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眠ろうとしても、ウィルクスは眠れなかった。ハイドの存在感が強く、近すぎるのだ。彼の気配には厚みがあった。熱があり、においがある。肌といつもほのかにつけている香水のにおいが混ざりあって、気配とともにウィルクスの脳と肉体を支配した。
とうとう負けて、ウィルクスはおそるおそる目を開けた。ハイドがわざわざソファの前に椅子をひっぱってきて、腰を下ろしている。目が合うと、ハイドは微笑みを浮かべた。
「どうかしたのか?」
「……別に、どうも。あの、おれのことはほっといて、仕事なりなんなりしてくださいね」
助けてもらってぶっきらぼうだな、とウィルクスは自分でも思ったが、彼は鋭い目に怒った顔をハイドに向けた。探偵はにこっと笑った。
「きみは照れると怒った顔になる。そうだね?」
違いますよ、とウィルクスは言ったが、じつはその通りだった。ハイドの目にはすべて明らかであることを実感して、胸が苦しくなる。大好きな人に向かう自分の矢印が、きっと絵になって空中に現れているんだろうなと思う。しかし、ハイドはその矢印を意にも介していないように、ウィルクスには見えた。
バイセクシャルのウィルクスとは違い、ハイドはヘテロセクシャル、女しか愛したことがない。それがどんなに深く険しいへだたりなのか、この青年はよくわかっていた。
急に気分が悪くなった。
胸を押さえて目を閉じると、ハイドがすぐに覗きこんでくる。
「しんどいのか? 医者を呼ぶよ」
ウィルクスは手で大丈夫だというジェスチャーをした。目を開けるとハイドの顔が間近にある。ウィルクスの顔がかすかに歪むと、ハイドは彼の顔をじっと見つめた。
この子もこんな顔をするのか、と思う。整った顔立ちが歪むと、女だろうと男だろうと色っぽく見えるんだな。ハイドはそう思った。
彼はウィルクスの手首を握り、脈を探した。すぐ見つけることができなくて、親指が皮膚の上を這う。ウィルクスは目を閉じていた。脈を探り当て、ハイドは自分の左手首にはめた腕時計を見た。それから眉を寄せる。
「脈が速いな。それに、熱があるよ」
そう言いながら額に貼ったシートを剥がし、額の汗を拭く。それからもう一度貼り直した。ウィルクスは目を閉じたままだ。胸を上下させ、ハイドに触れられているほうの手を握りしめていた。
「すみません、迷惑をかけて」
「いいよ、それに迷惑じゃない。きみはいつもしっかりしてる。鎧をまとった騎士みたいだ。ぼくはいつも感心してるんだ。だから、弱っている姿が愛おしく見えるよ」
ウィルクスはぱっちり目を開いた。ハイドのほうを向き、エアコンの冷えた空気を吸いこんだ。刑事は目を細めた。
「やめてください、そんなことを言うのは」
「ごめん、なれなれしかったかな」
「違います。違う、おれは……」刑事は目を伏せた。頭皮に熱い汗が噴きあがる。
「うれしくて、つらいんです。あなたを好きなこと、どうか忘れないでください」
ハイドは沈黙し、わかったとつぶやいた。でもこの人はまたやるだろう、とウィルクスは思う。優しさでコーティングしていれば、残酷さも甘い味になる。目の前の男から、ウィルクスはその真理をいやというほど学んだ。
目に涙がにじみそうになり、ウィルクスはこらえた。ぽつりとつぶやく。
「資料を借りようと思って来たんです。でも、ここにたどりついたら気分が悪くなってしまって。もし貸してもらえるなら、だれか、同僚をよこします」
「それは構わないよ。そうしたほうがいい。きみはゆっくり休んでいくね」
「でも……」
「休んでいきなさい」
はい、とウィルクスはつぶやいた。
ハイドは彼の顔を覗きこんだ。目の下や頬骨のあたりが赤くなり、しかし他の場所は異様に青白い。男性らしい眉の下で長い睫毛が伏せられている。痩せた体はきちんとソファの中におさまり、まるで寄宿学校に暮らす行儀のいい男の子に見える。
「きみはきれいな人だね」
ハイドは率直に言った。ウィルクスは目を閉じていた。
「ウィルクス君?」
「……聞こえてますよ。ありがとう。でもおれ、女っぽくないでしょう?」
「当然じゃないか? 男の子なんだから」
「もうちょっと小柄で、女みたいに可愛い顔だったらと思うこともある。そうなったら、誰かがおれのことを好きになってくれるんじゃないかと思う。でもおれ、怖いって言われるんですよ」
ウィルクスの言いたいことはハイドにはよくわかった。たしかにウィルクスはやや強面で、威圧感のある容貌をしている。ハイドは微笑んだ。
「きみは今のままでじゅうぶんだよ。女みたいな可愛さがなくたって、男の凛々しさがある」
「おれが好きになった人は、みんな女の可愛らしさを求めている人ばかりでした。だから好きだとは言えなかった。あなたもそうだ。男には、興味がないんでしょう?」
そうだね、とハイドは答えた。彼はしげしげと横たわっている青年を見ていた。それから、「でも、ぼくはきみに女の可愛さを求めてるわけじゃない」と言った。ウィルクスは喉を鳴らした。
「いいんですよ、慰めてくれなくて」
「そんなつもりはない。きみの凛々しさがぼくは好きだ。しっかりして、強くて、一人でどこまでも歩いていける。それに、いい子だ」
「ええ、おれはいい子です。人の迷惑をちゃんと考える。告白しちゃいけない人には告白しない」
「きみはいつもと違うな、エド」
ウィルクスの喉が妙な音を立てる。彼は目を閉じて、手の甲をまぶたの上に押し当てる。愛称で呼ばれると胸が苦しくなる。距離は縮まっていないのに、まるで魔法のように錯覚が起こる。
「違いませんよ」とウィルクスは言った。ハイドは首を振る。
「今日は、弱ってるよ。でも、弱っているきみは……その……とても守りたくなる」
愛おしいという言葉を使わないように気をつけて、ハイドが次に言ったのがこれだった。ウィルクスは目を閉じたままつぶやいた。
「人に守られるほど弱くはない」
「わかってるよ。きみは強い人間だ。ぼくが守らなくても、一人でやっていける。だから、弱っているところを見ると安心する。ぼくがつけ入る隙を見つけられるからかな」
ウィルクスは小さく笑った。
「おれにつけ入っても、なにも得られませんよ。もし……」
おれを愛しているのじゃなければ。ウィルクスはそう言いそうになった。口に出して、優しいこの男を困らせてみたかった。しかし言わなかった。「もし」とつぶやいた。
「もし、あなたが優しい気分になりたかったら、おれのことを憐れんでください」
それからウィルクスは体を起こし、額に貼ったシートを剥がした。
「帰ります。ご迷惑おかけしました。資料、持って帰ります」
ハイドは表情を変えず、「わかった」とだけ言った。ウィルクスに背を向けて、壁に造りつけた本棚から資料の本を探しながら言った。
「きみはぼくに告白してくれたな」
「ええ」
「ときどき、きみのことを考えるんだ。今日は元気にしてるかなとか、ちゃんと眠ってるのかなとか」
「ほんとに、親戚の叔父さんみたいですね」
「叔父さんなら考えないこともいろいろ考えてるよ。……ああ、あった。この本だ。はい、いつ返してくれても構わないからね。あと少ししたら、二か月くらいのあいだ、仕事でロシアに行くんだ」
そうですか、とウィルクスは言った。
彼は礼を言って受けとった。そのまま帰ろうとしたが、どうしてもできなかった。まだ頭がぼんやりして、綿を詰めたように意識が朦朧とする。それなのに、鼓動は速く激しい。めまいがして、いつのまにかそばにいたハイドに体を支えられていた。
年上の男の薄青い瞳と目が合う。背をかがめて、ハイドはじっとウィルクスを見つめていた。
刑事は背を伸ばし、ハイドの唇にそっと口づけた。
それから頭を下げ、本を持ったまま急いで階段を下りた。玄関の扉が音を立てて閉まるまで、ハイドはその場に立ちつくしていた。
外は日が照って、アスファルトは黒く光り、濃い青空は遠くまで輝いている。ハイドは二階から外を見て、早足で歩いていくウィルクスの後ろ姿を見ていた。よろめくこともなく、足取りはしっかりしている。
そしてハイドは親戚の叔父なら考えないようなことを考えた。
その考えを大事に荷造りしてスーツケースに詰めこみ、彼は三日後にロシアへ向かった。
○
ウィルクスが二十六歳を迎えた十月の夜、ハイドから電話が掛かってきた。
「もしかして、好きかもしれない」
その夜スマートフォンに耳を押しつけたまま、ウィルクスは最初で最後だと思っていたキスに、続きがあることを知った。
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