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第11話 bar time

◇◇◇ 「(あき)さん、今日は早いんですね」  私はランチタイム後のオールソーツのカウンターに座って、一人でエスプレッソを飲んでいた。その時、ふとテーブル席に目をやると、一人で黙々と執筆作業中だった吉良燁を見つけた。  陽光煌めく昼日中のカフェの窓際に似合わない、全身黒ずくめの燁は、今作で打ち切りとなっているシリーズもののクライマックスシーンに取り組んでいるそうで、一心不乱に文字を打ち込んでは、資料を読み込んでいた。  編集部からそろそろ新しい作品に取り掛かった方がいいと言われてはいるが、本人はこの作品で著名人の仲間入りを果たしたからか、打ち切りを強く拒んでいるそうだ。それが担当編集者である優希くんを困らせているという話を、つい最近弟から聞かされていた。 「あらー。沙枝さん、お久しぶりね。あなたこそまだバータイムには程遠い時間じゃないのー? どうかしたのー?」  私はこの店のバータイムの店長をしている。そして、オーナーの後藤瑞稀と私は恋人関係にある。今日は、葵の代わりに店長を務めている瑞稀が、私にサポートを求めやすいようにと、いつもより二時間近く早く店に来て待機している。  瑞稀とは一回り以上の年齢差があるが、彼がバイタリティに溢れている上にお互い好きなものや価値観が似ているため、あまり年の差を感じることがない。  そして、元々は従業員と雇用主の関係であるにも拘らず、パワーバランスは私の方がやや上のように感じる。  それでも時にはこうやって小さな気遣いをすることは忘れない。瑞稀も私に色々と気を遣ってくれていた。  良好な関係は長く続いていて、そろそろ十五年ほど経つ。 「今日は弟が体調を崩していて、オーナーがカフェタイムの店長をやってるんですよ。売り上げが減らないように見張らないといけないんで、いつもより早出にしました」 「はいはい、ありがとうございます、女神様」  そう言って、豆皿にクッキーを二枚のせて出してくれた。喜んで受け取ろうとしたところで、ふと疑問に思う。 ——ん? 何か頼み事しようとしてくれてる?  そうして欲しいと思っていたのを悟られないようにして、瑞稀にそれを尋ねてみた。 「いつもはこんなことしれくれないじゃないの。何? 何か頼み事があるんでしょう?」  私がそう詰め寄ったフリをすると、こめかみを指でカリカリとかきながら、申し訳なさそうに唸り声を漏らす。 「う。悪いんだけど、できればそろそろ入ってもらえませんか? 葵もリョウもミドリも、一気に体調崩されたから。他のスタッフも、急すぎて捕まえられなかったし」  瑞稀は「お願いします!」と言いながら顔の前で両手をパンっと合わせ、私をまるで神様であるかのように拝んできた。  格闘技が趣味の大柄な男性が、両手を合わせて首を垂れる仕草をすると、可愛らしく見えるのは何故だろう。そう感じるのは私だけなのだろうか。  正直もう少し遅くから入らないと、バータイムの閉店作業がキツくなってしまうのだが、こういうところを見せられると断れなくなってしまう。 「ええ! もう入るの? じゃあ今日お客少なかったら早めに閉めさせてね」  私はぶつぶつと呟きながら、渋々席を立つフリをした。でも本当のところは、瑞稀に頼られるのは嬉しかった。  パワフルで行動力に溢れた瑞稀は、普段はあまり人に頼ることがない。こういう時くらいは役に立ってあげたいという、私の中の乙女な部分が満たされそうでウキウキした。 「相変わらず、ラブラブなのねえー」  ニコニコと微笑みながら、燁さんは言った。仲の良い男女を見ているのは、それ自体が楽しいのだと言う。  彼女の書く小説はミステリーなので、あまり長々とロマンスは描かれない。それでも、ここで逢瀬を見守ることで、次回作の足しにでもするわと言って、何やらメモを取っていた。 「やだ、燁さんメモ取るの? なんかすごく恥ずかしいんだけど」 「変なこと言わないように、気をつけないとな……」  そう言って難しい顔をして黙り込んだ瑞稀を見て、私と燁さんは吹き出した。 「大丈夫よー、一応メモしたとしても、そのまま使うことなんて無いからー。たとえ浮気していたとしても、判らないようにしてあげるからー。心配しないでー」  そう言いながら、燁さんはかかってきた電話を受けた。 「もしもしー。どうしたのー? そろそろ来れそー?」  普段から甘えたような話し方の彼女の声が、さらにトーンアップして明らかに媚びたように変わった。  男だなと沙枝は思い、邪魔にならないように静かにしていることにした。  決して聞き耳を立てているわけではない。お客様がお話ししやすいようにという、配慮をしているだけだ。  よく見ると、カウンターの中の瑞稀も同じような顔をしていた。ふと、視線がぶつかる。お互いに心の中を覗かれたような気恥ずかしさが込み上げてしまった。 「玲央が泊まれるなら泊まりましょー。私? 全然大丈夫よー。玲央より大切な物なんて無いからー。うふふー」  どうやら、作家先生は今日はお泊まりをなさるようだ。 ——楽しそうで良いですな。打ち切りも実はそんなに嫌じゃないんじゃないの?  そう思いつつ、ニヤニヤしてしまった。  燁さんはいつも連れと外で待ち合わせをして、バータイムの中盤である深夜帯に男性を伴ってやってくる。オールソーツのバータイムは、かなり暗い。燁さんが連れている男性は、そんな暗がりで見てもとても綺麗な顔だちをしていることがわかるほどの美貌の持ち主だ。  おそらく彼が恋人なのだろうなとは見当がついている。そして、彼の名が確か玲央と言ったはずだ。私は珍しく好奇心が疼き、燁が電話を切ったタイミングでこっそりと訊いてみた。 「レオさんって、いつも一緒にいらっしゃる方ですか? 長身の、モデルさんみたいなキレイな方ですよね?」  不躾に尋ねた私に気を悪くしたのか、燁さんは一瞬顔を強張らせた。しかし、すぐに笑顔を張り付け、こちらに向き直ると言った。 「こらー。ダメでしょー。接客業してる人が、プライバシーの侵害しちゃー」  そう言って沙枝の額を人差し指でぐいっと押すと、いつもよりやや闇がかった性悪そうな含み笑いをしながら席を立っていった。 「わーお。余計な詮索するなってことかな?」  燁さんの予想外の反応に、ちらりとカウンターの中にいる瑞稀の方を見ると、「やめておけよ」と小さく釘を刺された。瑞稀にそう言われては、それ以上は聞き出す気も起きなくなった。  「はーい」と返事をすると、出勤の準備のためにカウンターの向こう側へいく準備を始めた。 ◇◇◇  深夜になり、暗がりに現実逃避気味の大人たちが群れ始めた頃に、燁さんはカレを連れてやってきた。 「いらっしゃいませ、吉良様」  昼に会った時よりも畏まった声で、私は燁さんを出迎えた。  彼女は、昼とは打って変わってドレスアップしており、セミフォーマルな装いをしている。人形のように美しい男性と並んでいることで、映画かドラマのキャストがそのまま抜け出して来たように思えた。 「こんばんはー、沙枝さん。今日は二度目ねー」  燁さんは口の端を持ち上げて、私に笑いかける。隣にはやはり、いつも連れている玲央と呼ばれる男がいた。  玲央さんは明るく長めの髪を妖艶にかき上げ、微笑みながら燁さんをエスコートしている。二人とも穏やかに笑っているが、玲央さんはいつもよりも多少ぼんやりしているように見えた。  それでも驚くほどに美しい顔をまじまじと見つめていると、いつの間にか燁さんが困ったように笑いながら私を見ていた。 「やあねえ、また何か詮索しようとしてないかしらー? 玲央、ほらしっかり顔を見せてあげて。沙枝さん、あなたがどんな人か知りたいみたいなのよー」  燁さんはそういうと、玲央さんをカウンターに座らせた。上質そうなスーツを着こなした彼は、私に向かってにっこりと微笑んだ。 「いつもお会いしてますけど、あらためてご挨拶すると、少し気恥ずかしいですね。鈴井玲央と申します。よろしくお願いします、沙枝さん」  会釈をしながら沙枝に挨拶をする玲央を、燁は保護者のようにニコニコと見守っている。 「こちらこそ、よろしくお願いいたします。オールソーツ デイ&ナイト バータイム店長をしております、市木沙枝と申します。お客様から先にご挨拶をいただいてしまいまして、恐縮です」  私は挨拶をしながら、名刺を差し出した。職業柄、名刺は挨拶をするときには必ず出す。まあ、大体の職業ではそうだろう。しかし、玲央は名刺を持ち合わせていなかったらしい。仕事柄、あまり使用しないと言っている。 「玲央はね、警察官なの。ねー」  燁さんは玲央さんに同意を促して、彼は微笑みながら頷いた。  およそモデルにしか見えないこの美しい青年は、普段は警察官として勤務しているのだそうだ。これと言ってはっきり理由はわからないが、非常に勿体無いような気がした。  ただ、最近この辺りは何かと物騒なので、警察官が飲みにきてくれるのは、こちらとしてはありがたい。 「そうなんですね。最近、このあたりは事件が多くて。警察の皆様にはお世話になっていますね。ありがとうございます」  サトルくんが刺された事件も、誰かが刺殺されたらしいというあやふやな情報の件も、結局のところは未だに何も解決していない。それでも捜査は一応してもらっているので、ここで働いている身としてお礼をした。  しかし、それに対する玲央さんの反応は、私が思っているものよりもやや鈍いものだった。 「ああ、そうですね。でも僕はその件は担当ではありませんので。お礼は、担当している友人に伝えておきますね」  そうですか、よろしくお願いいたしますと答えながら、私は違和感を持った。  サトルくんが刺された件は、全く犯人像が浮かび上がっていないらしいのだ。証拠も残っていない状態で、次の事件も起きかけているのに、警察にしてはやや反応が薄いのではないか? と疑問に思ってしまった。 「ごめんねー、沙枝さん。玲央ねー、あまり仕事熱心じゃ無いのよー。よほどの事がないと熱心に動かないのー。先輩たちからもー、いつも呆れられてるのよー。ねー? 」  私の疑問をかき消すかのように、燁さんはそう言う。そんなことを言われると、こちらもなんとも返し難い。  お金のために警察をしているのだと言われれば、それ以上何も言えない。それが悪いとも言えない。それにしても、何かうっすらとした違和感がついてまわった。  ただそれがなんなのかをはっきりと掴めない限りは、追求することは出来ない。相手はお客様なのだから。私はこの違和感を一旦受け流すことにした。 「正直ねー、あまり人間性とかどうでもいいのよー。正確に言うとー、私に対して誠実であってくれればそれでいいのー。他のことには無頓着でも構わないっていうかー。玲央はー、私にはちゃんと誠実に接してくれているのよー。恋人なんてー、それでいいと思わなーい?」  燁さんはそう言って、ややお酒の回ってきた緩んだ顔でこちらを見ながら笑っていた。ただ、その目の奥は明らかに笑っていない。 「そうかもしれませんね。ただ、私にはそんなに誠実な恋人はいたことが無いので、燁さんがそう断言できるのが羨ましいです。愛されていて、お幸せそうで」  そう言って、一旦バックヤードへ下がらせてもらうことにした。  どうしてだろう、なんだかいつもよりもかなり神経を尖らせていないと、燁さんに飲まれるような気がしている。  そして飲まれてしまうと、命の危機に至るような気さえしている。狡猾な罠にハマって、食い尽くされてしまうような気分だ。 ——ちょっと過呼吸気味かなあ。  一旦落ち着かせようと思い、グッと呼吸を止めた。そして、しばらくそのまま静止する。腕時計の秒針の音に耳を澄ませ、十五秒ほどそのままの状態でいる。時間になったら、プハっと一気に吐いて、その後極力ゆっくり細く息を吸う。  過呼吸の対処法に息を止めるのは、沙枝が自分に合う方法として始めたものだ。誰かにそうしろと言われたわけではない。  でも、色々と過敏な自分が接客業で生きていくには、過呼吸への対応方法は必須で、道具も何も使わずにやり過ごせるこの方法が一番合っていた。  気になるのは、これまで彼女に対して過呼吸を起こすことはなかったのに、今日は日中にあった時から威圧感があったということだ。  いつもおっとりしていて、玲央さんに依存気味だなとは思っていた。それが、こんなに危険な空気を感じることになるとは思いもしなかった。 「何があってあんな風になっているのかは、知らない方が身のためかな」  燁さんに対して抱いている違和感を、突き詰めようとしない方がいいのかもしれない。それならそれで、気にしないようにしよう。  そして、おそらくその違和感がわかる日はいずれやって来るはずだ。  気がつきたくなくても気づいてしまう、それが過敏な自分の生きづらさのうちの一つでもある。  ただ、今回は気づいた方がいいのかもしれない。自分のこのポンコツぶりが、誰かの役に立てるかもしれない。漠然とそう思っていた。  私は色々と過敏過ぎて普通に生活するのもままならず、後藤と弟に助けられてばかりだった。  今、この燁さんに感じている違和感が何なのかがわかれば、弟の悩みが解決するのかもしれない。  はっきりとした根拠はまるで無いのだけれど、なんとなくぼんやりとそんな気がしていた。 ——何かわかったら瑞稀に相談するようにしておこう。  バーボングラスを傾けながら、玲央さんに笑顔を向けている燁さんの横顔が、フロアとバックヤードを仕切るドアの隙間から見えていた。 「!!」  一瞬、その隙間の向こうの燁さんと目が合ったように思った。その瞬間、背中に戦慄が走った。 「早めに瑞稀に話しておくかな」  そう独言ながら、自分を抱きしめるように身をかがめ、私は呼吸を整えた。

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