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第2話 外の世界
頭の中が金勘定でいっぱいになりながら足を動かしていたら、いつの間にか下層の工房に辿り着いていた。冷たさが身体に張りついてくる。
「仕事を、しなきゃ」
空腹を無視して、シリルは作業を開始しようとした。今日からパンは一日一食だけ。そうでもしなきゃ、とても保たない。
視野が狭くなっていたせいだろうか、シリルは工房に先に客が来ていたことに気がつかなかった。
「おい、シリル。どこに行ってたんだよ。この僕がクソ寒い下層で待ってやってたんだぞ。ねぎらいの言葉はないのか」
偉そうな声が工房に響く。
ちぢれ髪の青年が、工房の椅子に我が物然とした顔で腰かけていた。温かそうな毛皮のケープに身を包んでいる。こんな高価な物を身につけられるのは、もちろん上層の人間だ。
「エミール!」
シリルは顔を輝かせた。
「どうせまた腹を空かせているんだろう? 我が幼馴染に恵みに来てやったよ、感謝しろ」
この偉そうな青年は、シリルの幼馴染だ。彼は元下層民だったが、楽士検査に合格し上層の住人となったのだ。楽士検査が実施されても合格者が一人もいない年もざらにある中、合格した稀有な才能の持ち主だ。
シリルが天涯孤独の身だからだろう、エミールは下層の家族に仕送りを届けにくるついでにシリルのことも気遣ってくれるのだ。ありがたいことだ。
楽士検査に合格して上層に行くと、下層の家族のことなど省みない人間も多いと聞く。その点エミールは口は悪いが、根はいい人間なのだとシリルは信じていた。
「ありがとう、エミールは本当にいい奴だな!」
「今日は葡萄酒も持ってきてやったぞ」
エミールはこれまた我が物顔で占領しているテーブルに載せたバスケットから、ワインボトルを覗かせる。
「葡萄酒……」
彼の言葉に、ごくりと唾を嚥下した。
床に放っておかれている彫刻刀を、ちらりと見やる。今日はこの後早速仕事をするつもりだった。だが酒なんて随分長い間飲んでいない。嗜好品を買う余裕がないからだ。
せっかく訪ねてきてくれたのだから、酒ぐらい付き合ってやらねば。シリルは自分に言い訳し、エミールの向かいに座った。
二つの木製の杯に、葡萄酒を注ぎ込んだ。
「乾杯」
杯を合わせ、葡萄酒を口にする。久方ぶりの酒の味に、目を閉じて味わう。
エミールが持ってきてくれた肉は、揚げられた鳥肉だった。すっかり冷えてこちこちになっていたが、空腹のシリルは夢中で齧りついた。
「どんどん食えよ」
エミールは食が進まないようで、杯を傾けるばかりだ。
覚えのある味に、エミールの下層の家族が作ったものなのだろうと悟った。エミールが来ると家族は彼に食べ物を持たせるのだが、それはどうやら彼の口には合わないらしい。それでいつもシリルにくれるのだ。
エミールが明言したことはないが、そういう事情だろうとシリルは察していた。
「エミールは、やっぱり楽器をがんばってるのか?」
少し腹が膨れると、会話を交わす余力が生まれた。顔を上げて、彼に話題を差し向ける。
「……そんなの当たり前だろ。どうしたんだよ、一体」
彼の眉がピクリと反応したように見えた。
「いや、王様ってお気に入りの楽士を探すために音楽ができるやつを贔屓しているんだろ? エミールがその楽士っていうのになれたらいいなってさ」
シリルは素直な想いを吐露した。
だが、それを聞いたエミールは馬鹿にしたように笑った。
「はっ、贔屓している? シリルってなーんにも物を知らないんだな」
あまりな物言いに怒りを覚えたが、彼の口が悪いのは今に始まったことではない。シリルは大人しく耳を傾ける。
「まあ確かに贔屓していると言えなくもない。けど、それは必要なことだからやっているんだ。いいか、王が探しているのはお気に入りの楽士なんてものじゃない。真に王の琴線に触れる演奏ができる者は、王の御力を回復させることができると言われているんだ」
「王の御力を……回復?」
彼の言葉が上手く呑み込めなかった。回復とはどういう意味だろう、まるで王の力が今は陰っているような言い方ではないか。
シリルの反応に、彼は眉を吊り上げる。
「おいおい、本当に何も知らないんだな。下層がこんなにクソ寒いのは正常な状態じゃないんだよ。塔のすべてが、人間の生存に適した温度に保たれていてしかるべきなんだ」
エミールの話は衝撃だった。
王は塔の最上階に住んでいる。だから、塔の下ほど王の力が行き届かなくて寒い。それが常識だ。
下層が寒い状態が普通の状態じゃないなんて、信じられない。暖かいのが本来の状態だなんて、想像がつかなかった。
「そうじゃないのは、王の御力が弱ってきているからなんだ。別に王が無能だからとかじゃない、時間と共に自然に減じていくものらしい。けれども、唯一それを回復させられる者がいる」
「それが楽士だと?」
「ああ、そうだとも! だから音楽の才能を持つ者が上層に集められて、日夜切磋琢磨して腕を磨いているのは理不尽な依怙贔屓というわけじゃない。とても有意義なことなんだ。わかったか、シリル」
「ごめん。エミールって、すごいことしてたんだな」
シリルは謝った。贔屓だなんて言って、無知と罵られても仕方がない。
下層が暖かくなる可能性があるなら、その方がいいに決まっているのだから。
「ふん、そうだろ。もっと褒め称えろ」
エミールは得意げに笑った。すぐ調子に乗るところは、彼のかわいげのあるところだと思う。
すごい、すごいと小さな拍手を送ってあげた。
「じゃあ、エミールは楽士を目指してがんばっているんだな」
「……まあな。お前こそ工房長を継いでもうすぐ一年だろ、調子はどうなんだよ」
聞き返され、シリルは答えをはぐらかされたように感じた。
彼が努力していないなんてことは、ないと思うのだが。彼の指には、職人のものとは種類の違う指だこができているのだから。日夜、楽器の演奏に励んでいることが窺える。
「調子ははっきり言って悪い。オレの腕は親方の足元にも及ばない。客も多くが離れていったよ」
「そうか……」
芳しくない答えに気まずくなったのか、エミールは下を向く。シリルもつられて手元の杯に視線を落とした。赤い液体にぼんやりと自分の顔が映っている。
「親方が生きていれば……親方が殺されなければ、こんなことにはなっていないのに」
葡萄酒に映った自分に、ぽつりと呟いた。
一年前、親方は殺された。下手人は上層の人間だった。きっかけは、納品した作品だか値段だかに関して揉めたからなのだとか。
下手人はお咎めなしだった。上層の住人だから。
塔の上下はそのまま、自分たちの身分差を表している。
「些細なきっかけで、親方はあっさりと殺された。犯人が罪を裁かれることはない。全部、この世界が間違っているからだ……!」
怒りのままに、杯をテーブルに叩きつけた。
衝撃のあまり、近くの作業机に置いていたものがぱたりと倒れた。
「おいおい、落ち着けよ」
エミールは椅子から立ち上がると、直すためにか机の上の倒れたものを手に取った。
「これ……お前、まだこんなもの持ってたのか」
エミールが手に取ったものは、小さな絵本だ。不器用で不愛想な親方が、子供時代のシリルに買い与えてくれた貴重なものの一つだ。まだエミールが上層に連れていかれる前、共に読んだこともあった。
「ああ。親方の形見だからな」
シリルも椅子から立ち上がり、エミールの隣に立つ。
エミールはそっと絵本の頁をめくる。母親からお使いを命じられた少女が、森を抜けて祖母の家にまで行くという童話が描かれている。
「不思議な童話だよな。出てくる人はみんな塔の中には住んでいなくて、外なのに森があって、草木は地面というものから生えている。頭上には天井の代わりに空があって、鳥がそこを飛んでいる。空の一番上には太陽っていうものがあって、王の御力じゃなくて太陽が世界を温めているんだ」
シリルは夢見る表情で呟いた。
風や空、太陽。塔の中では、神の名としてしか使われない単語だ。絵本の中の世界は、不思議な世界だ。――いつか、そんな世界に住めたら。
「塔の外にはそんな世界が広がっているんだって、子供の頃は信じていたな」
エミールが頷く。
「オレは今でも、塔の外のどこかにそういう世界があるんじゃないかと思っているよ」
塔の外の世界を思い浮かべると、この世の不条理への怒りや虚しさといったものが少し癒される気がした。一年前はこの絵本をずっと眺めて悲しみに耐えていた。
「はは、それは夢見すぎだろ。塔の外は極寒の世界で、吹雪っていうやつがすべてを包んでいるんだ。だから下層はこんなにクソ寒いんだろ?」
「ああ……」
エミールには笑われたが、絵本を目にしたおかげで荒立っていた気持ちが少し落ち着いた。
「外といえば、知っているかシリル」
なにかを思い出したかのように、エミールは口を開く。
「うん?」
「王の居室には、窓というものがあるらしいぞ」
絵本に描かれている少女の家を、エミールは指し示した。
少女の家は壁の一部が透明になっている。これが窓という代物なのだろう。
「窓はガラス製だ。つまり外が見えるようになっている。王の部屋まで行けば、外の世界が見られるということだ」
「へえ!」
彼の話に、シリルは目を輝かせた。
「おいおい、まさか本当に王の部屋まで行こうとか考えていないだろうな。お前が行っても捕まるだけだぞ」
「そうか……そうだよな」
エミールの言葉に落胆した。
本当に塔の外をちらりとでも見られるかもしれない。そう思った瞬間、心が弾んだのに。
「お前はいつまでも経っても変わらないな」
呆れたように笑いながら、エミールは絵本を元通りに戻した。
「外を見てみたい――いや、外に行ってみたいな」
ぽつり、呟いた。
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