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春の章

    春の章  その山荘は白樺の林を通り抜けた向こうに、ひっそりと佇んでいる。赤いとんがり屋根が印象的な、一軒家が。  小糠雨が、木柵で囲まれた庭を淡々しく染める。風に乗って運ばれてきた桜の花びらが彩りを添えるさまは、パステル画の世界さながらだ。  鳩時計が時を告げ、クルックー、と山荘内に響き渡った。長谷朋樹(はせともき)は指令が下ったようにカットソーの袖をまくった。台所に立ち、冷蔵庫の中身と相談する。うれしい悩みに、黒目がちの目がきらきらと輝く。  献立は……和食が恋しいだろうから、(さわら)の塩焼きと(ふき)の煮物。アサリのぬたに木の芽をあしらって、それから豆ごはん──では、あざとすぎるか。 「だったらフィッシュ・アンド・チップスを作ろうかな。で食べ飽きてるはずだから、敢えて」  朋樹を置いてきぼりにしたっきり、絵葉書の一枚もよこさない薄情な恋人にちょっと意地悪するくらい、かわいいものだ。  恋人──六つ年上の篠田理人(しのだりひと)は画家で、作品のモチーフを求めてイギリスへスケッチ旅行に出かけた。湖沼地帯をひと巡りしながら、気ままに絵筆を走らせる旅だ。  ただ困ったことに、その日のホテルは行き当たりばったりに決める主義で、向こうから連絡してこないかぎり宿泊先がわからない。  いわゆる糸の切れた(たこ)でも、今日は特別だ。同棲記念日に合わせて帰国しないわけがない。  今や国民の大半が携帯電話の奴隷……もとい、ユーザーという時代が到来した。だが新進のミステリ作家である朋樹も、管理社会とは縁遠い生活を送っている。だから、ふだんは固定電話とファックスがあれば事足りる。  ひるがえって帰国便が到着したあと、何時何分発の列車に乗り継いで、こちらの最寄り駅に向かう予定なのか、それが知りたい現在(いま)は理人が携帯電話を持っていれば便利なのに、と恨めしく思う。 「早く帰っておいで、おれのスナフキン」  そう独りごちて、下茹でした蕗の筋を丁寧に取っていく。セロリのそれもそうだが、理人は歯に引っかかる感触が苦手なのだ。  スナフキン、と歌うようにもういちど呟く。三十にもなって、おれは初デートの前夜の高校生みたいにそわそわしている。ゆるみっぱなしの頬をぺちんと叩いて、蕗を均等の長さに切り分けた。セルフレームの眼鏡を外してレンズを磨いた。  ふくよかな香りが台所を満たすころ、門扉の外でブレーキランプが点った。ややあってチャイムが鳴った。

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