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第10話 守りたい

◇◇◇  硬い扉を優しくノックする音が、耳元に優しく響く。コンコン、コンコン。その後に、俺の名前を呼ぶ声がする。  朝に聞いた甘い声じゃなくて、俺を親のように兄のように慕う少年の声だ。 「葵さん、入りますよ」  囁くように優しく告げながら、リョウが入ってきた。 「大丈夫ですか?」  リョウは俺のメンタルが弱いことを知っている。  寝不足が続いた後は特にタチが悪い。  急激にそのバランスを崩し、そのまま起き上がれなくなってしまうことが時折ある。そして、それが最も起きやすいのがこの季節だった。  理由のない不調なら、ここまで生活に支障が出る場合は、病院に通っているだろう。でも、俺の不調には理由がある。  自分の大切なものを否定され、自分の全てを暴露して、あの生活から逃げてきた。それがこの季節だからだ。  これが最善だと思ってとった行動であっても、時にそれによってどうしようもない孤独感に苛まれることがある。  長くは続かないものだし、仕事場でも理解してもらえている。俺は敢えて治療しない道を選んだ。 「葵さん、もう夜ですよ」 「ん……」  リョウはベッドの端に腰掛けると、俺に体温計を手渡した。  寝ぼけた目でその体温計とリョウを交互に眺めた後、のそりと手を伸ばしてそれを受け取った。 「葵さん、メシ食えますか? 一応準備しましたけど。ここで食べますか? あっちいきますか?」   「んー……あっちいく。あ、食べる。ん、熱ない」  ぼんやりとした頭のまま、開き掛けの目でリョウを見つめた。 「これだけ寝てもこうだってことは、不調かなあ」  ポツリとつぶやいた俺に、リョウは「うん、多分そうでしょうね」と返した。そして、俺の腕をぐいっと引っ張り立ち上がらせようとする。 「だから、おばあちゃん特製の肉じゃがと味噌汁でしっかりご飯食べましょう。あ、茶碗蒸しも作りました。ついでにプリンも作りましたよ」  和色上手のリョウの魅惑の献立に、胃がぐうと返事をした。  俺の頭はその音でクリアになり、「お腹が返事した」と笑いながら立ち上がった。  リョウは俺の手を引いたままダイニングまで俺を連れて行ってくれた。まるで小さな子供が迷子にならないように手を引かれているようだった。  時々こうやって、どちらが親なのかがわからなくなるくらいにリョウが面倒を見てくれる。その温かさは後藤さんがくれるものとはまた違っていて、ずっと昔に空いた心の穴を埋めていってくれるような感覚がする。 「でも茶碗蒸しとプリンを一緒に作ると、ヤバい匂いにならないか?」 「そんなことしませんよ。茶碗蒸しは蒸し器で作りました。プリンはオーブンでやりましたよ」  ダイニングテーブルの向こうにあるオーブンを指差しながらリョウは言う。 「おお、さすが」  そう言いつつ、すん、と俺は鼻を鳴らした。それを見てリョウは鼻に皺を寄せながら笑った。 「でも、部屋の匂いはちょっと、ね。食べ終わってから作れば良かったですね」  茶碗にご飯をよそうと、「はいどうぞ」と俺の分を先に置いてくれる。いつも食べる時間が遅くなるからと、雑穀米を出してくれていた。白米だけだと、俺がつい食べ過ぎてしまうからだ。  特にメンタルが不調の時は雑穀の量が増やされている。リョウはいつもそうやって少しの気遣いを忘れない。 「ミネラルは精神の健康に欠かせないからなあ」 「どうかしました?」  自分の分のご飯もよそい終わって、席につきながら俺の呟きに反応した。  リョウはおばあちゃんのようだけれど、だからといって何かを俺に押し付けようとすることはない。  そもそも他人なのだから、踏み込みすぎると一気に関係性は崩れる。それを危惧しているところがあった。 「いや、何もない。いただきます」 「はい、どうぞ」  この食事時のやりとりも、全て優希が教えてあげたことだ。  テーブルを拭き、配膳して、挨拶をする。箸の持ち方、配膳の意味、姿勢。  リョウは保育園でそれをするのは自然に出来るのに、家でもそれをするということを、全く知らなかった。  優希が一緒に暮らすまで、家で食べる食事は全て菓子パンで、床に座ってそのまま食べる生活をしていたそうだ。  家で誰かと食卓について食べるという経験がなく、優希が「一緒に食べるよ」と言った時、リョウはポカンとして「どうして?」と聞いてきたのだと言う。  リョウが知らなかったのは、お行儀の知識の問題ではなくて、誰かと食事をするのは楽しいという感覚だった。 「でも気がついたんだ。僕だってその感覚は知らなかった。多分、葵が教えてくれたんだよ。だから僕はそれをリョウとミドリに教えることが出来たんだ」  そう言いながら、優希は涙を流した。俺は今でも時々それを思い出す。  人は誰かに育ててもらうんだなと気付かされた時に、いつも思い出す。  綺麗に準備された食卓をあらためて見ると、思わず笑みがこぼれた。 「リョウ、優希が教えるのが上手な人で良かったな」  ポツリと俺が呟くと、「それはそうですけど、俺もちゃんと頑張ったんですよ」と剥れて見せた。 「ごめん、ごめん。怒らないでー、リョウ様ー。美味しいですよ、いつも美味しいです。ありがとうございます」  目の前で指を組んで、大袈裟な謝罪をすると、リョウは味噌汁を吹き出した。 「あー! もう、味噌汁飲んでる時に急に笑わせるのやめてくださいってば」  着ていたスエットがびしょ濡れになってしまったので、そのままバタバタと脱衣所へ着替えに行ってしまう。  俺は「ごめーん」と軽く返事をしながら、オールソーツのランチにリョウの煮物の小鉢を使ったランチでもやるかなと考えていた。    着替えたリョウがパタパタと歩いてくる音が聞こえる頃には、俺は食事の九割を食べ終えていた。リョウはそれに気がつき、座ったと思った瞬間にまた立ち上がり、オーブンからプリンを持ち出した。 「コーヒープリンなんですけど、あったかいまま食べます?」 「え? あったかいプリンって美味いの?」  話しながら最後の一口を食べ終え、「ご馳走様でした」というと、「お粗末様でした」と返ってきた。 「リョウ、ちなみにその『お粗末様でした』をちゃんと言う人はあまりいないからな。特にお前くらいの年齢の子にはいないと思う。そう言うところもおばあちゃんぽくていいんだよな、お前」 「う……まあ、優希さんが教えてくれたこと以外は、料理研究家の映像とかで勉強したから……その方結構お年を召してて」  ふっと微笑みながらオーブンの中のプリンを出してくれた。そして、冷凍庫を開けると、バニラビーンズが入ったタイプのアイスを出してきた。 「お前っ! それは背徳の……!」  リョウはふふふと不敵な笑みを浮かべて、スプーンを握っている。  そして、出来たばかりのプリンにアイスクリームを一スクープ分乗せた。それを、俺の目の前に得意げな顔をして、ずいっと差し出した。 「今日だけですよ。どうぞ」  俺は人より糖質摂取の量が多い方だと思う。別にこれと言った病気ではないのだけれど、以前は日中にかなりの量をとっていたことがあった。  特に株をやっていた頃は、尋常じゃない量の糖質を摂っていた。頭を使うのでその分の糖質補給だったのかもしれない。  トレーダーをやめてからは、あまり欲しいと思わなくなっていた。  だから普段はあまり問題は無いのだけれど、時々無性に甘いものが食べたくなる時がある。そう言う時に、リョウがこうやって何かを作ってくれていた。 「でもお前、これ結構な……」 「毎日食べないならいいんですよ。不調の時は俺が食事作りますから。文句言わずに食べなさいっ」  リョウの中のおばあちゃんが、孫役の俺を叱り飛ばしてきた。 「おばあちゃんがそう言うなら、仕方ないけど食べますよ……」  そう言いながら渋々食べるふりをして、ふるふるした焦茶色の魅惑のスイーツを掬う。  苦味の強いコーヒーの棘を、バニラの甘みが包んで丸くする。  バニラビーンズの香りはコーヒーと混ざっても負けないので、他には無い香りを作り上げる。  それを吸い込むと、ビリッと脳が刺激される気がする。この組み合わせが俺の一番好きな香りだからだ。  口内は温かさと冷たさが交互にやってきて、全てが混ざり合った後に残ったのものは、どこまでも俺を甘やかす優しい味だった。 ——まるで後藤さんだな。  俺がふふっと笑っていると、「後藤さんみたいでした?」とリョウが返してきた。 「えっ!? 俺今口に出してた?」  ガチャンと音を立ててスプーンをテーブルに押し付けてしまった。慌ててリョウを見ると、ニヤニヤしている。   「いや、あの、このバニラビーンズってヒゲみたいじゃない?」  下手な言い訳だ。真っ赤になっているのはわかっている。  それでもどうにか誤魔化そうとして必死になって弁明していると、リョウは心底楽しいと言わんばかりの大笑いを始めた。 「っあはははははは! そ、そんな変な……じゃあ、今度そう伝えておいてくださいよ。この間家で後藤さんを食べましたって。美味しかったですよって。みんな驚くだろうなあ」 「う、いや、なんかソレ……笑ってくれるのか? あの人バイってみんな知ってるだろ? 引かれそうじゃ……」  俺のその一言を聞いて、リョウはスッと笑うのを止めた。そして、テーブルに肘をついて、俺の方をじっと見つめてくる。 「誰も引きません。あの店は、どこよりも多様性を意識してる。人を傷つけないのであれば、どんな人であっても構わない。そういう場を作り上げてきたんでしょう?」 「うん、まあ、そうだな……」 「それはあなたにだって当てはまることじゃ無いんですか?」  リョウの言葉にハッとした。確かに俺は、俺だけは例外だと考えている節があった。  まともできちんとしているフリをしていないといけない、誰にも弱さを見せてはいけない。  他の人にはそれを許せるのに、自分はそうであってはいけないと思っているかもしれない。 「待ちますから、いつか俺にも話してくださいね」  リョウはそういうと、バニラアイスに隠れたコーヒープリンを掬った。  俺にも優希と同じように、あまり人に言えない特性がある。  それをいつリョウに伝えるべきか、悩んでいるところではあった。  昨日俺が倒れた後の後藤さんの態度を見て、何か感じるところがあったんだろう。  でも……理解してもらいたい人にそれを願うことの傲慢さを、俺は身に沁みて知っている。  それがあるから、どうしても全てを話す決心がつかずにいた。 「リョウ。もう少し待ってくれるか? 話すなら、全てきちんと話したい」  俺がそう問いかけると、リョウは輝くような笑顔を俺に向け、「はい。待ちます」と言ってくれた。 「辛い時や悲しい時、葵さんは膝を抱えて小さくなって眠る癖があります。怒ってる時に、遠くを見てそれを逃す癖があります。悲しいことがあったら、目を伏せる癖があります。その全てが、後藤さんが来た後には無くなるんです。俺はそれだけはわかりました。でも、そんなに単純な話じゃ無いんでしょう? だから、待ってます」  そう言って笑っている笑顔は、一点の曇りもなく、まるで俺という存在の暗部さえも照らしてくれるようだった。  俺はあまり、負の感情を表に出さない。人に知られたく無いからだ。  でも、リョウは学校以外ではほぼずっと俺と一緒にいる。それがもう五年になる。  だから、俺のちょっとした変化がわかるようになっていた。それには俺も気づいていた。   「俺にとっての両親は、優希さんと葵さんです。二人がいなかったら、自分に幸せなんて無かったと思います。あったとしても、こんなに温かい気持ちになれる程では無かったと思います。それだけ愛してもらっても、本物の親子では無いと言う事実は変わりません。今まで上手くやってこれているのは、大人側の気遣いがあってこそなんだって、やっとわかるようになったんです」  リョウは力強く俺の目を見ている。少しのブレもない、決意が表れている。何を知っても、俺を受け入れようとしてくれているんだと思うと、決意のつかない自分が情けなく思えた。 「だから、待ちますからね。自分を悪く思わないでくださいよ」  そう言って俺の背中をポンポンと叩いた。 「お前、エスパーなんじゃねえの?」  リョウの察しの良さに恐れ慄くふりをすると、また太陽のような笑顔を返してくれた。 「ねえ葵さん、優希さんの件、調べてみませんか」 「ん?」  リョウはさっきとは打って変わって、燃えるような目でこちらを見ていた。  優希はリョウの育ての親だ。命の恩人でもある。  その優希があんな風に傷つけられ、その一因が自分にあることが耐えられないのだろう。  それに、この話をしたくて食事をしっかり作ってくれたんだなというのも伝わってきた。  リョウは俺に無断で勝手な行動はしない。それをすることで、俺にどんな迷惑がかかるのかを常に考えてくれている。  だから何か決断をするときは、必ず相談してくれていた。  「俺は何があってあんなことになってしまったのか、どうしても知りたいです」 「リョウ……優希のこと、守りたいんだな?」  クッとアゴを下げて、リョウはそれを肯定した。その目には、さっきよりもキリッと強い光を湛えていた。 「うん、わかった。俺も優希に何があったのかを知りたい。でも、リョウを危険な目に合わせるわけにはいかない。対外的なことは俺がやる。リョウは、気づいたことがあったとしても、俺とここで話し合うだけにしてくれ。誰かを追いかけたり何かを探ったりを勝手にやらないこと。俺と一緒にやるんだ。約束出来るよな?」  リョウも無鉄砲にしていると足手まといになることは理解している。「わかりました」と言いながら頷いた。

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