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「ごめんなさい、ハイドさん、おれ、あんなひどいことをしてしまって……」  うるんだ焦げ茶色の目で見上げてくる年下の青年に向かい、ハイドは首を横に振る。肩から掛けたタオルで首筋を拭きながら、穏やかな目で彼を見た。 「大丈夫だよ、ウィルクス君。気分はどうだ? 少しはましになったか?」  ロンドン警視庁に勤めるエドワード・ウィルクス刑事は何度もうなずく。しかし呼吸は浅く、薄い胸が上下していた。探偵は手を伸ばして、ソファに横たわる男の頬に触れる。ウィルクスは目を伏せた。顔は上気し、透きとおった長い睫毛の向こうで目が泳いでいる。  シドニー・C・ハイドはそっと指の背でウィルクスの高い頬骨をなぞった。茶色く短い前髪の下で、発熱用のジェル・シートがぬるくなっている。ハイドは手際よくとり換え、ウィルクスの肩を軽く叩いた。刑事は目を伏せたままつぶやいた。 「すみません、ほんとに。あなたの胸でゲロしちゃって」 「大丈夫だよ。気にしないで。洗濯したらシャツはきれいになってたし、ぼくもシャワーをしてきたから。それよりも、医者を呼ばなくていいのか?」 「大丈夫です。もう、よくなりました」 「そうは見えないよ。顔色が悪いし、しんどそうだ。水、飲むか? そうそう、スポーツドリンクがあるんだ。飲むといいよ。ほら、つかまって」  すみません、と言いながらウィルクスはハイドの逞しい腕にすがって上半身を起こし、差し出されたペットボトルの飲み物を喉を鳴らして飲んだ。少し気分がましになる。ちょっとげっぷが出て、ごめんなさいと言った。年上の男は穏やかで、あたたかい眼差しでウィルクスのことを見ている。  好きな人にゲロを吐きかけて、最低だ。  ウィルクスはしょんぼりしていたが、ハイドは本当に気にしていないらしい。彼はその気になれば、医者か看護師のような心になれる。それに、熱中症がそれほどひどくないことに安堵していた。 「寝不足だったんじゃないのか?」  ウィルクスを横にさせながらハイドが尋ねると、刑事は頼りない顔になった。いつも騎士みたいに凛々しい顔なのに。ハイドは意外に思う。ウィルクスが見せた弱みが、ハイドにはとても新鮮だった。  刑事は言った。 「たしかに、ここ一、二週間は二時間から四時間睡眠でした。仕事が忙しくて。知ってますよね、七月末に起こったホワイトチャペルの殺人。捜査がなかなかうまくいかなくて、みんなぴりぴりしてるんです」 「知ってるよ。大変だな。ご苦労さま」  ハイドが優しく言って、ウィルクスの目はうるみそうになる。「私立探偵ごときに心を許すな」と言う同僚もいるが、そんな忠告は、彼にはなんの役にも立たなかった。ウィルクスはすでに、他人に向ける心のかなりの部分をハイドに向けていた。大きくぶ厚い好意の矢印がひたすらすべてこの男に向かっている。  もう遅いよ、とウィルクスは思う。告白までしてしまったあとだ。  きみの恋人にはなれないと言ったあとも、ハイドはウィルクスのことを気にかけている。出来のいい甥を可愛がるように。十三歳差では、父と子でも、兄弟でもない。歳の離れた兄の息子、がウィルクスのポジションだ。  シドニー・C・ハイドはいつも優しく穏和、おおらかで浮世離れしている。男に愛されていると知っても動じずに、「気持ちはうれしいけれど」と穏やかに答えた。  考えるのはやめよう、つらい気分になるから。ウィルクスはまぶたを閉じると手の甲で目を押さえ、激しく打ち鳴らされる鼓動を無視しようとした。血がのぼって、耳が赤くなる。薄目を開けてハイドのほうを見たとき、思わずどきっとした。  道端でしゃがみこんでいたウィルクスを事務所兼自宅の前で助けたとき、ハイドは白い長袖のシャツを着ていた。いま見ると、彼はVネックで七分袖の黒いカットソーを着ている。それがぴたっと体にはりついているのだ。素材のせいだろう。それで、逞しい胸板も太い幹のように締まった腰もよく見えた。ウィルクスはさっと目を逸らす。  熱中症でゲロを吐いたうえ、欲情するなんて最低だ。情けないし恥ずかしいし、鼓動が高鳴るのが苦しくて目を閉じる。心なしか、暗闇も回っているようだ。 「ちょっと眠ったらいいよ」とハイドが言うので、ウィルクスはその通りにしようと思った。 ○  ハイドに出会ったのは、ウィルクスが傷心を強く感じていたころ、二十五歳の秋だった。  彼は上司のブラックモアに片思いを続けていたが、この警部は昇進の話が出るとあっさり警官を辞め、画家に転身してしまった。今はイタリアにいて、とても売れているらしい。さばさばして明るい性格のとおり、描く絵も明快でどこか野性的だそうだ(ウィルクスはまだ一度も彼の絵を見ていない)。  ブラックモアに替わって上司になった刑事から、ウィルクスはハイドを紹介された。ときどき協力してもらう私立探偵だ、と。  ひと目で好きになったわけではない。ハイドは長身のウィルクスよりさらに上背があり、逞しい三十八歳の男だった。それなのに、黒髪はもう半ば白髪になっている。彫りの深い顔立ちは貴族的で、所作も優雅、そしていつも穏やかだった。落ち着いた低い声でしゃべり、軽口もたたく。それでもどっしりとして、ものには動じない。動じなさすぎるほどだ。 (紹介されたとき、ウィルクスは上司が語るハイドの「武勇伝」を黙って聞いていた。探偵として凄腕なのはわかったが、あまりにもものに動じなさすぎて、ウィルクスはそのときハイドのことを「少し異様」だと思った)  それでも結局ハイドのことを好きになってしまったので、ウィルクスは自分にがっかりした。強い力で惹きつけられ、抗えなかった。ハイドと寝たいと夢想したり、彼のことを考えながらゲイ・ポルノを観てしまう。自慰までしてしまって、もう後戻りはできないと落ち込んだ。  思いを伝えたのは、つい最近の七月半ば。ハイドは見事にウィルクスを振ったが、「きみが嫌じゃなければ、これからも今までのような関係を続けたい」と言った。ウィルクスはうなずいた。さながら犬が飼い主の脚につかまって尻尾を振るように、何度もうなずいていた。  そして今に至る。

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