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第29話 本当の望みは

◇◇◇  私は昼過ぎに目を覚ますと、窓辺でコーヒーを飲んでいた。今、目の前には、さっき突然やって来た中野洸太とマネージャーがいる。人の眠りを妨げるような突然の来訪。そして今、彼らはまた勝手な言い分を披露している。 「ブレーカーシリーズが終了するので、鈴井玲央を辞めさせてほしい」  そう言われたのは、つい三十分前のことだった。いつかはそう言われるのだろうと思っていた。それはわかっていたから、鈴井玲央を増やすために、向井に候補を探してもらっていた。  里井という人物が、ようやく理想の玲央に近づいてきたところだった。もう少しで彼は中野洸太の代わりになれる。そうなれば私だって何も言わない。それなのに、自分たちのタイミングを押し付けてくるのが気に入らない。  私を利用したくせに、私の希望を聞き入れようとはしない。 「中野はこれから仕事も増えますし、鈴井に縛られていることが得策とはどうしても思えません。吉良先生も、どうか現実を見ていただいて……」  そう言われた途端、私の中で激しい怒りが湧き起こった。気がつくと、淹れたてで熱いコーヒーの入ったカップを、そのままマネージャーに投げつけていた。 「きゃー! 熱いっ!」  ゴトンっと音がしてカップが落ちた。分厚いマグカップだったのと、ラグの毛足が長かったのが幸いして、取手の部分にヒビが入っただけで済んだ。 ——良かった。割れると面倒だもの。  そう思いながらも、コーヒーがそこに染み込んでいくのを、私はただじっと見ていた。  玲央はカップの直撃したマネージャーの顔を覗き込み、「大丈夫?」と声をかけている。彼女は熱さと痛みで呻いていた。 ——だから、なんなのよ。私の玲央のくせに。  目の前で違う女を大切そうにしている玲央の姿を見ていると、その全てを破壊してやりたい衝動に駆られ始めた。 「燁さん!」  玲央が私の顔を見る。その目は、私を睨め付けていた。憎悪という言葉がピッタリ当てはまる、恐ろしい顔。 ——私じゃなくてその女を庇うのね。  そう思うと、もう止まらなかった。 「現実を見ろ、ですって? 全くの新人だった中野洸太がここまで売れたのは、誰のおかげなのよ! 私の作品のおかげでしょう!? よくそんな口が利けるわね!」  落ちたマグカップを拾い上げ、振りかぶった。その時、玄関の鍵が開く音がした。ドスドスと重い足音が数人分聞こえて、リビングへ人がたくさん雪崩れ込んできた。 「お母さん!」  そう言いながら、(あおい)とリョウくんが走ってきて、慌てて私を取り押さえた。 「何するのよ! 離して!」  私は(あおい)を蹴り飛ばすと、リョウくんを突き飛ばした。二人はまるで人形のようで、簡単に遠くまで吹っ飛んでいった。 「激昂した時の気の触れ方が、尋常じゃない。まともに近づいたら危険です」  玲央が二人にそう言っている。危険だと言われたことが心外で、さらに怒りが燃え上がるのを感じた。 「燁さん、ごめんなさい」  そう声が聞こえたかと思うと、ふっと意識が飛んだ。あの声は、里井純? どうして私を攻撃するの? ——どうして、私は誰からも求められないの? ◇◇◇  俺が部屋に入った時、里井が佐野さんを手刀で気絶させているのが目に入った。佐野さんは、そのままその場に頽れた。里井は佐野さんをふわりと抱き抱えると、そのまま寝室へと連れて行った。 「世理さん、お願いします」  事前に打ち合わせていた通りに、寝室で待機していたサトルに佐野さんを任せる。サトルは佐野さんに鎮静剤を打って、そのままここで監視することになっていた。  リビングでは、ミドリが中野洸太に聞き取りをすることになっている。 「中野洸太さんですよね? 初めまして、佐野愛美の娘の碧です。中野さん、実は私は何度かあなたにお会いしているんですが、覚えていらっしゃいますか?」  今の中野はピアスをしていない。たが、さっきの里井の話が本当なら、うっすら記憶は残っているはずだ。この数年、間違いなくこの人は佐野家に何度も出入りしていた。少しくらいは、覚えているはずだ。 「見かけたことはあるな……という感じはあります。でも、吉良先生の娘さんという感じではないというか……」 「吉良先生?」  沙枝姉さんが驚いて大声をあげた。 「本当に別人格なのね。いつも燁さんの隣で、デレデレになって見つめていたあの鈴井玲央と中野さんは、全然違うわ」 「そうですか……あの、どうしても鈴井玲央さんに確認しないといけないことがあるんです……。ピアスつけて話してもらえないですか? 玲央さんの証言が欲しいんです」  中野もマネージャーも、このピアスで人格が変わることは、もちろん知っている。知名度の低いタレントがパトロンを得るために取った手段として仕方なくつけていただけで、進んでい使いたいとは思っていないのだろう。  特にマネージャーは、もうこれを二度とつけさせたくないと思っているはずだ。これから先のキャリアに、吉良燁との関わりはマイナスにしかならないと踏んでいるようだった。 「お願いします。ここで一人亡くなった方がいるんです。その日、ここには鈴井玲央さんがいたはずなんです。見たこと、知っていることを証言してもらわないといけないんです」  それを聞いて、マネージャーは悲鳴をあげた。 「え!? 人が死んでる!? どういうことですか!? そんな話なら、余計に関わらせたくありません!」  狼狽えているマネージャーの隣で、中野自身は難しい顔をして考え込んでいる。彼は正義感が強い方らしく、グッと表情を引き締めると、マネージャーに優しく声をかけた。 「大丈夫だよ。僕は殺人に加担したりはしてない。そこまで強烈なことを体験すると、玲央と僕で意識が共有されるんだ。でもそんな経験をした覚えは無い」  そして、ミドリの目をまっすぐに見つめた。 「わかりました。つけます。ただ、玲央が何を話したのかは僕自身も知りたいので、動画で記録してもらってもいいですか?」  すると、リョウがスマホを持ち出した。 「これでもいいですか?」  中野は頷いた。そして、ふーと大きく息を吐くと、大きなダイヤモンドのピアスをつけてくれた。  下を向き、ピアスをつける。そして前を向くと、中野洸太は、もう鈴井玲央になっていた。 「鈴井さん、お久しぶりです」  ミドリが玲央に話しかけると、しっとりと妖艶な微笑みをミドリに返した。 「珍しいね。僕に話しかけてくるなんて」  その言葉を聞いて、一同は驚いた。話し方が全く違う。 ——酒の匂いをさせて倒れていたあの男に間違いない……。  俺は、こうなることをわかっていたものの、あまりの変貌ぶりに呆気に取られていた。目つき、身のこなし、そして声までが違う。特に声の違いは背筋が凍る思いがした。肉体は変わらないのに、骨格も筋肉も全く変わっていないのに、まるで違う声に驚くばかりだった。 「あの、ちょっと聞きたいことがあるんです。もしかしたら、思い出したくないことかもしれません」  玲央は窓の方を向いて、遠くを眺めた。察しがついたのだろうか。ふっと息を吐くと、「高橋さんのことと、リョウくんの耳の件だよね?」と言った。ミドリが頷くと、玲央はリョウの方を向いて徐に頭を下げた。 「君の耳が潰れるまでピアスを押したのは、私です。酷いことをしました。痛かったよね? ごめんなさい」  リョウへと視線を送ると、彼はガタガタと震えていた。 「あの日、ミドリの部屋に行っていたはずが、目を覚ますと耳に激痛が走っていて血だらけでした。しかもいつの間にか、自宅のリビングに戻ってました。そして、目の前には気絶している優希さんの姿があって……。あの優希さんの気絶の仕方は尋常じゃなかった。死んでいるのかと思って……とても、怖かった。今も思い出すと怖いです。耳の痛さなんて、全く感じなくなっていましたから」  そのリョウにそっと寄り添いながらも、ミドリは質問を続けた。 「何のために、リョウのピアスを押したんですか?」  玲央は少し悲しそうな表情で遠くを見ていた。彼はピアスの秘密を知っていたのだろうか。 「どうしてだろう。そこは覚えていないんだよね。何か頭に来ることでも言われたのかな。耳を潰すのって拷問になるほど酷いことだもんね。私はそんなことをする人だったのかと、少し驚いたよ」  それを聞いて、その場のマネージャー以外は全員気づいた。この男は嘘をついている。腹が立つことがあったとしても、暴力的な人間が最初にとる行動は、殴る蹴るが最も多いだろう。いきなり耳を攻撃したりする人はそういないはずだ。 「鈴井さん。お母さんは、サトルさんを刺した件では自首させます。でも、それ以外は罪にならないようにしようとして、事実を確認していってるんです。だから、本当のことを話してください」  玲央は遠くを見ていた視線を、パッとミドリに向けた。 「どういうこと?」 「サトルを刺した件以外は不問にしようとしているってことです。だから、きちんと真実を話してください」  優希が玲央の前に出て来てそういうと、玲央は驚きを隠せなくなったようだ。何かを取り繕おうとしていたことさえ忘れて、優希に詰め寄って行った。 「あなたは命を狙われていたんですよ? それなのに、不問にするんですか?」  その玲央に、優希はにっこりと笑いかけた。玲央は困惑していた。そして、くるっと振り返り、優希に背中を向けた。 「……リョウくんのピアスを押して耳を潰したのは、燁さんです。ピアスを押せば、あなたに危害が加わるということを知ったからだと言っていました」 「それで、気絶した僕を見て死んだと思ったんですよね?」  優希が気絶したのは、アンクレットから麻酔薬が注入されたからだ。麻酔で眠った姿は、死んだように見えるらしい。でも、そこで死んだかどうかの確認はしなかった。愛美の殺意はその程度だったのだろうと優希は思ている。 「燁さんはそう思ったようです。でも僕はそうじゃ無いことは気づいていました。ただ、本当にぐったりと気絶していて、死んだように見えたので、燁さんは満足そうにしていた。だからそのまま勘違いをさせておくことにしたんです。本当に人殺しなんてさせたく無いですから。そして、二人をどうするかと話していた時に、高橋さんが尋ねて来たんです」  ここで、一連の事件に強制的に巻き込まれた有木さんが、タブレットを見ながら話に割って入った。 「ちょっといいですか? 高橋さんなんですが、彼は自然死になっている。不審死扱いはされてないようです。あなた方が殺したわけではないんでしょう?」  有木さんの問いに、玲央は頷いた。 「彼は、倒れている佐藤さんを見て、燁さんが殺したのだと勘違いしてしまったんです。それで、心臓発作を起こして……」  有木さんはデータを見ながら、頷いていた。そのデータは、ついさっき美咲さんが持ってきてくれたものだ。美咲さん自身も、最近になってようやく教えてもらえたらしい。  周囲が親切で高橋さんの死因を隠していたことで、彼女は殺されたものだと思い込んでしまっていたようだった。 「数年、無理のある生活をしていたらしく、かなり心臓が弱っていたらしい。普通なら入院手術というところまで来ていたのに、大きな仕事を抱えていたので休まなかったんだそうだ。過労死のようなものだな」 「でも一つ気になるんです。高橋さんが亡くなったあと、そのご遺体はどうしたんですか。ご遺体はオルソ裏の道で発見されたんですよね?」 「俺が運んだんだ」  里井がいつの間にか寝室から戻って来て、リビングの入り口から話に入って来た。里井の秘密を聞いていたので、マネージャー以外は皆ああなるほど、と納得した。里井は、遺体に触れるのを嫌がらない。担いででも、おぶってでも運ぶことが可能だ。 「僕とリョウくんは、玲央さんが運んだんじゃないですか?」  優希はリビングの壁沿いにある小さなドアを開けた。そこは物置のようになっている。そして、そこから車椅子を出してきた。 「ここは、ミステリー用のトリックを考えるための道具が揃っている部屋です。本当に色々なものを置いてあるんですよ。俺たちを、これで運びませんでした?」  俺は、ハッとした。あの日、玄関に残っていたタイヤ痕。後藤さんが、奥の部屋に住むお姉さんから「車椅子の方がいらっしゃるんですか?」と訊かれたと言っていたんだった。 「ミステリー作家だから、死んだと思っていてもそのまま放置するのは嫌だったのかな……それとも、嫌がらせのつもりだったのかな。わざわざ葵さんに迷惑をかける方法を選ばなくてもいいのに……本当に何を考えているのか、全く理解出来ない」  ミドリは頭を抱えて泣いていた。リョウがその肩をそっと支える。 「じゃあ、結果的に僕とリョウくんがこの件を不問にすれば、その日の出来事は、高橋さんの遺体遺棄の問題だけになるってことかな。高橋さんは本当にお気の毒なんだけどね……僕がもっとちゃんとやりとりしていれば良かった。とても優しかったから。吉良先生が僕を死なせてしまったと思うと、衝撃が強かったんだろうね。最後の高橋さんのことを思うと、どうしても涙が出てくるよ」  俺も高橋さんや美咲さんのことを思うと、涙が溢れてきた。結果的に高橋さんは殺された訳ではなかったけれど、大切な人を亡くしたことに変わりはない。ただただ、悲しい。その一言に尽きる。 「鈴井さん、ありがとうございました。私からお聞きすることは、もうありません。今まで母を支えてくださって、ありがとうございました」  ミドリが玲央にそう告げると、玲央はピアスを外した。  そして、中野洸太に戻ってすぐに里井の方を向いた。そのまま里井の方へと近づいていき、肩にポンと手を乗せた。 「里井さん、吉良先生のこと、幸せにしてあげてください。あなたなら、きっとできると思います」  そういうと、「では僕はこれで失礼しますね」と言い残して、マネージャーを連れて帰って行った。  ミドリは、そんな中野の背中に深々とお辞儀をして見送った。 「離婚後のお母さんを支えていたのは、間違いなくあの人でした。今になって思います。自分がたくさんの人に支えられていると思うと、じゃあ自分はお母さんを支えてあげられていたのかなって。だから、散々振り回されて来たけれど、中野さんには少しだけ感謝してます」  こうして、聞き取りは終わった。残すは、佐野さんを現実と向き合わせることだけだ。 「よし、いくぞ」  俺がミドリの背中を叩くと、ミドリは「はい」と頷いた。  全員が寝室に集まった。佐野さんはまだ眠っている。念の為、拘束具をつけていた。サトルは里井に、佐野さんに呼びかけるように指示をした。 「燁さん、起きてください。燁さん」  そこには、プラチナブロンドの長い髪を優雅に耳にかけながら、佐野さんを呼ぶ里井の姿があった。 「燁さん、目、醒めました?」  佐野さんは、何が起きているのかを理解していないようだった。そこには、これまでで一番自分の理想の玲央に近い存在がいた。 「玲央? いなくなるんじゃなかったの?」  佐野さんは恐らく、里井のことを中野と勘違いをしている。このままで話を進めてもいいのだが、ミドリから絶対に自分のことを明かすようにと言われていて、それを守らないといけない。  サトルは二人の間に入ると、佐野さんの拘束具を外した。ここからは、このまま様子を見ることにしている。 「燁さん、俺は里井純です。あなたの鈴井玲央として人格形成された、二番目の男です。でも俺、今はピアスをしていません。里井純として、あなたの前にいます」  里井は膝をついて佐野さんの前に座り、彼女の手を自分の両手で包み込んだ。 「燁さん、これから僕があなたの理想の鈴井玲央として、ずっとそばにいます。僕はあなたを愛しています。僕のクソみたいな人生の中で、僕のことを……玲央のことを愛してくれたのは、あなただけなんです。もうピアスをしなくても、あなたのことに関してだけは鈴井玲央と僕の境界はほぼありません。だから、ずっと愛せる自信があります。お願いします。これから、僕と一緒に生きていってくれませんか?」  佐野さんは、何が起きているのかよくわからないという顔をしていた。鈴井玲央は自分が都合よく使うために作ったプログラムで、まさかその対象からプロポーズをされることになろうとは思っても見なかったようだった。 「ずっと一緒にいたいんです。燁さんは僕のことを必要としてくれませんか?」  佐野さんはまるで信じられないものを見ているように、しげしげと里井の目を覗き込んでいた。  そして、俺は気がついた。ミドリもそれに気づいたようだった。佐野さんの目は、今やっと現実の世界に向けられている。ぼんやり死んだように、それでいて無理をしてはしゃいでいた様が、スーッと消えて行くようだった。  かつての優希がそうであったように、誰かに愛されることによって、現実に向き合う準備ができたようだった。それはつまり、佐野さんが里井の話を聞き入れているという証拠でもある。 「葵さん」  ミドリが母を指さして俺に言う。 「あの目は、お母さんです。最近の誰だかわからない吉良燁じゃなくて、あれは佐野愛美です」  手で顔を覆いながら、涙を流していた。それでも目を逸らさず、「信じられない。絶対あれはお母さんの目です」と言い続けていた。 「佐野さん」  そばで控えていたサトルが前に出てきた。やや厳しい表情をしているため、佐野さんは少し怯んだ。 「里井は優希が研究所にいる間、ずっと優希に睡眠導入剤を使って眠らせ続けていました。それは、あなたが優希を殺してしまうのを防ぐためにやったことでした。これは、結構大きな問題です。本人もそれを承知でやっています。それはなぜだかわかりますか?」  佐野さんはまた里井の顔を見た。里井は目を逸らして、サトルを少しだけ睨んだ。本人にそのことを知られたくなかったようだ。 「それほど強く思われていると言うことです。この件で、彼も罪に問われます。それに、向井に協力していたことも、罪に問われます。そうまでしてでも、あなたを殺人犯にしたくなかった。それは知っておいてください」  佐野さんは驚いて里井を見た。そこまでのことをするほど、思われているとは気がついていなかったようだ。 「私のことを、そんなにも必要としてくれているのね」  涙を流しながら、里井は何度も頷いた。そして、下を向いて鼻を啜り始めた。佐野さんはそんな里井の頭を抱き寄せた。 「じゃあ、約束して。ずっと一緒にいてちょうだい。私にもあなたにも罪がある。だから、しばらくは離れなくてはいけない。でも、戻ってきたら、必ず一緒になりましょう」  そう言って、さらに里井を抱き寄せた。里井は、小さな子供のように泣き始め、佐野さんは満足そうに微笑んでいた。 「おかあさ……」  ミドリはそれを見て泣き崩れてしまった。 「優希さんの言う通りなんだ……」  リョウの胸にしがみついて、涙と後悔を吐き出すミドリは、とても痛々しかった。本当に心の底にあった願いに今更気がついてしまったことで、必要以上に傷ついてしまっていた。 「お母さんにだって、助けが必要だっただけだったんだ……だから里井さんと通じ合っただけで元に戻れたのに……私じゃ何も出来なかった……本当は、私がお母さんを笑わせてあげたかったのに!」  無力感に苛まれたミドリは、壊れそうなほどに感情を吐き出していた。リョウはミドリをみんなの目から隠すようにして抱き竦めた。 「全部自分で背負う必要ないんだから。大丈夫だよ」  そう言って何度も頭を撫でてあげていた。おそらく、リョウにはその気持ちが痛いほどわかるはずだ。 ——親が笑ってくれるならなんでもする。二人ともそう思ってたはずだからな……。 「(あおい)、こっち来てくれない?」  佐野さんがミドリに声をかけた。それだけで驚くほどに、二人の間には会話が無いのが常だ。驚くミドリが俺の方を見た。俺は、目で行ってこいと示した。ミドリはそれに促され、リョウにくっついたまま母の方へと近づいて行った。 「(あおい)。ごめんね。私は一人では親としてやっていけなかった。お父さんのところに行かせてやればよかったのよね。それに気づくこともできなかったのよ。ごめんなさい」  ミドリはリョウの腕にしがみついたまま、しゃくりあげている。まるで母と仲良くしていた五歳の頃のようだった。 「そばにいてくれる人が見つかってからしか、お母さんらしくなれないなんて……情けない親でごめん。弱くてごめん。そんな言葉じゃ取り消せないけど……」  ミドリは何も言えなかった。そんなに簡単に割り切れるものではないだろう。俯いて押し黙っていると、リョウがミドリのピアスを触った。護身用ではない方の、ボディピアス。それを触りながら「アオイには俺がいるよ」と呟いた。 「俺だけじゃないよ。優希さん、葵さんがいる。サトルさんも、後藤さんも、沙枝さんも親になるんだよ。おばさんに、やっと里井さんと言う存在が現れた。幸せになってくれるんだって。それでいいと思おうよ。ね?」  ミドリは顔を上げてリョウを見た。そして、ピアスを触っているリョウの手に自分の手を合わせると、こくりと頷いた。そして、佐野さんの方に向き直ると、嗜めるような口調で話しかけた。 「サトルさんを刺したの、認めてくれる?」  これを認めてからしかやり直せない。罪は罪で償わなければならない。佐野さんはミドリのその気持ちをきちんと受け取った。娘の目をしっかりと見つめたまま、ゆっくりと頷いた。 「佐藤くんを、逆恨みしてたのよ。私の生きがいの玲央を奪うくせに、自分は婚約して幸せになるなんて許せないって……でも、あの時暗くて、あの場所にいたのが誰だかちゃんと見えてなかった。暗いと人の見分けがつかないから……それでも止まれなくて、勢いで刺してしまったの」  佐野さんはサトルの方を向いて、ベッドに頭を擦り付けるようにして頭を下げた。 「許されることではないと分かっています。でも、ごめんなさい。命を落とさなくて良かったと今は思っています」  サトルは佐野さんの姿をじっと見ていた。そして、ミドリに視線を移すと、ふっと微笑んだ。 「後悔しているのは本当のようなので、謝罪は謝罪として受け取ります。でも、この事件は殺人未遂です。ことが大きすぎるので、警察に自首してください。先ほど里井に言ったことをきちんと全うして下さい。いいですね?」  佐野さんは黙って頷いた。ボロボロと涙を流しながら、何度も頷いた。 「分かってます」 「では」  そう言うと、サトルは優希を自分の隣に立たせた。佐野さんは、もう優希を見ても飛びかかろうとしない。たった一人、自分を愛してくれる人が現れただけで、こんなにも人は変わるのかと驚いてしまった。 「俺と優希は、同性パートナーシップ宣誓都市で暮らしています。だから、養子を迎えることができるんです。(あおい)さんを僕らの養子として迎えさせていただきたいのですが、よろしいですか?」  ミドリは驚いて声も出ないようだった。俺は事前に相談されていたので、微笑みながらミドリの方を見た。ただ、一番驚いていたのは、リョウのようだった。 「なんで!? 葵さんが後見人になって一緒に暮らすんじゃないんですか?」  すると、わざとらしい咳払いをして、後藤さんが口を挟んできた。 「えー、ゴホン。君たちはこれから高校生活を満喫するわけだ。その時、付き合っているのはいいとしても、同居しているとなると、根掘り葉掘り人に聞かれることになるだろう? それよりは、ミドリちゃんは世理佐藤家にお世話になって、リョウくんは俺たちと葵と一緒に暮らす。そして普通の高校生活を送って、そこから先の人生を二人で決めていけばいいんじゃないかって話になったんだわ。元々優希くんが育てていたのなら、抵抗はないだろ?」  リョウとミドリはポカーンとしていた。 「確かに、理にかなってる。でも、こんな大変なことが起きている時に、いつ決めたんですか? というより、私たちに確認はしないんですか?」  呆れ返っているミドリの肩に、サトルがポンと手を乗せた。そして、「悪い」と言いながら手を合わせる。 「この件を今持ち出したのは、完全に俺の先走り。申し訳ない。帰ってから話す予定だったんだよ」  なかなか見ることの出来ないサトルの謝罪に、みんな笑ってしまった。 「サトルさんが頭を下げる相手なんて貴重でしょうから、それに免じて許してあげますよ」  ミドリの言葉に、みんなが微笑んだ。  そこには、この二ヶ月間の出来事がまるで嘘のように、朗らかな空気が漂っていた。

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