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第8話 誰かがどこかで
◇◇◇
「ありがとうございましたー」
平日のランチタイムが終わり、これからはフードよりもコーヒーとペストリーの時間になってくる。気怠い体を引きずるようにして働いた俺は、緊張感からの解放により力が抜け、カウンターに突っ伏した。
毎日七時間くらいは眠る健康的な生活をしているにも関わらず、体は怠くなっていく一方だった。
心配になることが増え、眠りが浅くなっているからだろう。
この店のカフェタイムの人気商品は、俺が店で手作りしている焼き菓子だ。その中でも特に人気なのが季節限定のタルトで、二月から三月いっぱいにかけて、それはタルトタタンになる。
生地は数日分を作って冷凍してあるからいいのだけれど、フィリングはここで毎日作るようにしている。そのため、今から鍋に向き合わないといけない。
普段はそれも楽しいのだけれど、この怠さで大量のりんごをキャラメリゼするのは、なかなか辛いものがあった。
俺はバックヤードに戻り、リョウの背中を人差し指でトントンと叩いた。後ろを向いていたリョウがくるりと振り返る。
目を見張ってイヤーマフを外しながら「どうかしました?」と尋ねた。
このマフはサトルが作ってくれたもので、内側は空洞になっている。リョウの耳を衝撃から守るようにしてあって、内側も傷にものが触れないようにしてある。少しでも早く治るようにと、工夫を凝らしてくれていた。
「リョウ、お前今日キャラメリゼ代わってくれない? 俺ちょっと体の調子が悪くてさ……。あんまり眠れてないのよ。だからキャラメリゼする体力が残って無くて。俺は隣に座って見てるから、ちょっとやってみてくれない? お前ならやれそうだなと思うんだよね」
「心配かけたからですよね……ごめんなさい。いいですよ、俺やってみたかったし、やりますね」
リョウは申し訳なさそうに眉を下げつつ、俺を気遣って微笑んでくれた。そして、作業台の上に積まれているりんごを引き寄せると、水洗いし始めた。
手早くそれを終えると水分を拭き取り、ペティナイフを構える。
そこからは、さすがの包丁さばきを堪能した。
「おおおー! すっげー!」
するすると滑らかな手つきでりんごの皮を向いていく。真っ赤なリボンのような皮がリョウの手の周りに踊り、乳白色の果肉が姿を表す。
あっという間にそれが山のように積み上げられていった。その美しさとスピードに、俺は舌を巻いた。
「すごいな、俺教えること無くない? 確かに準備はいつもやってもらってるから慣れてるだろうけど……俺負けてるかもしれない」
そう言って苦笑いしていると、ふっと息を吐き「キャラメリゼは教えてもらわないと出来ませんからね」と言う。リョウは本当に優しくて気遣いが出来る男だ。うっかり惚れそうになるから、本当にやめて欲しい。
「ちょっとやめてくれよなー、そんないい男感出すの。責任ある立場なのにうっかり惚れそうになるだろー」
俺が胸の前で手を組んでリョウを見つめると、「俺が遠慮しますから大丈夫です。俺には碧 がいるんで」と得意げに言い、口の端を持ち上げてニヤリと笑った。
「ちっ、なんかムカつくな。いいですね、お幸せで」
そう言って拗ねたふりをすると、楽しそうに笑顔を見せた。俺はその顔を見て、心底安心した。
——今はこうやって笑っているけれど、ほんの数時間前までは青ざめた顔をしていたんだよな……。
リョウに震えるほど怖いをさせてしまった。もう二度とあんな思いはさせたくない。
そのためには、何が原因でどうしていけばいいのかをちゃんとわからないといけない……そう考えていると、昨夜は全く眠れ無かった。
リョウは通常の通院ではなく、サトルが治療をすることになった。一般的な病院への通院となると、ケガについての説明が必要になり、ピアスと指輪の存在を明かさねばならなくなる。それはまだリスクが高いので無理だと判断された。
そこで、サトルの病室でサトルが治療をすることにしようという話になった。ちなみにだが、もちろんサトルの傷はまだ完治していない。
それどころか、意識が戻った後からも色々ありすぎて、体調もメンタルもめちゃくちゃだ。
それでも、リョウの耳の大きく裂けた傷を自分が綺麗に縫ってあげたいからと面倒を見てくれた。本当にどこまでも優しい男だ。
「学校休める時期で良かったな」
俺がシンクの前に置いた丸椅子に座ってそう言うと、リョウは鍋の中のりんごにパウダー状の黒砂糖をまぶしながら「そうですね。不幸意中の幸い」と答えた。
昨夜病院についた後、学校へは体調不良のためしばらく休むと伝えた。
今は受験も終わり、卒業式を待つのみとなっているので、学校もそれ以上深くは追求はしてこなかった。
血の繋がりはないが、法的にしっかり認められた親代わりからの連絡だからと言うのも大きだろう。
俺はリョウを自宅で一人にさせるよりは、ここに居させた方がいいと考えてそうしている。一人じゃ不安だろうし、俺も今は姿が見えないと安心できそうにない。
それに、若い子が接客するとお年を召したお客さんは特に喜ぶし、本人達も社会勉強になっていい。
学校だけではカバーしきれない問題を世代を超えた交流が解決してくれることを期待して、それがリョウとミドリの心の栄養となって欲しいと思い、これまで手伝いをさせてきた。
だから二人にとって、ここは第二の我が家だと言っても過言ではない。
寂しい時や辛い時、それに不安な時。そういった時こそ、ここにいることで安心して欲しいと思っている。
「うん、もういいだろう。じゃあ、これはバットに広げて冷やしておいて、冷蔵庫の中のものを使って、今日の分を焼こうか。生地の準備してある?」
「あります。解凍バッチリです。穴あけもしました」
「さすがー。本当に料理のことはなんでも覚えが早いな」
「……料理のことは。すみません、勉強は全然だけど」
「あ、ごめんごめん。褒めたつもりだから」
勉強が苦手だと言うリョウは、俺の不用意な言葉でムクれてしまった。リョウのご機嫌を取ろうとしてくっついて歩いていると、入り口のドアのベルが軽やかな音でカランカランと来客を告げた。
「いらっしゃいませー」
スタッフが入ってきたお客さんをカウンターに案内している。カウンターに座るのは常連さんであることが多い。俺とリョウはその顔を確認するためにフロアへと戻った。
「あ、こんにちはー、葵さーん。キャラメルラテくださーい。ランチBでお願いしまーす」
彼女は近くのキャバクラで働くキレイなお姉さんだ。源氏名はレミというが、ここには休日しか来ないので、本名である美玲さんと呼んでいる。
美玲さんは、「キレイにするのは仕事のための努力だから、まっすぐ褒めてくれると嬉しいわ!」といつも言う。だから、いつも言われた通りに、まっすぐ褒めさせてもらっている。
「こんにちは、美玲さん。今日もすごくキレイですね。」
美玲はそれを聞いて、ニコッと花が咲いたように笑った。
「ありがとう」
満面の笑みは、陽光がガラスに乱反射しているかのように、健康的にキラキラと輝いて見える。彼女の笑顔にはとにかく曇がなく、見ていると心の澱が吹き飛ぶようだった。
休日の度にやってきてはここでランチをし、昼過ぎから二十時くらいまでいる強者だ。どんな季節でもスッピンにワンピース程度の軽装で、着込んでいてもその上に羽織もの一枚というのが定番。
時々目のやり場に困るような姿の時もあるので、店には彼女のためにストール一枚、カーディガン一枚を常備してある。
いつもかなりのお金を遣ってくれるので、店としてもありがたい存在だ。金銭面以外でも、ほかの常連たちと会話することを心の底から楽しんでいるようなので、店の雰囲気をいつもぐんと明るくしてくれる。
そして、とにかく顔が広い。仕事柄かなと思っていたこともあるが、おそらく彼女は心の底から人と話すことが好きなのだろう。毎度知人を増やして帰っていくように見えた。
「そういえば昨日ね、うちのお客さんが言ってたんだけど、この辺でなんか物騒な事件あったんでしょ? 被害者ってここの常連さんだって聞いたんですけど、どなたか知ってます?」
その言葉を聞いて、店員が一斉に止まってしまった。一瞬で空気が張り詰めてしまう。
俺は他のお客様に心配をかけてはならないと思い、ピリピリしてしまう前に無理矢理にでも笑って見せた。
「あ、なんか聞いちゃいけないやつでした……よね。ごめんなさい! 黙って食べます! いただきます!」
店員は皆、サトルと優希の顔を思い浮かべていた。
俺はリョウの横顔を見てしまう。リョウは昨日の恐怖を思い返すように、ヘッドフォンもどきをさすっていた。
この二つの事件に繋がりがあるのかどうかもわかっていないのだが、何一つはっきりしていないことで、この店に不安が張りつき始めているのだけは確かだった。
「いえ、確かめないと不安になりますよね。お話ししますよ。サトルがね、裏通りで刺されたんですよ。美玲さんのところには警察は来なかったですか? ここの常連だし、事情聴取とかあったのかと思ってました。店内で起きたわけじゃないから、そこまではしなかったのかな」
美玲はキャラメルラテをゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。少し焦ったようで、むせている。ゴホゴホと涙目になりながら、大きな声で叫んだ。
「え? なにそれ。サトルさん、刺されたんですか? えーこわっ! でも私が聞いた話はそれじゃないです。誰かが刺されて死んじゃったって話。でもそれ、ニュースになってないんですよ」
「え? 死んだ? いや、サトルは生きてますよ」
さすがに他に刺された人がいたらわかるはずだ。なんの話だろうと訝しんでいると、美玲さんはその話を詳しく教えてくれた。
「この店の常連らしいってことはわかってて、でも殺された場所はわかってないみたいな……しかもまだ見つかってないらしくて。あれ、見つかってないからニュースになってないのかな?」
はっきりしているようなあやふやなような説明を聞いて、リョウが珍しく棘のある言葉で返す。
「なんですか、それ……いたずらとかじゃ無いんですか? 刺された人が誰だかわからなくて、その場所もわからなくて、見つかってもいないって、それは事件は起きてないって言ってるのと同じことじゃないですかね」
「そう、私もそう思ったんだけど、電話をしてきた人が信用度の高い人だったの。優希さんから警察に連絡があったみたいなんですよ」
俺は、ガシャン! と派手な音を立てて、グラスを落として割ってしまった。美玲さんが何を言っているのかが理解できなかった。
「葵さん! 大丈夫ですか? ちょっと休みます?」
リョウが俺の手を引いて、ガラスの破片のある場所から遠ざけてくれた。少しだけめまいがする。
「優希が警察に電話した? 誰かが殺されたかもしれないって? なんで? いつ? だって、優希は……」
その優希は昨日誰かに襲われている。
——連絡なんて出来るわけが無いのに、なんでだ?
優希は誰かに襲われた。
リョウのピアスを押せば、動けなくなるくらいの電流が流れる事を知っている誰かに。
——通報したのを知られ襲われた?
頭が回りそうで回らなくなり、思考が混沌としていく。周囲から聞こえる音が、いつの間にか水中で聞くようなこもった音に変わっていった。
それと同時に、世界が回転していくのがわかった。
くるくると水中に落ちていくような感覚の中に、うっすらと自分の名前が聞こえた気がした。
「葵さん!」
この数日間、張り詰めていた緊張の糸は、ブツッと音を立てて切れてしまった。
差し伸べられたリョウの腕の中で、葵は暗闇へと落ちて行った。
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