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第1話 下層のシリル

 手を開いて、閉じて。白い息を吐きかけて。懸命に指先に血を巡らせる。    かじかんだ手を少しでも温め、比較的動けるようになった手で彫刻刀を握り締めた。板に描いた繊細な下書きを、彫刻刀でなぞっていく。音も立たないくらい慎重に、彫刻を刻んでいった。    しばらくして、出た木屑を払う。その際に壁際に立てかけた鏡に、自分の姿が映った。くすんだ金髪を後ろで雑にまとめた、緑色の目をしたそばかすの青年が、床に座って彫刻刀を握り締めている。    こんな頼りない青年が、今や工房長だなんて。   「シリル、集中力を途切れさせるな」    青年シリルは、鏡の中の自分を叱咤した。親方の口癖だった。今では、自分で自分に言うしかない。    板を見下ろし、シリルは溜息を吐いた。今回発注されたのは、壁掛け鏡の木枠だ。木枠に鏡を嵌め込むところまでこなし、完成品を納品することになっている。壁際の鏡は、その鏡だ。    溜息を吐いたのは、進捗の遅さに対してだ。あまりにも遅すぎる。四分の一も彫刻を彫り終わっていない。親方なら、もう半分は終わらせていた。    一人ぼっちの工房に、再度重い溜息が零れた。    シリルは天涯孤独の身だ。幼いシリルを育て、職人としての技術を叩き込んでくれたのは親方だ。この工房の工房長はかつて親方だった。シリルと二人で小さな彫刻工房を細々と営んでいた。    親方は一年前に死んだ。だから、シリルは本当の一人ぼっちになってしまった。  シリル一人には、工房はあまりにも広すぎる。  一段、また一段と上がっていく。  白い石段をひたすらに上がる。    やっとの思いで壁掛け鏡を完成させたシリルは、布に鏡を包んで螺旋階段を上がっていた。に上がるためだ。鏡の依頼主は中層に住んでいる。    下層の住人同士ならば、工房に客が依頼品を取りに来る。だが中層の住人がわざわざ下層まで来るなんて、ありえないことだ。好き好んで寒い下層まで来る理由などない。    階段を上がるごとに、空気が暖かくなっていくのを感じる。  最上段を踏みしめ、上の階層に辿り着いた。ここが塔の中層だ。  この世界の人間は、巨大な塔の中に住んでいる。  堅固な石製の壁でできた大きな塔は、上層と中層と下層に分かれ、そこに街がある。  それがシリルの生まれ育った世界だ。シリルにとっては、これが当たり前だった。    上に行くほど暖かくなるから、上には偉い奴らが住んでいる。手がかじかむほど寒い下層に住んでいるのは、自分のような取るに足らない人間。それが現実だった。  中層と一口に言っても、中層もいくつかのフロアに分かれている。中層の一番下のフロアは、下層からやってくる人間用の食料品店などが数多く並んでいる。  シリルは住居フロアへと急いだ。   「ごめんください」    依頼人の家の呼び鈴を鳴らした。少しして、家の人間が出る。小太りの中年男性だ。   「おお、できたかい」    シリルの姿を見て、依頼人は相好を崩す。  シリルは鏡をそっと下ろすと、布を取って完成品を見せた。   「うんうん。これが代金だ」    依頼人が笑顔で手を伸ばすので、シリルは手を差し出した。   「え……?」    手の平の上に乗る軽い感触に、愕然とする。見れば、代金として手渡されたのはほんの三枚の銀貨だった。   「そんな、銀貨五枚が相場のはずです!」    シリルは依頼人に訴えた。  木枠を完成させるのに、結局二週間かかってしまった。材料費と二週間の生活費を引けば、ほとんど手元に残らない。手元に残らないどころか、赤字だ。   「そりゃそうだけどね、親方より随分仕事が粗いじゃないか。親方の仕事と同額渡したら、天の国の親方も浮かばれないよ」   「……っ」    親方の作品よりも劣るのは確かだ。言い返せず、シリルは歯噛みした。   「……精進します」    もっと上手く、もっと素早く作品を仕上げればいい。  それはもっともだが、シリルはこのところパンの量を減らして節約している。でなければ、金が足りないからだ。  腹が減って手がかじかむ下層で、どうやって繊細な彫刻を彫れというのか。  シリルの生活はこのところ、苦しくなる一方だった。   「ただの彫刻職人じゃなくて、楽器職人になれたなら金持ちだったのになあ」    依頼人が笑う。その笑みが嘲笑に見えるのは、余裕がないせいだろう。彼は話の種を口にしただけだ。   「無理です。オレには才がなかったので」    シリルは項垂れた。   「『楽士(がくし)検査』か。小さい子供に一律に検査を実施するなんて、王様はよほど楽士を見つけたいと見える」    塔の住人は一定の年齢になると、楽士検査というものを受ける。音楽の才能があるかどうか、確かめるのだ。検査に合格すれば、上層の人間の養子になる。そうすれば楽器職人にだって、音楽家にだってなれる。    幼き日のシリルは受からなかった。だから下層にいる。   「王様のお気に入りの楽士を探しているんですよね」   「王様の御力が塔に行き渡り、塔を暖めてくれている。塔の外は極寒の世界。塔の中が凍えないのはすべて、王様のおかげ。世界の中で生き物が存在できているのは、この塔の中だけと来た。この塔で一番偉いのは、間違いなく王様だ。気に入りの楽士でもなんでも、探せばいいさ」    依頼人は肩を竦めた。    塔の外には何もない。吹雪というものが吹いているだけの塔の外から、寒さがやってくる。  寒さを塔から退けているのが、王の力だ。王は不思議な力を持っていて、王の力によって塔に存在するすべての生命体の命が保たれている。    その王が音楽の才能を持つ者を贔屓していて、才を持つ者だけが上層に住めるのだ。   「……なんてくそったれな世界だ」    吐き出すように、呟いた。   「うん、なんか言ったかい?」 「いえ、なんでもありません」    貴重なお得意様を逃すわけにはいかない、たとえ足元を見られたとしても。  呟きをはっきりと聞かれなかったことに安堵した。  その後、シリルは同じく中層に存在する森林フロアに向かった。    森林フロアは、床からにょきにょきとたくさんの木々が生えているフロアだ。塔には、このように決まった植物が生えるフロアが存在する。下層は寒いからか、そのようなフロアはない。    動植物を育てるのは中層の役目。人々の生命を繋ぐのに必須の食べ物を生産することができる。だから、中層の人間は下層の人間より偉いのだ。    上層が一番フロアが少なく、住人の数も少ない。中層が一番フロアが多い。そのため、同じ中層でも上の方と下の方では室温も結構違う。下の方では寒さが平気な動植物を育て、上の方では暖かいところでないと駄目な動植物が育てられている。  中層ほどフロアが多くないものの、一番住人が多いのが下層だ。狭く寒い下層で、ひしめくようにして暮らしている。   「木材をお願いします」    森林フロアには、製材所も存在する。  シリルはそこに彫刻の材料を買い付けにきた。   「はいよ、今回はどのサイズだい?」  製材所の人間は顔見知りだ。慣れた様子で聞いてくれる。   「こちらのをお願いします」 「それなら銀貨一枚半だ」 「一枚半⁉」    木材の値段に、耳を疑った。   「すまないね、最近木があまり育たないんだ。成長速度が遅くなっててさ。だから木材が高騰しているんだ」    製材所の人間は肩を竦める。   「そうですか、高騰しているんなら仕方ありませんね」    塔に植物の生えてくるフロアがあるのは、王の御業のおかげ。それが生えてくるのが遅くなっても、自分たち庶民にはどうしようもないし理由もわからない。噛みついても仕方ない。    仕方ないが、ここで銀貨一枚半も使うのは予定外の出費だ。これは相当パンを節約しなければならない。

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