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第15話┋いっぱいのサンキュー!
高松と喧嘩した。
いや、本当にしょうもないことに腹を立て、俺はそのまま家を飛び出してしまった。とりあえずゲースタに来たはいいものの、何をする気にもなれず休憩スペースに居座っている。いつもは買わない紙カップのコーヒーは砂糖を入れ忘れ、ブラックになってしまった。
思わず深いため息が出てしまう。こういうのは別に初めてじゃない。ちょっとした言い争いは何度かある。そりゃ他人だから、ずっと仲良しこよしでいられるわけもない。カチンとくるところもあるけれど、深刻にならず今までやってきた。
ちょっとだけ、俺の機嫌が悪かった。
気づけば腹を立て、声を荒らげていた。
「馬鹿野郎」「俺にも話せないことなのか」「俺が信じられないのか」「お前なんて嫌いだ」「しばらく会いたくない」
酷いことばかり言ってしまった。今では本当に後悔している。機嫌の悪さなんて吹っ飛ぶくらい申し訳なくて情けなくて、珍しく良くない自己嫌悪に陥っている。俺はダメな奴だ。高松の隣にいる資格なんてない──。
「おいおいどうした、オオカミくん。そんなにシナシナになって」
背後から肩を叩かれた。振り返ると、グレーの作業着を着た長身の男に覗き込まれていた。
「……マサカドさん」
いつもの軽い調子で笑うマサカドさんの姿があった。マサカドさんは、カフェオレの缶を片手にテーブルを挟んだ俺の目の前に座った。
「で、何があったの? またマツケンと痴話喧嘩でもしたの?」
マサカドさんは足を組み、頬杖をついている。
俺はどうしたものか考えていた。この人は、俺と高松が喫煙所でキスしていたのを知っている。誰かに言いふらしたりもしないし、それなりに信頼できる人だと思う。相談にも乗ってくれるだろう。
俺は意を決して、重い口を開いた。
「その……高松の煮え切らない態度に、腹を立ててしまったんです。あまりにソワソワして、ため息もついているからどうしたものかと聞いてみても答えてくれないし。明らかに様子がおかしいし、どうしても気になるから、俺もだんだんイライラしてきて」
高松はここ数日何かに悩んでいた。おそらく仕事絡みで考えることがあったんだろう。俺は畑違いだし、高松の仕事についてはよく分からない。縁故入社のいい歳した平社員では、まともなアドバイスもできる気がしない。俺にできることは少ないと分かってはいる。
「ほーん、それで喧嘩して出てきたと」
「喧嘩というか、俺が一方的に怒ってただけです」
──心配なのだ。一方的に怒り散らしておいてどの口が言うのだとも思うが、それは嘘じゃない。
高松が悩んでいたら気にもなるし、自分にできることがあれば何とかしてやりたい。恋人であれば、なにも不思議なことじゃないと思う。
俺はいつも、直接なにかを聞き出したり相談に乗るようなことはせず、差し入れをしたり気晴らしになるようにどこかへ連れ出したりと、回りくどいことばかりしていた。初めは俺が不器用だったからだ。しかし、いっぱいいっぱいになっている高松に何か言ったところで、ほとんど聞こえていないのだと気がついたのだ。
「アイツ、無理して空回りしてエンスト起こすんですよ。だから、俺に甘えてほしいって言ったばかりなんです……それなのに何も言ってくれないから」
──俺は、信頼されていないのだろうか。そう、思ってしまった。
高松は俺が好きだ。けれど、俺を頼りない奴だと思っていたら相談はしてくれないだろう。
「なるほどね……」
マサカドさんは腕を組んで考えている。
「俺も悪いのは分かってます。いつもならこんなことで怒ったりしないし」
言いたくないならそれでいい。いつものようにそう言って終われば良かったんだ。けれど、今日はできなかった。
「俺はマツケンが何に悩んでるか分からないし、君らがどういう風に過ごしてきたかも知らないけど、そういうのは、まぁよくある悩みだから、おじさんの言うことをちょっとだけ聞いてくれないか」
俺は素直に頷いた。マサカドさんは大きく息を吐いて話し始めた。この人がこんなに真剣な顔をしているのは初めて見る。
「仲のいい奴はマツケンが不器用だってなんとなく気づいてると思う。42なら上からも下からも板挟みだ。良い奴だから慕う奴も多いけど、アイツは目立つし、出来る奴の傲慢さって言うのかな……自覚はないだろうけどちょっと上からなんだよなぁ。敵も作りやすい。……ハッキリ言うけど、オオカミくんじゃマツケンの悩みは分からないと思うよ」
「そんな……」
そうは言いながら、なんとなく分かってはいた。
俺と高松はまるで正反対だ。明るく人気者で頑張り屋の高松と、暗くて怠け者で強情な俺。生きてきた世界が違いすぎる。現に、努力の差が収入や肩書きになって現れている。
「無理するのが癖になってるんだろうな。二十年以上続けてきたんだから、そう簡単に治るもんじゃない。だから、オオカミくんの言葉が届いてないわけじゃないんだ。話を聞いてやるよりは、うまーく息抜きさせてやるんだよ」
「うまーく息抜き……?」
「そうだ。アイツの好きな食べ物でも作ってやれよ。マツケンの好きなものならオオカミくんの方が詳しいだろ? アイツは何が好きなんだ?」
「ラーメンとハンバーグ……俺も好きでよく食べます」
マサカドさんはひらりと手を振った。
「それいいんじゃない? 一緒に作ったり、無理なら一緒に食べればいいよ」
「い、一緒に食べるだけ?」
でも、それじゃ──
「それじゃ、いつもと変わらないんですよ!」
俺は思わず声を荒らげてしまった。
「なんだ。できてるならそのままでいいじゃない」
マサカドさんはニコニコと笑うだけだ。そこから先を話す気がない。
俺は俯いて閉口していた。紙コップを持つ指先に力が入る。冷めきったブラックコーヒーが残っていた。俺は真剣に悩んでいるのに、これじゃなんのアドバイスにもならない。もっといい方法があるはずなんだ。きっと、恋人の俺にしかできない方法が──。
「俺から何を言わせたいの?」
「え……?」
驚いて顔を上げると、マサカドさんは鋭い視線で俺を射抜いていた。思わず萎縮してしまう。
「君は俺に相談しておいて、自分の欲しい答えだけを待ってる。もっと派手で画期的なアドバイスが欲しいんだろうけど……人の話は素直に聞いておくもんだよ。俺はそんなに気にしない方だけどね」
俺はマサカドさんに釘を刺されてしまったのだ。人に相談をしておいてハナから聞く耳を持たないなんて、そりゃ不誠実だ。分かりやすい答えが欲しくて焦っていたけれど、そんなものは免罪符にならない。マサカドさんを疑うような失礼なことをしてしまったんだと反省した。
「……ごめんなさい」
「これから気をつければいいよ。……それにね、オオカミくん。俺はマツケンのことは知ってても、『高松健太郎』については何も知らないんだ」
この場所にしかいない『マツケン』。老若男女に好かれる声のデカイ明るい兄ちゃんだ。それも確かに高松なんだけど、あくまで高松の見せる一面にすぎない。
俺は色んな高松を知っている。弱みを見せるのが苦手なことも、高松を元気付ける方法も、支える方法も自然と分かっている。だから今までも正解の方法をとれていたんだ。
マサカドさんの言うように、俺はきっと高松の力になれていたんだと。
「まぁ、元気になってほしいならいい方法があるぞ。しかもオオカミくんにしかできない方法。……聞きたい?」
「……なんですか?」
舌の根も乾かぬうちに何を言い出すんだろう。もしかして勿体ぶっていたのだろうかと、どうしても気になってしまう。
「裸エプロンでもして、ご飯にする? お風呂にする? って聞いてやれよ。たぶんどっちでもない答えが返ってくるんじゃないか。元気になるぞ〜。どこがかは知らんけど」
マサカドさんはケラケラと笑っている。今どき珍しいストレートなハラスメントに俺はゲンナリした。
「はぁ……またふざけて。そういうのセクハラになるんですよ。俺行きますからね」
手元のコーヒーを飲み干して立ち上がる。早く家に帰らなければ。きっと高松がしょぼくれた顔をして待っている。
「オオカミくん。大丈夫だよ……なんだかんだ君ら似てるし。お似合いだもん」
「マサカドさん。……ありがとうございます」
ヘラヘラしているけれど、この人はやっぱり良い人だ。マサカドさんに頭を下げ、俺は小走りでゲースタを抜け出した。
家に帰ってすぐさま高松に頭を下げた。怒りどころか焦りすらなく、素直な気持ちで謝れた。これもマサカドさんのおかげだろう。
「ごめん! 急に怒って出てったりして」
キッチンで平謝りする俺を見て、買い物から帰ったばかりの高松は慌てている。
「悪いのは俺の方ですよ。なにか隠してると思われても仕方ないですよね。言えないわけじゃないんです……その、うまく言えなくて」
困ったように笑う高松を見ていると、胸がきゅっと掴まれたようで苦しくなる。やはり喧嘩なんてものじゃなかった。俺は一方的に腹を立ててしまったんだ。
「あのね……仕事のことで、悩んでるんです。そろそろ管理職にならないかって」
「昇進か。すごいじゃないか」
「実は、今まで断ってきたんですよね。一人で自由にやらせてもらえるし、二十年間ずっと営業で走り回ってたけど。……さすがに若くもないでしょ?」
高松は眉間に皺を寄せ、困ったように笑う。
昇進を断っているなんて話は聞いたことがなかった。俺にも関係する大事なことは教えてくれるけれど、そもそも高松は仕事の話をあまりしたがらない。営業という仕事が好きで自分のやり方で好きにやらせてもらっている、会社の設立から関わっているから融通が効くんだと話してはいた。
高松は『出来る奴』だ。仕事ができる42歳が主任止まりではもったいない。俺だってそう思うんだから、二十年高松を見てきた人はなおさらそう思うだろう。
「その口ぶりだと、嫌なのか」
「今みたいにたまにサボりながら、のらりくらりやっていきたいですよ。課長補佐からすぐ課長になるらしいですし」
「らしいって……お前の話だろ」
「社長はもう決めてるみたいですよ。あとは俺がオッケーするだけ。でも、人の上に立つのって大変だしマネジメントとか向いてないんだよなぁ」
高松は買い物袋から生身のトマトを取り出して、手持ち無沙汰に弄んでいる。
「社長はね、高校からの先輩なんですけど、俺を気に入ってくれてるんです。起業するんだって言われた時も喜んで着いていきました。条件も待遇も良くしてくれたのに恩も全然返せてないんです」
高松は持っていたトマトを光にかざしている。真っ赤な食べ頃のトマトだ。
彼の凛々しい横顔を見ていると、俺は社会人としての高松健太郎をよく知らないのだと思い知らされる。
「でもさ、俺はまだ色んな人と出会っていっぱい話がしたいんですよ。それに忙しくなったら、尾上さんと一緒にいる時間も少なくなっちゃうでしょ」
「俺のことなんて気にすんなよ。……大丈夫だから」
何が『大丈夫』なんだろう。一人でいることか、高松が遠くへ行ってしまうことか。でも、俺は高松のお荷物にだけはなりたくない。
「ううん。俺が尾上さんと一緒にいたいんですよ」
──俺は理不尽な怒り方をして出ていったのに?
高松は俺に気を使っているんじゃないか。本当はもっとバリバリ仕事をして好きなことをしたいんじゃないか。俺は本当に高松の隣にいていいんだろうか。
踏ん切りが着いたと思ったのに、俺はまた余計なことを考えている。凝り固まった思考はなかなか変われそうにない。
どれくらい時間が経っただろう、パンと手を叩く音で我に返った。
「もう悩むの終わり! 社長とも話さないと答えでないし」
「あ、あぁ……それが一番だな」
「でしょ。こうやって悩めるだけでもありがたいですよね。……あ、そうだ。買ったもの冷蔵庫入れなきゃ。冷凍食品溶けちゃってるかも」
高松がエコバッグから食品を取り出すのを、俺はほんやりと眺めていた。いつものアイスクリームとあんこの大判焼き。
「そういや、いつも同じものばかり買ってるな。他のやつ買わないのか?」
牛乳も豆腐も『いつもの』だ。
「だって尾上さんが好きだって言ったもの、買ってきたいし」
牛乳は無調整が好きだと言ってから同じものを買い続けてくれる。豆腐も固めの絹豆腐で、大豆の味は強い方が嬉しいと何気なく言ったら同じものを。合い挽き肉は牛と豚の合い挽きで、パン粉もあるからきっとハンバーグになる。高松も俺も好きな物だった。
袋の中は俺の好きな物ばかりで、こいつは喧嘩した……いや俺の不機嫌に晒された時まで俺の好きな物を当たり前に、何も考えずに自然と買ってくるんだ。
俺は胸の奥がじんわりと温かくなっていた。
「お前、本当に……俺のこと好きなんだな」
本当に、本当に嬉しくて仕方がない。
「急にどうしたんですか。好きですよ?」
「ううん……なんでもない」
俺はどうかしていた。
俺は高松を骨抜きにできるような人間になろう、高松の隣にいても恥ずかしくない人間になろうと決めたじゃないか。だからせめて正直に、まっすぐいようと。
「……俺もお前が好きなんだ。お前に報われてほしいしこの恩を返したい」
「そんな、恩だなんて」
「いや、恩は大事だよ。いつも俺と一緒にいてくれてありがとう。俺はたいしたこともできないけれど、それでも役に立ちたいよ。そうだな……何か、俺にしてほしいことないのか?」
高松に比べて、俺は高松をよく知らない。だからもっと高松のことが知りたい。なんでも教えてほしいんだ。
「うーん。してほしいことかぁ……」
高松は困ったように目線を逸らしている。
すると突然、ぐうぅぅと確かに聞こえる大きさで腹の音が鳴った。俺じゃない。
「あはは……お腹すいちゃった。じゃあ、たまには一緒に夕飯作ろっか。いつか約束してましたよね」
高松は先程まで持っていたトマトを俺に突き出して笑った。
「これなんていいんじゃないですか。トマトソースのハンバーグ! 尾上さんと一緒に作ったら、きっともっと美味しくなりますよね」
「おう。俺に任せとけ」
俺は大きく胸を張った。何故だか根拠のない自信に溢れている。
「ま、任せるのはちょっとアレかな」
「そんなに身構えなくてもいいだろ」
「カレーのインパクトがすごくて……ねぇ」
「手伝うだけだよ。いつも飯作ってくれるお礼だ!」
俺はいつだって助けられている。俺の想いを、いっぱいの感謝をどれだけ伝えられるのだろう。本当はこれくらいじゃたりないのに。
「ありがとう尾上さん。俺はその気持ちが本当に……本当に嬉しいんですよ」
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