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第21話┋いつか思い出す今日のこと

 眠い目をこすってベッドから這い出た午前7時45分。急いでトイレと洗顔を済ませ、慌ただしくYシャツに袖を通した7時55分。  今日は何故かアラームが鳴らなかったから遅刻気味だ。朝メシを食べる余裕もないだろう。  リビングでネクタイを締めていたらもう一つの寝室から物音がした。どうやら高松が起きてきたらしい。そういえば、高松は急がなくても大丈夫なのだろうか。 「あれ……? 尾上さんは今日仕事でしたっけ」  高松は大あくびをしながら、首をかしげている。  何を言っているんだと、つられて俺も首をかしげてしまう。今日は火曜日なんだから平日だろう。 「今日は祝日ですよ。11月3日なんだから」 「11月3日…………あ、そうか」  急に肩の力が抜けていった。急いで起きる必要もなければ仕事に行く必要もなかったのだ。どうりでアラームが鳴らないわけだ。  ネクタイの結び目に手をかける。 「……着替えてくる」  部屋着に着替え直し、リビングに出た。先に起きてきた高松はトースターでパンを焼いているようだった。 「……おはよう」 「おはようございます。コーヒー? 牛乳?」 「牛乳」  俺がテーブルに着くと、高松がグラスに牛乳を注いでくれた。  5枚切りの食パンはこんがりと焼き目がついている。マーマレードジャムをたっぷり塗って、控えめにひと口かじった。 「それにしても、本当に忘れてるなんて思わなかったな〜。だって自分の誕生日ですよ?」 「仕方ないだろ。この歳になって誕生日つってもな」  あっという間に月日は流れ、今日で45歳になってしまった。立派なおじさんだ。 「えー、誕生日ってお祝いですよ。嬉しいじゃないですか」 「そんなもんかなぁ」  高松が祝ってくれるのは嬉しいけれど、また一つ老けたのだと思うと複雑だ。一歩ずつ死が近づいてくる。こいつは妙なところでポジティブだから、この感覚は共有できないと思う。 「そりゃいくつになっても良いですよ。昔とそんなに変わらないんじゃない? あ、誕生日が祝日だと特別なこともあるんじゃないですか? 何か美味しいもの食べたり」 「いや? クリスマスとか、正月じゃないんだから特にないな……」  学校はいつも休みだから、友人に祝われたことはほとんどない。パーティーをするような柄でもないし、誕生日は家族内のイベントだ。 「まぁでも、毎年同じ流れだったかな。11月3日って文化の日だろ? だから、午前中は公民館に行くんだ」 「公民館?」 「公民館っていうか、市民ホールかな。俺の書道の作品とばあちゃんの生け花を見て、それからおもちゃ屋に行って、ケーキを買って帰るんだ」  午前中は町が主催する文化展覧会に足を運ぶ。その後はおもちゃ屋でゲームを買ってもらって、予約してあった小さめのホールケーキを持って帰るのだ。  生け花を習っている祖母と両親と一緒に出かけていた。 「そっか。尾上さんはずっと書道習ってたんですよね」 「ああ。町のコンクールくらいなら毎回入選するから見に行くんだ」 「へぇ、すごいですね!」  咄嗟に否定しようとして、言い淀む。  ずっと力を入れていたし長く続けていたから、賞に入るのも不思議じゃない。謙遜でもなく、本当に大した腕前ではないと思うけれど──。 「まぁ確かに、それでも親は褒めてくれたな……」  自分の半紙の隅に、入選を示す金の折り紙。きらりと光るそれが目に入り、安堵したのを覚えている。 「めちゃくちゃ良い親御さんじゃないですか!」 「たぶん、そうなんだろうな」 「たぶん?」  高松は首をかしげている。 「『良い親』とか『裕福』とか言われても、俺にとってそれが普通なんだしあまりピンとこないんだ」  よその家はよく分からないけれど、周りから見れば俺は甘やかされていたのだろう。いや、今だってそうなのかもしれない。コネで入った会社でだらだら働いて、子供がいないどころか結婚もしていないのに、小言の一つも言われないのだから。 「尾上さんは大事にされてきたんですね」 「それは……大人になってからなんとなく分かるようになったかな」  大人といってもろくでもない大人だ。最近は家にも帰っていないし、そろそろ親孝行をしなければならない年なのに。  ──それでも、孝行を考えるようになっただけまだマシなのかなぁ。 「一応、無駄に歳食ってるわけじゃないってことか」  高松はニコニコ微笑んでいる。 「言ったでしょ。いくつになってもめでたいんですって」 「身体が衰えるのだけはやめてほしいけどな……」  年々加速していく体力の衰え、腰痛、胃もたれ。  高松が張り切って買ってきたケーキは有名な店のものらしい。そこまでは良いのだが、チョコレートが何層にもなったケーキらしく、想像するだけで胸焼けする。 「あ、そうだ! 尾上さんにプレゼント!」  何かを思いついた高松はそこそこの声量で叫んだと思えば、自室からラッピングされた大きめの袋を抱えて戻ってきた。この大きさはなんだろう。高松から手渡され持ってみると、弾力があって硬いような柔らかいような。 「開けてみていいか?」 「もちろん」  高松に許可をとって袋を開ける。 「これは……枕?」 「そう。これで寝やすくなったらいいですね!」  そういえば一ヶ月ほど前に『寝るのがしんどい』なんて話をしていたんだった。寝具が悪い、枕がヘタれているからじゃないかと結論が出たのだが、まさか誕生日プレゼントになるとは。 「おー! ありがとな。低反発でいい感じだ」  枕の良し悪しを気にしたことはないけれど、よく眠れるのかもしれない。長年付き合ってきた寝付きの悪さともおさらばできたらいいな。 「ふぁ……」  枕を抱きしめていたら、反射であくびが出てしまった。まだ寝足りないのかもしれない。 「なんか眠くなってきた……」  時計を見るとまだ9時だ。休みなのに早起きしたんだから、もう一眠りしてもバチは当たらないだろう。 「二度寝ですね。俺も寝ちゃおうかな」  高松もつられるようにあくびをして、食器を片付けている。その様子をぼんやりと眺めていたら、ウトウトして頭が回らなかったのか、余計なことを口走ってしまった。 「……一緒に寝るか?」  俺が小声で呟いたのを、高松は聞き逃さなかった。 「やったー! 寝たいです!」  高松の声は相変わらずデカい。俺の眠気が少し飛ぶくらいだ。そこまで元気なのに眠れるのだろうか。 「大袈裟だな。たまにだけど、一緒に寝てるだろ」 「好きな人の寝顔なんて何回見てもいいですからね」 「いや、どうせお前が先に寝るだろ」 「どうせってなんですか。そんなの分かんないですよ?」 「いーや、お前が先だね」 「枕パワーで尾上さんが先かも」 「それは、たしかに……」  高松が先に堪えきれなくなって、ふたり顔を突き合わせて笑いあっていた。 「はぁ……なんか疲れた。……寝るか」  高松に手を引かれ、二人でダブルベッドに入る。貰った枕に頭を預けた瞬間、包まれるように首の力が抜けていく。今まで気になっていた後頭部の圧迫感が無い。 「その枕どうですか?」 「いい感じだ……気持ちいい」 「良かった。羊数えなくても良さそうですね」  高松は俺の腕を引いて、それから指を絡めていく。冷えた指先を伝って身体が温まっていく気がした。  高松は見た目通り暖かい男なのだ。だから、冷たい俺でもそばにいられる。俺まで暖かくなっていく。  しばらくすると隣から寝息が聞こえてきたから、俺も目を閉じてみる。 『──ほら、電気消すぞ』  いつの間にか俺も寝てしまったらしい。たぶん、夢を見ている。 『ハッピーバースデー、浩之』  40年ほど前だろうか、まだ若い両親と姉が言う。バースデーソングを歌いながら俺の誕生日を祝っている。 『誕生日おめでとう』  暗い部屋の中に小さな炎が揺らめいて、辺りをほんのりと照らしている。俺は五歳らしい。 『ありがとう母さん、父さん。姉さんも』  息を吸ってケーキのロウソクを吹き消した。部屋の中が真っ暗になった。 『わ、暗くて何も見えないよ』 『お母さんどうしよう。スイッチ分かんない。電気つけて』 『お父さんの方にスイッチあるから大丈夫。……さ、電気つけるよ』 と言う父さんの声で俺も目が覚めた。……随分とありきたりな夢だ。 「おはよう、尾上さん」  ニヤつく高松と目が合った。そのいやらしい顔を見たらノスタルジックな気分も吹っ飛んでしまった。 「……何が言いたい」 「タコとまではいかないけど、キス待ちみたいな可愛い顔してましたね」 「はぁ……?」  何がキス待ち顔だ。俺はただ夢の中でロウソクに息を吹きかけただけなのに。 「えへへ。……また一つ、大人になったんですね」  この先に起こる出来事も苦しみも知らない子供の俺が正直羨ましかったけれど、それでも昔に戻りたいとは思わない。消し去りたいと願っても消えない過去だって、所詮は終わったことだ。 「……生意気なやつ」 「えへへ。尾上さん、誕生日おめでとうございます」  目を細めた高松が笑う。愛、慈しみ。これは恋人に向ける顔だ。  あぁ……少しシワが増えたんじゃないか。付き合ってからもう三年、初めて会った時から数えると六年になるのか。あの頃はお前だって、まだおじさんっぽくなかったのになぁ。  もし俺が完璧な人間だったら、きっとこいつとは出会えていない。そう思うと、俺が今まで歩いてきた道もまあまあ正しかったなと思えるのだ。 「うん。……ありがとな」  いくつになっても誕生日を祝おうか。いつまでも、高松と一緒に。

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