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第28話 優しい世界

「本当は打ち切りじゃなくて、他の作品も書きながらの継続だったら可能だったんだけどね。吉良先生は、どうしてもそれをしようとしなかったんだ。だから、打ち切りにして一旦休んでもらって、新しいシリーズものを始めさせようって方針だったんだよ」  里井が乱入して来て収束した騒動は、「詳しいことはあとで話すから」と言う里井の願い出により、佐野さんを帰宅させることで落ち着いた。  本来ならば警察に突き出すべきなのだろうけれど、ここにいる人間はほとんどが佐野さんと付き合いのある人間だ。出来ることなら事情を確認した上での自首を勧めたいと思っている。そのため、里井のその要求をのんだ。  里井が佐野さんを抱き抱えて連れ帰った後、蓮兄さんから夕食は全員ここに用意するよと連絡が入った。その方が安全が確保できるだろうと踏んだ俺たちは、今全員で夕食を摂っている。 「鈴井玲央に入れ込んでいたことは分かっていたけど、あんなになるまで恋していたのかと思うと……気がついてあげられなくて申し訳無いよ。かなり苦しんだだろうね……」  その人間に命を狙われていた人とはおよそ思えない発言をする優希に、ミドリは呆れていた。俺やサトルはそれが優希だとわかっているから、苦笑いしか出てこなかった。 「なあ、ミドリ。お母さんは、暗いところは目が効かないのか?」  さっきの大捕物を思い出したサトルが、ミドリに問いかける。暗い部屋の中で逆光だったとはいえ、娘と成人男性を間違えるものだろうか。  一つ可能性があるとすれば、夜目がきかないということだろう。    ミドリは、その問いに自虐的な笑みを浮かべながら答えた。 「そういえば、昔からそうでした。ろくに食事せずにお酒ばっかり飲んでるから、暗いところがよく見えてなかったと思います」 「そうか。それなら見間違えるのは仕方がないのかもしれないな。思いっきり優希だと思ってたもんな。だから、無理かもしれないけれど、あまり気にするなよ」  サトルの気遣いに、ミドリは無理に笑顔を作って「はい」と答えていた。それでも、たとえ人違いをされていたとしても、実の親が目を剥いて殺意を持って突進して来たことなど、忘れることは出来ないだろう。  サトルだってそれはわかっているだろう。それでも、他にかける言葉が見つからないからそう言っただけだ。理不尽な思いに踏みつけられて生きてきた俺たちだからこそ、許される同情だった。 「しかし、金儲けはわかるけれど、殺人の妨害ってなんなのかねえ」  後藤さんが箸を振り回しながら呟くと、沙枝姉さんがそれを「こら! お行儀悪いわね!」と嗜めた。 「金儲け……はピアスを売るってことですよね。あの人、向井に協力してた人ですよね。あのピアスを作って売ることに協力するのが目的の一つ」  後藤さんも「そうだろうな」と言って頷いた。 「殺人の妨害ってさ……」  優希は宙を見上げながら、何か思いついたように割って入った。 「吉良先生に殺人をさせたくなかったってことなのかな」 「え?」  そこにいる全員が、口を揃えて優希に視線を集めた。 「つまり、お母さんが優希さんを殺そうとするのを妨害したかったって事ですか? それが里井さんの目的の二つ目ってこと? なんでそう思うんですか?」 「うん……あの人、鈴井玲央の偽物なんでしょう? というより、鈴井玲央2号って言えばいいのかな? だとしたら、吉良先生に殺人はしてほしくないんじゃないかなと思って。玲央のプログラムが吉良先生の意向を汲んで作ってあるのなら、玲央は先生の恋人っていう設定だろうから。その生活を続けていると、吉良先生を恋人として大切に思い始めるんじゃないかなと思って」 「自分の恋人が殺人犯になる前に止めようとしてるってことか。それにしては止め方が手荒かった気がするけどな」  後藤さんが呟くと、サトルが被りを振った。 「いや、精神障害がある人が暴れ始めると簡単には止められないので、被害を最小限に止めたという意味では、あれで正解かもしれません」 「そういえば、里井がやってたことって、睡眠導入剤の注入だけだったよね。致死量でもなんでもなくて、ただ眠らせるためだけの量だったんでしょう?」  沙枝姉さんがサトルに訊くと、サトルはハッと気がついたように「確かにそうだった」と言った。 「ずっと眠らせていれば、所内にいることになる。その間、佐野さんは優希に手が出せない。……つまり、やっぱりあいつは佐野さんから優希を守っていたってことか」 「結果的には、だろうけどな」  俺はそこを強調したかった。里井は優希を守ったわけじゃない。たまたまそうなっていただけだ。  優希を守ることが佐野さんを守ることにもなる。そう思った里井は、優希が外に出るタイミングを少しでも遅らせようとして、睡眠導入剤を注入し続けた。それは大きな罪だ。おそらく里井もそれはわかっているのだろう。 「里井に話してもらわない限り、本当のところはわからないな」  サトルがそう呟くと、後藤さんも「そうだな」と呟いた。里井は詳しいことは後で話すと言っていた。あの言葉に嘘は無さそうだった。でも、あの男がこちらに連絡を取ってくるのをずっと待っていてやる必要もない。 「あいつ、研究所の人間なんだろ? 有木さんに連絡先を調べてもらうことはできないのか?」  事情を全て知っている有木さんになら、話が通しやすいだろう。「そうだな」とサトルも同意して、有木さんに連絡をとることにした。もう既にかなり遅い時間なのだが、彼ならまだ所内にいるだろう。  サトルはタブレットのアプリから、ビデオ通話で有木さんへ連絡を取った。 「はい? なんだよ、旅行中じゃないのか? おかげでこっちはまだまだ仕事中なんですが」  有給休暇中のサトルにイラつきながらも、有木さんはすぐに出てくれた。話しながらもずっとキーボードを打つ音が聞こえている。 「忙しいところを悪いな。ただこっちも旅行どころじゃ無くなって来てしまって。襲撃されて大変だったんだよ」  変わらずカタカタと鳴り響くタイピングの音をBGMに、有木さんはサトルと話し続ける。 「襲撃? そりゃ穏やかじゃないな……日頃の行いが……」  そこでピタッと全ての音が止まった。代わりに響いたのは、有木の大声だった。 「なんだこれ! 佐藤優希のGPSがチェックされてるぞ! 何も無いのにチェックするのは規則違反だろ!?」  驚く有木さんをよそに、サトルは冷静な声で彼にその情報の先を求めた。 「やっぱりか……有木、それを調べたのは誰になってる?」 「IDは向井になってるぞ。でも、いつも向井のIDで里井がなんかしてるんだろ?」  サトルも最初はそう思っていたが、おそらく今回はそうじゃない。向井は自分のカードを使って里井を入退室させていただけだ。データベースに触ることはさせていなかった。    それをするには、もう一つ別のIDとワンタイムパスワードが必要だからだ。それを里井に教えるには、二人が揃っていないと不可能だろう。そんなリスキーなことはしないはずだ。 「向井は今日出勤してたか? 里井は?」  有木が勤怠を調べている。すると、有木の背後から、ほんの僅かに里井の声がマイクに乗って聞こえてきた。 「里井! こっちに顔出せ!」  サトルが叫んで呼ばわると、里井の美しい顔が大きくモニターに映し出された。 「なんですか?」  吉良を連れて行った時とは打って変わって、焦点があっていないような、夢を見ているような、あの光の無い目をしていた。ただし、それは操られているようなものではなく、意図的に心を閉ざしている目だ。  それに、大きなダイヤモンドのピアスをしているが、それはどう見ても優希達が使っている人工ダイヤとは違う輝きを持っていた。 「お前、それただのジュエリーだろ? なんで操られているフリをしてるんだ! お前はそこで何をしているんだ!?」  話の見えない有木は、サトルの激昂ぶりに驚いていた。それに対する里井の冷め方もまた、尋常ではない。冷たいが、圧倒的な意思を感じる空気を纏っていた。 「先ほど燁さんが佐藤優希を襲ったことを無かったことにするなら、話します」  その里井を見て、優希が即座に反応した。 「里井さん、いいですよ。その条件のみましょう。実際何もされなかったんだし。そもそもこの問題は、僕が吉良先生を説得しきれなかったから起きたことですから」 「優希! お前、刺し殺されていたかもしれないんだぞ!」  サトルは優希の方を振り返った。その目は、困惑しきっていた。代わりに刺されて苦しんだはずなのに、こんな発言をする優希に対して、全く怒りを感じていないようだった。  俺は呆れてしまった。このカップルは、本当に人が良過ぎる。優希はそんなサトルを見てにっこりと微笑むと、右耳に髪をかけて耳朶を擦った。 「それだって、原因を理解して助けてあげるべきだったんだよ。僕が犯罪を犯す前に助けてもらえたように、吉良先生だって助けが必要だったんじゃ無いかな……。僕と先生の違いは、深く思ってくれた恋人の存在があったかどうかだけだよ。だから、今日のことはもういい。でも……」  優希はモニターの中の里井を睨め付けた。そして、やや語気を強めた。 「サトルを刺したことだけは、償っていただかないとね」  里井は優希の目をしばらく見つめたまま、じっと動かずにいた。何かを確認しているようで、だんだんその目が焦点を合わせてくるのがわかった。操られているフリをやめたその目は、優希以上に揺るがない意志が燃えていた。  そして、全ての警戒を解いたかのように、ふっと雰囲気が変わった。 「それはわかっている。その件に関しては、問題が大きすぎる。だから、それ以上の罪を重ねないために、俺はここで先生と佐藤優希を接触させないようにしていたんだ。そのために、大して必要ともされていないのに、事務員の枠を増やしてもらってここに置いてもらった。向井のあのビジネスを手伝うことを条件にね」  その時、モニターを確認していた有木が、話を遮った。 「おい、お前ら。この話、別の場所で直接話せ。盗聴されているかもしれない」  研究所内で盗聴をするなど、通常ならばあり得ない。ただし、システムの管理を担当する人間が、元々そういう前提でシステムを組めば可能だ。この研究所では、不可解なほどに至るところで向井が関わっている。あの男なら、可能なのだ。 「また向井か……あいつさっさとクビにしろよ……」  サトルが苛立ちながら吐き捨てると、里井はことも投げに言い放った。 「何? あんた知らないの? ここの所長、向井の操り人形なんだよ。所長自身がペドだからね。だから向井がクビになることは無い。それに……」  里井はダイヤのピアスを手に持っていた。それは中野洸太と里井がつけていた、鈴井玲央人格を形成するピアスだ。 「もうわかってるみたいだけど、これは依頼人の望む人格を形成するための装置だ。この研究は、あんた達がしてきた犯罪抑止のための知識を応用してある。つまり、罪を防ごうとすればするほど、罪は増える。悪用して金を稼いで、被害者を増やそうとする奴が、善人ヅラしてここを運営してるんだよ。これの小型を身につけて身を捧げた子供は、もうすでに何人かいるぞ」 「なんだって……」  その場に戦慄が走った。誰も何も言えなくなってしまった。モニターを通して、研究所の装置の作動音だけが聞こえてくる。それがやたらと耳についた。その言葉の意味が分かりかけたところで、優希がへたり込む音がした。 「優希!」  サトルは優希を抱え起こしながらも、怒りで体が震えるのを止めることができない。優希も同じような状態だった。 「そんな……なんでそんなことを……」  そしてそれは画面の向こう側の有木さんも同じだった。これまでやってきた研究が、一番無くしたいと思っていたペドフィリアの被害者を増やすという悪事に加担していた、脳がそれを理解するのを拒否しているようだった。 「嘘だろ……」  有木さんは、目の前にいる男が、それを事もなげに言い放ったことにも納得がいかなかったようだ。 「それで……お前はなんで向井に協力してるんだ? ゲスな大人が性欲満たすために子供を利用することを知っていても、なんとも思わないのか?」  有木さんは話せば話すほど怒りの温度が上がっているようだった。それでも、彼の心情を思うと、俺にはそれを止めることは出来ない。気づくと彼は、里井の胸倉を掴んで立ち上がっていた。  有木さんはこの研究所で唯一、装置開発の段階から関わってきた人間だ。リョウの耳が潰された時、自分が開発したもので人が傷つけられたという事実に酷く落胆していた。その彼が、それよりも酷いことが起きていて、それにここの人間が関わっていたなんて言うことを知って、冷静でいられるわけが無い。  そんな有木さんの様子を見て、里井は吐き捨てるように言った。 「俺は、この人格形成装置に助けられた人間だ。これが無いと普通の人として生きていくことも出来ない。装置開発が打ち切られると困るんだよ! それに……」  里井はモニターを見た。そこには、優希やサトルの後ろで四人の会話を固唾を飲んで見守る、ミドリの姿があった。 「燁さんをを守りたかったんだ。たとえ俺の全てを犠牲にしても」  そう言ってミドリを見つめる里井の目から、つうっと涙がこぼれ落ちた。 「どうしてですか?」  ミドリは、モニターの向こうの里井を見つめ返した。里井がそこまでして佐野さんに入れ込む理由は、俺には想像がつく。それにしても、一般的な感覚であれば、犯罪に加担していく恋人のことは、止めたがるものじゃ無いのだろうか。  里井は佐野さんが殺人の罪に汚れないようにするために奮闘していたのだから、その感覚を持っているはずだ。それなのに、この件に関してだけは頑なに向井の方へつこうとする。それが佐野さんを守ることになるという意味はなんだろうか。 「私は家でのあの人しか知りません。その部分は最低です。あなたが犯罪を犯してまであの人を守ろうとするのはなんでですか? だって、恋人はあなただけじゃ無いんでしょう? 何人かのうちの一人なのに、なんでそこまでするんですか?」  里井はミドリから目を逸らした。そして、唇をギュッと引き結んでしまった。その里井の様子を見て、沙枝姉さんはピンと来たらしい。 「燁さんを愛してしまったのね、本気で。ピアスをした人格じゃなくて、あなた自身が」  里井は沙枝姉さんの問いかけにピクリと反応した。何も言わないが、否定しないことが答えなのだろう。何人もいる鈴井玲央のうち、献身的な行動をとるのは里井だけだ。  ピアスを外してもそれが変わらないということは、里井自身が佐野さんに好意を寄せいていることに他ならない。 「どうなの? 燁さんを好きな鈴井の意識が、あなた本人にもそうさせるようになったってところ?」  それでも里井は、黙っていた。ただその顔は次第に眉間に皺を寄せていき、何かの痛みを堪えているように変わっていった。そして、喉の奥から絞り出すようなか細い声で、その思いを吐露し始めた。 「最初は……おそらく、そうだ。俺は無職だったから、鈴井として燁さんと行動する時間が長かったんだ。だから他の誰よりも鈴井としての行動の影響が体に残りやすかった。買い物に行った時に、ふと見たショップで燁さんに似合いそうなものを選んでいた事に気がついて、そこで自覚した。……今は、俺の意思だと思っている。だから、殺人だけはさせたく無かった。そうならないように最善の策が見つかるまで、ここで佐藤優希を眠らせておくつもりだったんだ」  そう言われれば自然な流れのように思える。それでも俺は、里井の入れ込み方が気になった。好きだからというだけで、犯罪に加担してまですることだろうか。優希のことだって、眠らせ続けると何が起きるかわからない。下手をすると亡くなるかもしれない。そうなると、自分がまた別の罪に問われる可能性がある。そもそも睡眠導入剤の不正使用の時点で、彼は罪を犯しているのだから。 「なあ、里井さん。お前の普通じゃないところってなんなんだ。それがわからないと、犯罪に加担して、さらに罪を重ねて、そこまでして佐野さんを守る理由が好きだからって言われても、誰も納得出来ないぞ」  後藤さんの問いに、里井は黙った。これまでになく、長く、長く沈黙した。そして、汚らしいものに触れるような表情で、吐き捨てるように叫んだ。 「俺は、嗜虐性が異常なほど強くて、人の血を見ると興奮するんだ。しかもネクロフィリアでもある。そのままじゃ普通に生きていけない、社会不適合者なんだよ!」 「ネ、クロフィリア……し、死んだ人が好きってこと?」 「そうだ。生きてる人間は死ぬほど痛めつけないと興奮出来ないし、死んだ人間はそれだけで興奮する。ゴミみたいな人間なんだよ」  死んだ人間が好き……? さすがに驚きを隠せなかった。死体性愛。聞いたことはあったが、本当にそんな人がいるとは思っていなかった。それも、里井はどう見ても精神に異常を来しているようには見えない。それなのに、そんな異常性愛を抱えているとは信じがたかった。 「それは辛いですね……でも、ピアスに感謝しているってことは、自分ではそれを異常だと認識してたってことですか?」  口火を切ったのは優希だった。子供の頃からそうだったのに、それを当然だと思わず、異常性を感じることができたのはなぜか。確かにそれは気になった。 「……保育園で俺がウサギを痛めつけているのを見た保育士が、泣いてたんだ。俺は先生が死んだうさぎを怖がって泣いてるのかと思ったら、俺がうさぎを殺して楽しそうにしていること自体を怖がっていた。それを聞いて、知った。俺はおかしいんだって。俺はうさぎが血を吐いて苦しんでいるのを見ても、ただ面白かっただけだから。他の人はそうじゃ無いってことを、その時に知った」  里井は、有木のそばに崩れるように座り込んだ。そして、自分の中の苦しみを手放すように、ゆっくりと静かに言葉を重ねた。 「ネクロフィリアだとわかったのは、仕事の時だ。俺は昔、火葬場で働いていた。数年勤務していた間は大丈夫だったんだ。それなのに……最初は驚いた。毎日遺体に対面するからおかしくなったのかと思った。でも、体の反応は俺の意思とは無関係に起きる。起きた反応を仕事中に処理できないだろ? それで……気づかれたんだよな、遺族に。騒がれたよ、不謹慎だってな」  里井は、頭を抱えたまま自らの髪を掴んで、それを引っ張りながら話している。まるで自分自身を痛めつけているようだった。 「……そうなると、もう異常者扱いだ。実際異常だしな。即、追い出された。難癖つけられて、退職だ。こっちだってこんな面倒くさい性癖いらねえっつうんだわ」  それからは、職を転々とし、彼女ができても、性行為中に相手を激しく暴行し、逃げられることが続いた。あまりにひどい時は何度か通報されて、そのうち逮捕された。  それが何度も続いた。そして、ついに仕事につくことが出来なくなった。野垂れ死んでもいいと思っていたけれど、人はそう簡単には死なない。毎日が絶望の淵だった。どうやって死のうかと考えていた、そんな時に向井と出会った。 「最初は佐藤優希と同じように、行動療法を受けていた。でも、俺の嗜虐性は強すぎて、矯正するのにかなり時間がかかりそうだと言われた。そこで、人格形成ピアスのモニターになれと言われたんだ」  その時、たまたま鈴井玲央を増やそうとしていた佐野さんの要望で、里井は鈴井玲央の人格を当てられた。モニターだが、人生が左右されるため、固定の給料も発生する。名前はそのままだが、整形して顔を変え、佐野さんの恋人としての生活が始まったのだと言う。 「娘にとってはどんな親なのか、俺は知らない。俺が知っているのは、女性としての吉良燁だけだ。俺にとってのあの人は、俺に笑顔を向けてくれる唯一の存在だ。これまでの人生で俺に笑顔を向けてくれた人なんて、いなかったからな。周囲に大切にされなかった気持ちなら、あんたらにもわかるだろう?」  俺たちは、その言葉には深く共感する部分が有った。俺、優希、サトル、リョウ、ミドリ、沙枝姉さん、後藤さん。全員が親から拒絶された経験を持っている。  それが影響してか、誰かを好きになる時のハードルが低い。惚れっぽいともいうのか。そして、惚れると入れ込む。そういう意味では、今ここにいるものたちは、ある意味皆一緒だ。 「俺には、本当のところはわからないな」  唯一例外とも言える有木さんがつぶやいた。 「でも、想像はつく。つまり、お前は金が欲しくて加担していたんじゃなくて、生きるための場所が無くならないようにしていたら、結果的に今の状況に陥ったってことだな。その中で佐野さんに恋をした、と」 「まあ、そういうことになるな」  里井は下を向いたまま、答えた。 「……佐野さんは、俺を刺した件だけで自首させるってことでいいな?」  全員がモニターを食い入るように見ていた。この男がなんと返答するかで、全ての結末が変わる。 「ああ、そうしてもらう。ただ、向井のしていることは、伏せていかないといけない」  その言葉に納得がいかず、詰問する声が飛んできた。 「どうして!?」  優希がモニターの向こうにいる里井にくってかかった。その目には、俺がこれまで見たことが無いくらいに強い光が宿っていた。 「治療すれば幸せに暮らせるのに、どうして犯罪を助長するような行為に手を貸すの! 先生が自首したら、君はもう手伝う必要はないだろう!?」  里井はその優希に真っ向から噛み付いた。里井も長く苦しんで出した結論なので、そう簡単には譲らない。 「人格形成の装置が壊れたら、俺はまたネクロフィリアに戻ってしまうんだ! 殴りつけて歯が折れて、骨が折れて、血だらけになっている人間を見て、せせら笑って勃てるような男、最悪だろう!? 遺体を見て欲情するんだ。……もう嫌なんだ! 二度とそんなふうになりたくない! 生きている人を愛してしまった後に、そんな自分は到底許せない。俺が俺を気持ち悪いと思ってしまったから、もう引き返せないんだ!」  里井は頭を抱えて泣き始めた。普段の里井が見せていた顔は、いつも無表情かうすら笑いで、何を考えているのか全くわからないやつだった。その里井が取り乱して泣いている。  嗜虐性の強さやネクロフィリアに気づかなければ、里井自身は幸せだったのかもしれない。ただそうなると、この男の犠牲になる人が必ずいたはずだ。    それを止めた時点で、十分償っているのではないだろうか。それは優希と同じだ。 「里井。俺の治療を受けてみないか?」  サトルは優希を後ろから抱きしめると、モニターに向かって穏やかに話し始めた。 「優希は、ここまで良くなるのに本格的な治療を始めてからは一年半しかかかってない。もちろん、再発しないようにこれから先も経過の観察は必要だ。ただ、この治療に一番効果的なのは、恋愛対象者が存在することだ。お前はそれをクリアしている。それなら、治療の効果は早く出るはずだ」  里井はまだ泣いていた。それでも、話は耳に届いているようだった。そこで俺は、サトルに次いである提案をする事にした。 「里井さん、とりあえず今までの罪は償おう。あなたも自首してください。弁護士は紹介しますし、費用は立て替えます。安心してよ、俺こう見えても結構金持ってるから。で、治療もしましょう。ここの治験に協力すれば、費用はかからないはずです。それから、全て終わったら、佐野さんと一緒に生きていけばいいでしょう?」  それを聞いた里井は、ふっと笑った。その中には、俺に対する侮蔑の気持ちが含まれていた。 「そんなにうまくいくわけないだろう? 治療がうまく行ったとして、その後はどうやって生活するんだよ。もう仕事は見つからない。これまでも見つからなかったんだ。これからじゃ、余計に雇ってもらえない。治ったとしても、過去がついて回る限り、俺はもうまともには生きていけないんだ」  すると、そこでひょっこりと後藤さんがモニターの中心に顔を出した。 「心配すんな。仕事なんて作ればいくらでもある。そのやり方を知らないから行き詰まるだけだ。自由になったら、俺んところ来い。葵に金借りるなら、葵のパートナーである俺がこき使ってやるから」  そう言って、ニカっと笑った。隣で俺は「あはは」と乾いた笑いを漏らした。後藤さんはそれが不満だったらしく、「んー」と言いながら俺にキスをしてきた。  普段から後藤さんは空気を読まない。それにしても、さすがに今はダメだろうと思って、俺は思いきり後藤さんを突き飛ばした。 「何やってるんですか、こんな話をしてる時に!」  俺が後藤さんを責めると、モニター越しに里井がふっと吹き出す音が聞こえた。そして里井はつうっと涙を流し始めた。 「本当にいいのか? 俺だってお前たちに迷惑をかけたのに、そこまでしてもらっていいのか?」  その里井の姿を見て、後藤さんは表情を引き絞ると、とても深く低く優しい声で里井に呼びかけた。 「お前がそんなふうに生まれてきたのは、お前の責任じゃない。それを治す手立てがあるのなら、治せばいい。そして、治ったら俺たちのために働け。馬車馬のように働け。俺は人をこき使うのが大好きだ。覚悟しておけよ? そして、幸せに生きろ。それが条件だ。いいな?」  それでも返事が出来ない里井に向かって、俺は付け加えた。 「里井さん、俺元弁護士なんだ。もし後藤さんが嘘ついたり脅して無理な働き方させたら訴えてあげるよ。弁護士に復帰すれば可能だから。だから安心してよ」 「なんだとこのやろう!」と言いながら、後藤さんは俺を抱きしめてめちゃくちゃにキスをしてきた。それを見て周りが笑っている。  その大騒ぎの中で、モニターの向こうの里井が泣き崩れるのが見えた。 「こんな優しい空気、今まで知らなかった。俺もそんなふうに生きて行きたい。……よろしくお願いします」  その里井の姿がとても小さな子供のようで、有木さんが里井の頭をよしよしと撫でていた。その優しさが伝わったのか、里井は大声を上げて泣き始めた。

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