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第24話 咲耶荘にて
⚠️今回はリョウとアオがイチャついてます⚠️
翌日の早朝、サトルさん、優希さん、リョウ、私の四人は、車で葵さんの実家であるホテル「咲耶荘」へと向かった。
咲耶荘は海沿いから高台にかけてなだらかに連なる形状をしていて、各客室からの景色が絶景ということで、ここ最近人気が上昇しているらしい。
太平洋側なので大荒れの海を望むことはないのだけれど、ミステリードラマで犯人が追い込まれる時の、あの定番の景色の撮影が行われたりもするそうだ。
俳優のSNSでよくタグづけされており、予約の取りにくい人気の宿へと成長しつつあると聞いた。
葵さんはここの社長令息ということになる。でも、後継は兄の蓮さんに決まっていて、その手の問題が起きることはこの家には永遠に無いらしい。
だからこそ、ご両親と葵さんがポリアモリーの件で揉めて以来、顔を合わせていないという問題だけが、その頃から悩ましく残っているのだろう。
「ようこそおいでくださいました」
出迎えてくれたのは、兄の蓮さんだった。普段は女将さんである沙枝さんのお母さんが迎えてくれるらしいけれど、私たちの一行は特別対応をしてもらうので、副支配人に全てを任せるようにと全従業員にお達しをしてもらっている。そのため必要以上に声をかけられないようになっていた。
「蓮さん、お久しぶりです。よろしくお願いします。色々ご迷惑おかけして、申し訳ありませんが……」
優希さんは、蓮さんに深々と頭を下げた。
『この家の問題は、全て僕がきっかけだから……。申し訳なくて、顔を合わせづらいけれどね。ちゃんとしないとね』
出発前に、優希さんはそう言って力なく笑っていた。蓮さんはそんな優希さんの心配を知ってか、ほんの少し頬を緩めて微笑んだ。その顔は、驚くほど葵さんに似ていた。
「いえ、事情は全て葵から聞いて承知しております。連絡してくれなくなっていたのに、十年ぶりに声を聞かせてくれました。だから迷惑をかけられたと思うよりも、感謝の気持ちの方を大きく持っていますよ。それに……お二人の新しい生活を私もお祝いしたかったですから。おめでとうございます」
髪が黒く、きっちりとセットしてあることと、葵さんに比べてややがっしりしているという違いはあるけれど、顔立ちはかなり似ていて、血のつながりの強さを感じる。蓮さんも葵さんもとても温厚で柔和で、輝くようなピカピカの笑顔で笑ってくれる。
「ありがとうな、蓮。葵にも散々世話になってるから、俺は市木兄弟には頭が上がらないぞ」
「そう。葵とは変わらず仲良くしてくれてるんだな。ありがとう」
蓮さんが柔らかく微笑むのを見て、ふと疑問に思い、私は横から口を挟んでしまった。
「佐野碧 と言います。葵さんにはずっとお世話になっていて……あの、蓮さんとサトルさんってお知り合いなんですか? なんだか友達みたいに思えたので……」
「あ、言ってなかったっけ? 俺と蓮は高校の同級生なんだよ。あの時代からゲイに理解のあった友人だな」
「そうそう。一人で寂しそうにしてる世理と、仕方なく一緒にお昼を食べることが多かったです」
「……俺に付き合えるってことは、お前も一人だったんだろ?」
「それはそうだな」と言って笑う顔が、本当に葵さんにそっくりで驚いてしまう。私がじっと見ていたからか、蓮さんは私の方を見て感慨深げな顔をしていた。見つめていたことがバレたのが恥ずかしくて、思わず目を逸らしてしまった。
「優希くん、この二人かな? 君がずっと面倒を見ていた子達は。今は葵と一緒に暮らしているんだよね?」
「そうです。こちらが中村了 くんで、こちらがさっき自己紹介してましたけど、佐野碧 さん。二人ともまだ十六歳です。今年高校一年生になりました。あ、二人とも僕たちと同じ高校ですよ」
リョウと私は、エレベーターの中で優希さんから蓮さんに色々と紹介してもらった。私たちは蓮さんに向かって深々と頭を下げ、改めて葵さんにお世話になっていることと、これまでの感謝を伝えた。蓮さんはそれを聞いている間、とても嬉しそうに目を細めていた。
「皆さんで葵を支えてくれて、ありがとうございます。そして、葵からは皆さんをゆっくりさせてあげて欲しいと言われてますからね。いいお部屋をとってくれてますから、しばらくここでしっかり静養されてくださいね」
「えっ!? お部屋って葵さんがとってくれたんですか!? 来てないのに、なんか悪いな……」
「お前達……今までそのことに気が付かなかったのか? ここはお前達に払えるような金額じゃないぞ。金持ち父さんに感謝しろ」
そう言われると途端に心苦しくなってしまった。確かに、料金についての話は一切しなかった。よく考えたらこれまで旅行の手配についてはほとんどしたことがない。
今回も葵さんが全てやってくれていたわけで、そのことに気がつくことも出来なかった。それくらい、リョウも私もまだ子供だということだろう。慌てる私たちの様子を見て、蓮さんがクスッと声を出して笑った。
「申し訳ありません、お客様に向かって……。でも、大丈夫だよ。私は室料については葵からも貰わないつもりなんだ。君たちは葵の子供なんでしょう? だったらうちの家族も同然だからね。家族からお金はいただけませんので。……はい、この話はこれでおしまいです」
そして、パンっと手のひらを合わせて話を区切ると、再び副支配人としての業務に戻った。
「では、改めまして。本日は当ホテル内で撮影をされているお客様がいらっしゃいます。出来る限り配慮させていただきましたが、もしご不便おかけしましたら、すぐにご連絡ください」
そう言って、徐に部屋のドアを開けた。
「こちらは、世理様と佐藤様のお部屋です。お部屋は一室だけですが、広めのベッドと露天風呂付きのお部屋をというご希望に沿わせていただいております」
蓮さんから促されて部屋の中に入り、窓からの景色を見て全員息を呑んだ。
目の前に広がるのは、初夏の陽光を受けて燦然と輝く海だった。青空と海の青が交差する線が見える。自然の色の交差する様子は、小さなことなど忘れてしまうほどに心を惹きつける素敵な光景だった。砂浜は輝くように白く、海の色を際立たせていた。
「うわー! めちゃくちゃ綺麗! こんないい景色見たこと無い! こんないい部屋に泊まれるなんてすごい!」
そう言う優希さんの目は、興奮のあまりはしゃぎ回る子供のようだった。いつもは伏目がちで憂いのある目しか見せない。たまに笑う時に明るみを帯びるくらいだ。その優希さんが全力ではしゃいでいる。
サトルさんは優希さんのその笑顔を見て、とても満足そうに微笑んでいる。そして、二人を遠巻きに眺めている蓮さんは、サトルさんよりももっと嬉しそうに微笑んでいた。
「お気に召されたようで、幸いです」
「いやあ、噂よりもすごくて驚いた。いい部屋をありがとう、蓮」
蓮さんは部屋の細かい説明をした後、カードキーを取り出してサトルさんに渡しながら付け加えた。
「お二人はレストランでのお食事の予定でしたが、警察の方と相談しまして、お部屋での食事に変更させていただいております。ご了承ください」
そう言って、深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません。お手数おかけいたしますが、よろしくお願いします」
サトルさんは蓮さんに礼を言うと、同じように深く頭を下げた。優希さんがサトルさんの姿を見て、少し辛そうな顔をしているのが気になった。
——自分のせいで迷惑をかけてるとか思ってそうだな。
私は少し心配だったけれど、今日からしばらくはサトルさんとずっと一緒なのだから、私が出る幕もないだろうと思って何も言わなかった。
じっと優希さんを見ていると、蓮さんが私の目の前まで近づいて来ていた。慌てる私に、蓮さんはふわっと微笑んだ。
「では、次は中村様と佐野様のお部屋へご案内いたします。フロアが変わりますので、再度エレベーターへご案内いたします」
そう言って蓮さんはドアの方まで進んで行った。ついて行こうとしていると、サトルさんから呼び止められた。
「到着後は、お互い自由行動だからな。ここから先はご自由に。何かあったら連絡してくれればいいから」
サトルさんがリョウにニヤリと笑いかけると、リョウは顔を赤くしながらパッと横を向いた。ただ、その場所には私の顔があって、真正面から向き合う形になってしまった。結局もっと慌てることになって、私もつられてどんどん顔が熱くなっていった。
「りょ、了解です」
錆びたロボットのような動きをしながら、リョウは部屋から出ていった。私はそれを見ていると妙に落ち着いてしまって、くるっと振り返るとサトルさんと優希さんに目礼してリョウの後に続いた。
ドアが閉まり切る前に、サトルさんが漏らした独り言が私の耳に届いて来て、思わず笑ってしまった。
「あーあ、リョウの将来が見えた気がしたぞ……」
◇◇◇
リョウと私の部屋は、さすがに新婚旅行の二人よりはグレードを落としてあるため、下の方の階になっている。
ここでは単独行動を防ぐために、なるべく部屋から出ずに、軟禁のような時間を過ごさねばならない。
葵さんは、苦痛を少しでも減らして過ごせるようにと、なんと露天つきの部屋を準備してくれていた。大浴場に行くようにしていると、私が一人になる時間ができてしまうからだ。
「こちらでございます」
案内された部屋の景色を見て、私は驚いて大きな声を上げてしまった。高校生が二人で過ごすには、贅沢すぎるところだった。
「わあ! すごい! この景色もキレイ!」
高層階ほど不思議な景色の体験は出来ないが、青い空と展望台と砂浜の白、周囲の緑のコントラストがとても美しかった。いつもの生活ではなかなか見ることの出来ない、パキッとした色の景色が心を潤わせてくれる。
「低層階にもそれに応じた良さを提供できるようにさせていただいております。露天もありますが、外からは見えないようになっておりますので、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
露天風呂の周囲がガラスで囲まれているのだが、それはボタンひとつですりガラス仕様になるタイプのものらしい。私はテンションが上がってキャーキャーと騒いでしまった。
珍しくふわふわとしたボトムを履いて、歩きやすいなりにヒールの靴を履いてきている。リョウと初めての旅行デートなのだからと、できる限りでおしゃれをして来た。
こんなにワクワクすることが自分の人生の中で起きるとは思っても見なかった。ずっと抑圧されて、なんとか生活ができて、そういう息苦しいことが永遠に続くのだと思っていた。
——そんなこと無いって言ってくれてるんだろうな……。
いくら葵さんがお金持ちであっても、他人の私たちにここまでする義理はない。特に私は後見人をしてもらっているわけでも無いのに、リョウと変わらないくらいに大切にしてもらっている。
「愛されるって、こういうことなのかなあ」
お金を使ってもらったからというわけでは無いけれど、最近特に葵さんからの愛を感じることが増えてきた。それはやっぱり、佐野の家から出してくれたからだろう。
外で頑張って、戻ったら大切な人しかいない空間が、あれほど幸せだと知ることができた。その有り難さに、毎日泣きそうなほど感謝している。
「では、私はこれで失礼させていただきます。御用がありましたら、フロントではなくこちらへお電話下さい」
そう言って、名刺に携帯の番号らしいものを書いて渡してくれた。
「これは私のプライベートな連絡先です。ここへの滞在中もだけれど、もしこれから先も葵が助けを必要としている時には、私に教えてもらえないだろうか。私は葵の助けになりたい。でも葵から私を頼ることは、おそらく出来ないと思うんだ。君たちが必要だと判断した時だけ連絡をくれたらいいからね」
蓮さんは、葵さんによく似た慈愛に満ちた目で、私たちをじっと見つめている。そして、その目には、おそらく葵さんも見えているだろう。家族から逃げるしか手段のなかった弟を、心から心配しているのがわかった。
「この連絡先は、限られた人間しか知らないからね。安全な連絡先だと思うよ」
「では」と言い残して、蓮さんは去っていった。
リョウと私は、家に残してきた葵さんを思っていた。
「ねえ、リョウ。葵さん、優希さんとサトルさんの新婚旅行を邪魔してでも、私たちを自分の家族に会わせたかったのかもね。私たちって、優希さんに育てられてるじゃない? 優希さんが手を出さずに大切にしてくれたのって、何よりも私たちを見ればわかるもんね。サトルさんはそれに気づいてたから了承してくれたのかな」
リョウは私の隣に立つと、露天に出るための掃き出し窓を開けて風を入れた。春先よりも少しだけ温度と湿度の上がった風は、肌を撫でるように通り抜けていった。
「そうかもね。それに、優希さんがサトルさんと幸せそうにしてるのを見たら、とりあえずペドフィリアのことは忘れるだろうしね。俺たちが葵さんの近況を話してあげることも出来るし」
「そうだね。たくさん話してあげたいね」
それからしばらくの間、二人で黙ったまま海からの風を感じていた。いつもと違う景色、匂い、音の中で、これから色々と変わっていくことを想像していく。ほんの少し怖くなって来たら、その度にリョウの顔を見て安心していた。
「ほんと、綺麗なところだね。葵さんが好きそうな場所」
リョウは私の肌に触れるくらいに近くに立つと、遠くの空を眺めながら呟いた。
「いつか葵さんと一緒にくればいいんだよ。お父さんと子供として。家族旅行だね」
「うん」
私は頷きながら、こういう時にいつも戸惑う。そうなると、私とリョウはどういう関係になるんだろう。家族として振る舞えばいいのだろうか。恋人として振る舞って、お父さんが一緒ってなんだか変だしな、などと色々考え込んでしまう。
「何困ってるんだ?」
リョウは、一人で悶々と考え込んでいる私の顔を覗き込んだ。ほんの少しだけ頬が緩んでいる。
「あのさ、そう言う時って、私って……」
そう言いかけた私を、リョウは後ろから抱き竦めた。そして、頬と頬を合わせたまま、はっきりと聞こえる声で宣言した。
「碧 は、俺の好きな人」
そう言うと、頬を離して私の顎を引き、そっと触れるだけのキスをした。そのまま額をゴツンとくっつける。
「葵さんと俺たちの関係がどうであっても、俺にとって碧 は好きな人。碧 は、俺の彼女。恋人。特別な人」
畳み掛けるように甘い言葉を続けるリョウに、私は面食らってしまった。いつものリョウなら、きっとこんなことは言えない。それなのに、これでもかとぐいぐい押してくる。
リョウは正面から私を抱き直した。体温がゆっくりと伝わってくる。そのままさらにグッと力を込めて抱きしめられた。その力の強さは安心感と比例する。
その時、私は気づいた。私は、生まれて初めて誰かに抱きしめられている。
軽いハグや小さい頃の抱っこは、あのふわふわ幼馴染コンビがいくらでもしてくれていた。でも、愛おしさを込めて、強く抱きしめられるのは、おそらく初めてだ。
苦しくなるほど、ぎゅうっと力のこもった抱擁。それはこんなにも幸せに感じるものなのかと感激していた。自然と涙が流れるのがわかった。
「どうした? 苦しかった? ごめんな」
慌てて力を緩めようとしたリョウのシャツを、ぎゅっと握りしめた。
「やだ。このままがいい」
リョウはふっと息を吐いて軽く笑うと、またぎゅっと力を入れて抱きしめてくれた。
「いいのか嫌なのかわかんないよ、それ」
そう言いながら、私の耳朶とピアスを触った。
「碧 、大好き」
そして、いつもより長く唇を合わせた。
自分の鼓動が強く跳ね始めるのを感じていた。私たちはいつだって一緒だった。どんな辛いことがあっても、必ず隣にいたのはお互いだった。それは、これから先もずっとそうであって欲しい。
葵さんが私たちのどちらも養子縁組をせずに、リョウの未成年後見人を続けてくれているのは、おそらく私たち二人に自由を与えるためだ。
そして、今回の旅行は、家族を意識しすぎて恋人同士としての関係性をダメにしないようにという気遣いだろう。もちろん、二人ともそのつもりでいた。今はまさにそのタイミング。
「私も、大好き」
それなのに……。
「あ!」
突然、私は大声を出してしまった。
「え、何、どうしたの?」
私は、窓の外に見つけてしまった。
「あれ見て。あれ、鈴井玲央じゃない?」
その名前を聞いてしまったら、リョウも甘い気持ちなど吹っ飛んでしまったようだった。さっき蓮さんが言っていた撮影部隊の中にいるみたいだ。
警戒しながら外を見ていると、なんとその近くをサトルさんと優希さんが手を繋いで歩いて来るのが見えた。
すると、驚いたことに優希さんが鈴井玲央に向かって近づいて行くのが見えた。サトルさんは優希さんの後をゆっくりと追っている。
「えっ?」
なんと驚いたことに、優希さんは鈴井玲央に声をかけた。すると、鈴井玲央は満面の笑みで手を振って挨拶をしている。サトルさんは、それを遠巻きに見ているだけだった。
あれは明らかに知り合い同士の挨拶で、しかも表情から察するに付き合い程度の関係というよりは、もう少し好意のある態度だった。
「どう言うこと? 優希さんと鈴井玲央は知り合いなの? 優希さん、鈴井が実在してるかどうか訊いてたよね? 知ってるのにそんなこと訊く? 知らないんじゃなかったの?」
私はうわごとのように独り言を繰り返していた。リョウはそれに、一つの疑問を抱いたようだ。
「もしかして、あの男も実は鈴井玲央じゃないんじゃないの?」
「えっ!? じゃあ、本当に鈴井玲央は実在しないってこと? ……鈴井玲央という人のふりをしてるってこと?」
「……うん。他の人ならわからないけれど、優希さんが嘘をつくとは思えない。人柄もそうだし、何より自分が狙われてるかもしれないのに」
確かにそうだとすれば、辻褄は合う。優希さんの中で人物と名前が合致していないと考えるのが自然だろう。では、あの男は一体誰なのだろうか。
「リョウ。とにかく下に行こう」
私は慌てて出て行こうとした。しかし、リョウはこのままあの場に行っても大丈夫なのかどうかがを判断しかねたらしい。
「碧 、待って。葵さんに訊いてみよう」
そういうとすぐに葵さんに電話をかけた。私はその間、見失ってしまわないようにと露天風呂のあるバルコニーへ出ていった。そして、下をのぞいていると、聞き覚えのある声の女性を見つけた。
「中野さーん。こちらにお願いしまーす」
すると、鈴井が振り返って、その女性の方へと歩いて行った。中野と呼ばれた鈴井は、日傘の下でヘアメイクを直している。そしてメイクアップアーティストの近くに立ってアシスタントをしているのは、なんと美咲さんだった。
「美咲さんだ!」
思わず大声で叫んでしまった。そして、私の声に気がついた美咲さんが上を見上げると、バッチリ目が合った。間違いなく、高橋美咲さんだった。
「あー!そういえば、旅行だったよね!」
仕事中にも関わらず、こちらに向かってぶんぶんと手を振ったことで、メイクアップアーティストから叱られている。その隣で、中野と呼ばれた男は美しく微笑んでいた。
ただ、その男は私を知っているはずなのに、目が合っても全くの無反応だった。芸能人は一般人に会ったくらいじゃ動揺しないのかと思いもしたが、その様子がどうしても気になった。
同じ名前を名乗っているもう一人の人は、優希さんを狙っていたみたいなのに、ナカノは優希さんと笑い合うほどの知り合い……。そしてあれだけ何度も会ったのに、私には気がついてない。どういうことだろう。
「碧 。葵さんがやっぱり現場には行くなって……あれ? 美咲さん?」
リョウにも気づいた美咲が、またぶんぶん手を振って、今度は小突かれて叱られていた。
「あはは。働きなー。またねー!」
私は美咲さんにそう言うと、リョウに小声で耳打ちした。
「鈴井玲央が私とリョウに全く無反応なの、変だと思わない?」
リョウも同じことを考えていた。首を縦に振り、神妙な面持ちで眉根を寄せいていた。
「あ。それにね、さっき美咲さんあいつのこと『中野さん』って呼んでたよ」
「じゃあ、さっき話してた説は有力なのかもね。あいつも鈴井玲央ではない説」
「そもそも、鈴井玲央は吉良燁の小説の主人公なんだよね……じゃあ、なぜあの人は鈴井玲央って呼ばれてるんだろう」
鈴井に関して、新たな謎が生まれた。色々引っかかることがあるけれど、今の私たちは新しい手がかりを得るには自由の利かない状況にいる。仕方なく部屋の中に戻った。
「優希さんが近づいて行ってたってことは、モデルさんかなあ。優希さん文芸だけど、高橋さんと仲良かったから。モデルさんともちょいちょい喋ってたみたいだもんね」
私はそう言いながら、ベッドにダイブした。横になって耳を触る。そこには護身用のピアスと、もうひとつヘリックスに輝くダイヤモンドのピアスがある。
これは、葵さんの家に引っ越した日に記念に開けたものだ。リョウがくれた誕生日プレゼントでもある。十六歳の誕生日に、リョウがくれた婚約の印だ。
「アオイ」
リョウは私の隣に寝そべった。そして、その婚約のピアスを大切そうに擦った。大切な時にだけ呼ぶ「アオイ」が胸に響く。
「あの……ちょっと謎解くのやめて、俺の方を見ててくれない?」
そう言って、啄むようなキスをした。
「俺だって恥ずかしいんだからさ」
私はずっと恥ずかしくなるたびに話を逸らして逃げていた。しっかりリョウにはバレていたみたいだ。ちらっとリョウの目を見ると、真剣な眼差しで私の目を見ていた。
その目に捕えたれたような感じがして、体を竦めた。
「抱かせて」
リョウは右手を私の後頭部に添えると、噛み付くようなキスをした。
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