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第4話 新しい生活
朝八時半、朝ご飯で使った食器を洗ってから藤也 さんの部屋に入る。シーツは三日に一回でいいと言われたから、今日は枕カバーとパジャマだけだ。それらを抱えて洗面所に持っていき、タオルや俺の洗濯物も一緒に洗濯機に入れる。あとはボタンを押すだけで洗濯機が乾燥までやってくれる。
勝手に洗剤が出てくるのも乾燥までできるのも初めて使うから、最初はおそるおそるボタンを押していた。
「間違えて壊したら大変だと思ったからさ」
俺が住んでいたアパートには誰でも使える洗濯機が置いてあった。でも二層式と呼ばれるやつで、全自動でドラム式っていうのは初めてだ。
「本当は外に干すほうが好きなんだけど、しょうがないか」
藤也 さんの部屋はビルの一番上だから、洗濯物を外に干すことはできないらしい。今日みたいに天気がいい日は絶好の洗濯日和だけど残念だ。
「そうだ、今日は布団も乾燥させる日だ」
同じ理由で布団も外に干せない。代わりに布団乾燥機ってやつでフカフカにする。
「梅雨の晴れ間ってのは貴重らしいから、外に干したら気持ちいいんだろうけどなぁ」
昨日の夕方、天気予報で「梅雨の晴れ間」という言葉を知った。名前は知らなかったけど、そういう日が貴重だってことは知っている。
「先に藤也 さんの布団をフカフカにして、それから俺の布団かな」
そう、ここには俺専用の部屋もある。ベッドにフカフカの布団、それに着替えや下着なんかも用意してくれた。部屋だけでも迷惑なはずなのに、それ以外も買ってくれたってことだ。
「だから、もっと働かないと」
ここに来て二週間が経った。最初は怖い人かと思っていたけど、藤也 さんも綺麗なボスと同じでそこまで怖くはなかった。それどころか洗濯や掃除の仕方を教えてくれた。
「何でいろいろ教えてくれるんだろう」
ここに来た日、怖い顔をした藤也 さんに「ここで働け」と言われた。だから教えてくれるのかもしれないけど、掃除も洗濯も機械がやるからあまり働いた気がしない。
「『まずは身の回りのことができるようにならねぇとな』って言ってたけど、風俗店に行く準備……なわけないよな」
そんな話は聞いたことがない。お店のお姉さんたちもお店でそんなことはしていなかった。
「それに、テレビと本を見ろっていうのもよくわからないし」
でも藤也 さんが言うから、やらないといけない。それしか俺にできることがないからだ。
布団乾燥機を藤也 さんのでかいベッドに入れてから、丸い掃除機のスイッチを入れる。本当は決まった時間に動くらしいけど、そこまで掃除機にされたら俺のやることがなくなってしまうから俺がスイッチを入れることにした。
「で、あとはテレビを見るか本を読むかなんだけど」
本当にこれでいいんだろうか。たくさん迷惑をかけているのに仕事が少なすぎる気がする。
あまりにも楽すぎて、最初の一週間は不安でしょうがなかった。不安すぎて毎日丸くなって眠った。アパートにいたときはそれで安心できたのに、寝たことがないベッドだったからかどんなに丸くなってもなかなか寝られなかった。
「せめて料理できたらよかったんだろうけど」
ご飯は三食とも藤也 さんが用意してくれる。お店で買ってくることもあるけど、それだって藤也 さんが用意してくれたものだ。
「藤也 さんには料理はするなって言われたし……」
きっと俺が失敗するとわかっているんだろう。そのほうが藤也 さんに迷惑をかけてしまうから料理のことは諦めた。
「そういえば、今日はお昼過ぎに一度帰るって言ってたっけ」
その前に、せめてテレビか本を見ないと。わかっているけど、どっちもほとんど見たことがないから面倒だなと思ってしまった。
「……こんなことじゃダメだ!」
ただでさえ役に立っていないのに、言われたことくらいはちゃんとできるようになりたい。
「できなくても藤也 さんは怒ったりしないけど……って、なんで怒らないんだろう」
最初は怖い人だと思っていた。でも怒鳴ったり殴ったりしない。俺のことは迷惑なはずなのに、いろんなことを教えてくれる。
「怖い顔も、怒ってるわけじゃないってわかったし」
今朝、出かけるときの藤也 さんを思い出す。出かけるとき、藤也 さんは必ず「行ってくる」と行って俺の頭をポンとする。最初は伸びてくる大きな手が怖くて体が強張った。そのうち「子どもじゃないのに」と思うようになった。最近はちょっとだけドキドキすることがある。
「何でドキドキするんだろ……」
そんなことを思い出していたら、玄関が開く音が聞こえてきた。慌てて玄関に行くと、ちょうど藤也 さんが靴を脱いでいるところだった。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま。いい子にしてたか?」
そう言った藤也 さんが、朝と同じようにポンと頭を撫でる。子どもみたいで恥ずかしいけど、ほんのちょっと嬉しい。
「ほら」
「……?」
藤也 さんが紙袋を二つ、俺に差し出してきた。
「おまえの部屋に残っていた荷物だ」
「俺の部屋」
「ついでに部屋の解約も済ませたからな」
ってことは、もうあの部屋には帰れないってことだ。
荷物はどうなってもいいけど、帰る部屋がなくなったことはちょっとショックだった。部屋がなくなったってことは、もうお母さんを待つ場所がなくなったってことだ。
(そっか、もう待てないんだ)
玄関を開けてすぐに見える六畳一間が頭に浮かんで、胸がギュッとする。
「どうした?」
俺は慌てて頭を振った。ここで変な顔をしたら藤也 さんの機嫌が悪くなるかもしれない。わざわざ荷物を持って来てくれたのに、嫌な思気持ちにさせたくない。
「ありがとう、ございます」
紙袋を受け取った俺は、部屋に入ってから中身を見た。一つ目の紙袋には本が何冊かと、中学のときに買って使わなかったノートが三冊入っている。もう一つの紙袋には玄関に置きっぱなしにしていたクタクタのカバンが入っていた。袋から出して、中をゴソゴソ探す。
「……あった」
「なんか大事なもんでも入ってたか」
藤也 さんが覗き込んできたから、カバンから取り出したパスケースを見せた。
「お母さんの写真、これしかないから」
「……」
お母さんが使っていた花柄のパスケースにはお母さんの写真が入っている。それをいつもカバンに入れて持ち歩いていた。こんなクタクタなカバンなんて捨てられてもおかしくないのに、持って来てもらえてよかった。
もう一度写真を見てから、まだ覗き込んでいる藤也 さんを見た。気のせいじゃなければ、さっきからずっと写真を見ているような気がする。
(ちょっと見過ぎのような気がするんだけど)
もしかしてお母さんを見ているんだろうか。たしかにお母さんは可愛い。俺が見ても可愛いって思うくらいだ。
ちなみにお母さんの顔の斜め下には、四歳のときの俺が写っている。まさか、この頃と変わらないと思っているんだろうか。
「あの、藤也 さん?」
「……おまえ、母親に似てるな」
「そう、ですか?」
そんなことを言われたのは初めてだ。変な感じがするけど、ちょっと嬉しくなった。「そっか、似てるんだ」と思いながら、もう一度笑っているお母さんの写真を見た。
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