人とも昔の家には住んでいないし、そもそも、もうその家は無い。生活環境が変わってしまったため、顔を合わせる機会を一気に失っていた。
俺の親は、ネグレクトの末にいなくなった。生きているし、連絡も取れる。俺もそこまで親が嫌いなわけではない。ただ、俺を一人で置いて行っていることに対して罪悪感を持っていないらしく、家には全然戻ってこない。それを見かねた葵さんが、俺を引き取って一緒に暮らしてくれるようになった。
同居し始めた当時、葵さんはこの店の前身であるバーで、昔からの知り合いだというオーナーさんから、無給のバイトをさせられていた。そこを昼はカフェで夜はダイニングバーという形態の店に変えようと思うと聞き、カフェの方を手伝わせて欲しいと願い出た。
俺の生活が守りやすくなるように弁護士事務所を辞めて、店は十九時退勤の残業無しにしてもらっている。
碧 は、最初は家庭に興味を持たないおじさんと、おじさんに執着しているおばさんと三人で暮らしていた。
そのうちにヒマを持て余したおばさんが小説を書き始め、のめり込んで行くうちに作家デビューしたという。それがまたあっという間に売れ始め、承認欲求が満たされたのかおじさんへの執着が薄れていったらしく、とんとん拍子に話が進み、あっという間に離婚したらしい。
そして、二人が引越した新居のマンションが、葵さんと俺が住んでいる部屋の隣になるという奇跡が起きた。当時の俺は、家族として葵さんの店の手伝いをし始めていた頃で、碧 もだんだん俺と一緒に店を手伝うようになっていった。だから碧 がオールソーツにいる時間も、十九時までだ。
優希さんは、俺たちとは逆にカフェタイムにはあまり顔を出さない。編集の仕事は遅くなることが多く、深夜にオールソーツで食事をして帰ることがほとんど。
昔は、時々仕事帰りの葵さんとそのまま店で食事をして、飲んで帰ることもあったらしい。でも今はそれもほとんどない。
それくらいの頻度でしか会わないのにこんなものが必要なのかと、俺は絶望に近いものを感じたのを覚えている。それほど慎重にならなければばならないのかと。その枷をつけて生きて行かなければならない優希さんを、俺は不憫に思った。
きっと性的な目で見るような事がなかったとしても、自分達に優しくてくれていたに違いないのに。目の前の優しい男にのし掛かる悲しい運命が、俺は憎らしくて仕方がなかった。
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