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可愛いね
いつの間にかお盆も過ぎ、夜風が心地よい気候になっていた。観光地でもあり繁華街でもあるコンビニは利用客が多い。店を出入りする人々を眺め、この学生の中に待ち人が紛れていないか探してみる。もしかして見落としているかと思うが目当ての人が視界に入った途端に全部の神経が活性化させるのがわかった。
「ごめん、待ったよね~!」
華奢な身体にオーバーサイズのTシャツ、彼にはまだ暑いらしく膝丈のハーフパンツを履いている。学生らしい大きなリュックサックには小走りする主人に合わせて元気に跳ねまわるテディベアが存在を主張している。
「そんなに待ってないよ。バイトお疲れ様」
明るいふわふわの髪の代わりに同じ色のテディベアに触れる。光くんからなんとも言い難い視線が送られてくる。
「新しい子お迎えしますか?」
ちょっと意地悪な目で光くんは店内をちらっと見た。
「……間に合ってます!」
光くんの肘を軽く引き、僕たちは小さなテディベアと一緒に自宅へ向かった。
その子が現れたのは繁忙期に入る直前だった。ダイニングテーブルで自由にしているパキラの葉の下で小さなうさぎがこちらを見上げていた。
「えっ」
つぶらな瞳が不思議そうにこちらを覗く。全体的にふんわりとした質感の白い毛だが耳の先だけはブラウンになっており小さいながら洒落っ気のある子だと思った。
面白みのあるものは何もない無機質な部屋で、愛嬌の塊のような子は僕を異質のものとして見上げている。どう考えてもここは僕の部屋で浮いた存在はその子なのに。
「どこから来たの……?」
馬鹿げていると思ったけれど思わず口から出た。まっすぐで純粋な瞳は「お兄さんだあれ?」と問うているようだった。
いや、冷静になろう。
目の前の子は小さな女の子が好む動物の人形のシリーズだ。うさぎだとかリスだとか、そんなのがたくさんいてドールハウスに飾って遊ぶような、そんな人形だ。僕は前日友人とふたりで遅くまで飲んでいた。大きな案件を目前にした最後の現実逃避だった。楽しさもありよく飲んだのだろう、久し振りに頭が痛かった。
『迷子のようです。心当たりありますか?』
この部屋でこの子が居てしっくりくるのは確かにパキラの下だけだろう。我ながら不愛想な部屋だと思い、せめて彩りをよくしようと置いたのがこの卓上サイズの観葉植物だ。より自然に見えるよう調整してその子とパキラの写真を撮り、画像とメッセージを友人たちのグループチャットに流した。
しばらくして面白がった友人から返信があり、どうやら酔っ払っていた僕が自分でこの子をお迎えしたという事がわかった。コンビニのレジ前で小さな箱に入って並んでいるのを知っている。以前小さな女の子が母親に買ってほしいとねだっているのを見たことがあった。
僕は改めて小さなその子を見つめた。相変わらず自分の存在に何の疑問も持たずにそこにいる。本来ならば小さな女の子に迎えられるはずだったのに、そろそろおじさんと呼ばれてもおかしくない男の家に連れてこられてなお、その子はただ当たり前にそこにいるのだ。
試しにテレビ台に移動させてみる。やっぱり当たり前の顔をしている。次にキッチンのカウンターテーブルに移動させてみる。同じだ。そしていつも自分が座っているソファーに座らせてみる。
「可愛い……」
貴重な休日、僕はソファーの前で膝を付きながら項垂れた。絶対的な愛くるしさに敗北した瞬間だった。
それから間もなく嵐のような日々が始まった。朝も夜もなく働き、細切れの睡眠で休息をとり、粗末な食事で脳と身体の働きを維持し、エナジードリンクで意識を繋ぎ止めるような日々だった。何度か経験しているがやはり辛い。新人時代はこれを捌き切れずに倒れてしまったくらいだ。それでもどうにか乗り切れるのは僅かな経験と使命感、そして何より恋人の支えがあるからだった。
『楓さん今日何時に寝るの?』
「二時には切り上げたいな、さすがに体力が持たない……」
『じゃあ俺も二時まで頑張る』
通話アプリを使い光くんと画面越しに会話をするのがこの日々の細やかな楽しみだった。通話状態を維持して僕は仕事を、光くんは大学の課題をするなど会話せずとも時間を共有することで気分転換ができた。課題に集中して無防備になる光くんの姿が見られるのもまた癒しだった。しんとした部屋にお互いの作業音だけが響き、時折光くんの唸り声や弱音が聞こえる。その度にスマホに目を向けて様子を伺った。そして立て掛けたスマホの横にひっそり佇む存在も視界に入り、さらに心を和ませた。画面の向こうでうにゃうにゃとぐずる恋人と今日も当たり前に可愛く存在している小さなうさぎが並んでいる光景は、僕が思いつく限りで最大の癒し空間となっていた。
『何笑ってんの?』
「なんでもない」
どうやら笑っていたらしい。こんな殺伐とした日常で可愛いが凝縮された空間を目にしたのだから頬が緩むのはもはや避けようのない事だ。とはいえ明らかにターゲット層にいない僕がちっちゃな人形を見てにやけているなんて知ったら光くんはどう思うだろうか。いつも“大人”である僕を敬い頼って褒めてくれている彼だ、少なからずショックを受けることになるだろう。最近『蛙化現象』という言葉を知ったこともあり、僕は密かに怯えていた。
ようやく嵐が過ぎ去った日、僕は泥のように深く眠った。傍らには今や相棒と呼べるうさぎさんを呼び寄せ、いつものハンカチの布団に入れてあげた。横になると同時に脳みそがぐるぐると掻き混ぜられるような感覚に陥り限界を悟った。たっぷり眠った後は光くんに会える。美味しいものを一緒に食べて時間も気にせず過ごすんだ。今回も大変だったけど頑張った甲斐があったなあ……。
と、しみじみ達成感に浸っているところでスマホの着信音が鳴り響いた。こんな時間に何事か、まさか仕事に不備があったのか、飛び起きて画面を確認すると恋人の名前が表示されているではないか。
「もしもし光くんどうしたの?」
『どうしたっていうか、もしかして寝てた?』
強烈な違和感を覚えてベッドサイドの時計を見ると、そこには光くんが家に来る約束の時間を表示されていた。
「嘘?! 朝なの?!」
『朝どころかお昼になるよ。もうマンション着くけど時間潰した方がいい?』
これはとんでもない失態を演じてしまったようだ。どうやら疲労と油断で寝坊したらしい。いつも僕を慕って会いたいと言ってくれている光くんにやっと会えるのだ、きっと今日を楽しみにしてくれていたに違いない。それなのに光くんはだらしない僕の対応に憤慨するでもなくむしろ気遣わしげな様子を見せた。多少みっともなくてもこれ以上彼を待たせるのは忍びない。それに僕だってすぐに会いたい。粗末なもてなしになってしまうのは不本意だけど誠意を持って接すればきっとリカバーできるはずだ。
「散らかってて申し訳ないけど上がって待っててくれる?」
『うん! すぐ行くね!』
スマホ越しに聞こえる声がわかりやすく明るく弾む。疑いようもないほどに彼が喜んでくれている。光くんの底抜けに素直な感情にきゅうっと心臓が締め付けられた。彼の笑顔のためなら僕の体裁など些末な物だ。
それから大慌てで身支度を整えた。数日まともに家事が出来ていなかったままでキッチンは片付いていないし洗濯物も溜まっている。それでも先ほど聞いた光くんの嬉しそうな声を思い出すと彼に会うよりも優先すべきことは無いように思えた。
なんとか服を着て眼鏡を掛けたところでインターホンが鳴った。久し振りに会う恋人には若干の感動を覚えた。しばらくの間、画面越しでしかコミュニケーションが取れていなかったせいか「本物感」が際立っている。
「おはよ楓さん。生きてて良かった」
玄関のドアが閉まると同時に光くんが抱きついた。僕はまだ挨拶も謝罪も何もできていないのに、冴えない姿のまま抱き締められてふわふわの髪で頬を擽られている。夏の気温にそのままくっつかれ、言葉にできない感情が身体中に染みわたっていく。
「寝坊してごめんね。朝からずっと連絡くれてたのに全然気づかなかった」
光くんは胸元に顔を埋めて深く息を吸っているようだ。僕は正直どぎまぎしてしまうのだけど彼はこういうことをよくする。
「……暑かったでしょ、全然片付けられてないんだけどお茶でも飲んで待ってて」
「うん……」
ようやく顔を上げた光くんはしおらしく、少し惚けたような表情していた。まだ何もしてないんだけどな……。恋人の高まる期待に反して背後に控えている乱れたリビングが後ろめたかった。今日はつくづく格好がつかない日になるな、ときまり悪さを感じた。
光くんをリビングに通してソファーに座らせると、きょろきょろとあたりを見渡すのでコップを差し出して誤魔化した。
「洗濯機だけ回してくるからジュース飲んでて!」
「これで散らかってるって……?」
何か言っているように聞こえたがひとまず後にして洗濯物をどうにかすることに専念する。食器も洗えていない分があるが、ピザでも頼めばいいだろう。
「荷物置いてくる〜」
これからの段取りを考えながら作業しているとリビングから廊下に出てきた光くんに声を掛けられた。反射的に返事をしてワイシャツを洗濯ネットに入れていると寝室の方から大きな声が聞こえてきた。
――――まずい。
「楓さん何この子!」
考えるよりも先に身体が動いていた。寝室に飛び込むと案の定まだベッドで寝ているうさぎさんを見て愕然としている光くんがいた。閉めたままになっていた遮光カーテンを開けてくれたのだろう、半端に射し込む陽光が微睡む(ように見える)うさぎさんを照らしている。
「あ、あ、その子は……」
これまで何度も不貞に関わる仕事をしてきたが悪事を暴かれた人間の第一声は「これは違う」が相場だった。僕の舌はまさに「これは違う」と言いたくて仕方がなかった。いつも何が違うのだろうと不思議に思っていたが今ならわかる気がする。こんな現実は僕の理想とは違う。
光くんは間違いなくうさぎさんを見下ろし、うさぎさんもまた光くんを見つめ返している。うさぎさんは僕と違いなんの言い訳をするでもなく、今日も当たり前にそこに居るだけだ。
「これどういうこと……?」
その声色から驚きと戸惑いが滲んでいる。光くんは腰をかがめてうさぎさんを覗き込んだ。逃れようのない現実に直面し動悸が止まらず胃に不快感が込み上げる。
「それは……僕……酔ってたみたいで……」
うさぎさんを覗き込んだままの後姿に向かって弁明した。心の底に幼女のような願望を宿したアラサー男が酒で理性を無くした結果小さなうさぎさんに支えられながら暮らして今に至る。輝かしい青春真っただ中の学生にこのおぞましい現実はショッキングだろう。次に光くんの目に映る僕はきっと蛙の姿になっているはずだ……。
「楓さんこういうのが好きなんだ……」
僕はもはや床に膝を付かないよう踏みとどまるのに必死だった。あんなに僕に会うことを楽しみにしてくれていた光くんは今どんな気持ちだろうか。光くんは仕事で摩耗する僕に付き合ってくれていたのに、当の僕は光くんに隠れてうさぎさんと寝食を共にしていたのだ。軽蔑されて当然だ。
「え、ちょっと待ってなんて顔してるの?!」
「ごめんね……引くよね、気持ち悪いよね、ごめん……」
光くんの目に映るのが怖くて顔を向けることが出来なかった。顔を背ける僕に光くんが近付くがばつが悪くて仕方がない。
「なんでそんな顔するの? 恥ずかしかった? 内緒にしたかった?」
見せる顔のない僕に対して光くんは正面に立って僕を見上げた。そっと添えられた手が熱い。もちろん恥ずかしい気持ちや知られたくない思いもあったが何よりも光くんに幻滅されることがこの上なく受け入れがたかった。
「内緒にしたかったのに見ちゃってごめんね。でも全然引いてないから大丈夫だよ」
そう言うと光くんは僕の腕に添えた手を背に回してまた抱き締めてくれた。気まずさで顔を覆っていた手を除けるとさらに頬にキスまでしてくれた。
「ねえむしろめっちゃ可愛いんだけどどういうこと?!」
「どういう……?」
「うさちゃんもっとよく見てもいい?」
「う、うん」
なんだかよくわからない内に手を引かれてベッドにいるうさぎさんをふたりで覗き込む。うさぎさんはタオル生地のハンカチの中で僕たちを見上げている。
「可愛いね。いっつもうさちゃんと寝てたの?」
にこにこしながら見つめられると今度は純粋に羞恥心が込み上げてくる。
「俺もぬいぐるみと一緒に寝てたよ」
「子供の頃の話でしょう?」
光くんは何も答えずに強く抱きつき頭をぐりぐりと擦り付けた。やっぱり成人した男がぬいぐるみと寝ているなんておかしいんじゃないか。そう思いながら何よりもほっとしている自分がいる。
「カエルカ、しない?」
とっくに起きる時間を過ぎているうさぎさんをベッドから起こしてあげる。男ふたりがぎゅうぎゅうにくっついていてもうさぎさんはどこ吹く風だ。
「蛙化なんてどこで覚えてくるの?」
光くんは僕の手に移ったうさぎさんの頭を指先で撫でている。
「そんなことよりもお兄さん、日本には『ギャップ萌え』という言葉があることを知っていますか?」
お昼を食べ終えた後はうさぎさんを定位置であるパキラの下に移動させて僕たちはソファーの上で寛いだ。光くんが僕の服に手を掛けたがるのをなんとか躱してキッチンを片付け、洗濯物を乾かした。
「俺もぬいぐるみ買おっかな」
僕の部屋着をハンガーに掛けながら光くんが何気なく呟いた。リビングで待っているように言ったのだがふたりでやった方が早いということで僕の洗濯を手伝ってくれている。
「うさちゃんが可愛くて俺も癒された!」
一旦浴室に掛けた洗濯物をベランダに移動させる。熱い陽射しに焼かれながら手早く物干し竿へハンガーを掛けていく。なるほどふたりでやると確かに早い。
「楓さんはどんな子が好き? 楓さんに会う時に連れてくるよ」
光くんの明るい虹彩が光に透け、僕に微笑みかけた。太陽に照らされた金髪は柔らかく輝く。ふわふわと空気を含んだ髪は触れてもいないのに僕を擽った。
柔らかい髪を撫でたかった。弧を描く唇に口付けたかった。胸いっぱいに広がる気持ちをそのまま伝えたかった。
「……テディベア、かなあ」
僕はまた光くんに手を引かれ、エアコンの効いた室内に連れ戻される。ソファーで縺れる僕たちを見てもうさぎさんはパキラの下で遊んでいた。
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