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第20話 心の距離
工房の中は、がらんともぬけの殻だった。思っていた通り、埃が降り積もっている。
「シリル様、この工房を少し掃除してもよろしいでしょうか?」
エリクが前に一歩進み出て、申し出る。
「そんな悪いです、もうここに戻ってくる予定もないんですし」
自分の言葉に、胸がズキンと痛んだ。
エミールが死んで外の世界に出ると決めた日に、自分はこの工房を捨てたのだ。外に出るということは、もう二度とこの工房に戻ってこないということを意味していた。そんな重要なことを、あっさり決めてしまったかつての自分が信じられなかった。
死にたいと思ったことはない。だけれど、外に出ようと思った日の自分は確かに自暴自棄にはなっていたのかもしれない。
「ここはシリル様にとってとても大切な場所なのでございましょう? せめて、軽く掃き清めるぐらいのことはさせてくださいませ」
「エリクさん……」
エリクの鷹揚な笑みに、胸がじんとするのを感じた。
エリクは片隅にあった箒を手に取り、工房内を掃き始めた。
感謝を覚えながら、シリルは工房の中をゆっくりと見て回る。工房の中が狭く見えるのは久しぶりのことだ。一人きりじゃないと、こんなに小さく感じるのだなと懐かしかった。
「ほう、これがお前の作品か」
聞こえてきたアロイスの声に振り返る。
なんと、工房の隅にあったシリルの習作を勝手に観察していた。
「勝手に見るな、バカ!」
慌てて彼の前に立ちはだかり、視界を遮った。アロイスの方が頭一つ分は背が高いから、あまり遮れていないけれど。
「どうして見ては駄目なんだ? 恥ずかしいものなのか?」
「だってよくできたやつは売っぱらうから、工房に残ってるやつは失敗作なんだよ! こんなのオレの実力じゃないのに、恥ずかしいに決まってるだろ!」
工房に転がっている習作は動物の置き物だ。ずんぐりむっくりとした体格になってしまった小鳥や、ブサイクな顔したウサギの木彫りを見られて顔が赤くなる。
「これらが失敗作なのか。可愛らしいではないか」
「これが可愛い? 王様の癖に審美眼がないんじゃないか?」
自分が作った物なんかよりも、よほど繊細で美しい彫刻が施された調度品に囲まれている癖に、アロイスには審美眼というものが備わっていないらしい。趣味が悪い。
あろうことか、彼はずんぐりむっくりのおデブな小鳥の置き物を手に取った。
「この置き物をもらっても?」
「はあ? 失敗作だから、くれてやるけどさ」
とんだ物好きだ。
ふくふくとした小鳥は彼の手の中にあると、不思議と幸せそうに微笑んでいるように見えた。
シリルはふん、と彼に背中を向けた。
シリルはアロイスから離れるために、なんとなく机に近寄った。机の上には、広げて置いてあったままにしてあったものがあった。小さな絵本だ。絵本を手に取り、頁の上に積もっていた埃をそっと払った。
「それは?」
アロイスが横に立って、絵本を覗き込んできた。
「昔、親方が買ってくれた絵本だよ。塔の外の世界が描かれてて、この本を読んで外に憧れるようになったんだ」
ゆっくりと頁をめくっていく。小さな絵本は、数頁めくっただけで最後まで辿り着いてしまう。
「お前、文字が読めたのか」
アロイスは明後日の方向に驚きを示した。
「何言ってんだよ! オレだって一応は工房長だから、注文書とか書かなきゃいけないんだよ!」
「私はお前について、何も知ろうとしていなかったのだな。お前が彫刻を得意としていたことも、文字が読めたことも知らなかった。遊戯盤だけでなく、本も贈っていればよかったな」
アロイスがしゅんと落ち込んだ顔をしているように見えて、シリルは目を丸くさせた。自分のために落ち込んでくれていることが、嬉しかった。
「やめてくれよ、難しい本なんて読めねえよ」
気恥ずかしくって、ぷいとそっぽを向く。
「お前のことをよく知ることができて、下層まで足を向けた甲斐があった」
「……」
駄目だ。顔が熱くなってしまう。
どうしてアロイスはこんな台詞を吐けるのだろう。こんな……自分に好意を抱いているかのような台詞を。
変な信念一つで謝罪の言葉すら吐けないような、言葉下手の不器用人間の癖に。
もしかしたら、本当に自分のことを……。
「シリル。お前に一つ聞きたいことがある」
「なんだよ」
「さっきの声をかけてきた女性。エミールとかいうお前の友人だった男の母親か?」
どうやらアロイスは会話の内容から推察をつけていたようだ。
「ああ、そうだよ。っていうか、なんなんだよさっきの。エミールのお母さんの前なのに、腰に手を回してきたりして! ただの下働きじゃないってバレるだろ!」
先ほどのやり取りを思い出して、怒りが湧いてきた。目を三角に吊り上げて、彼を睨みつける。
「私とただならぬ関係だということがバレて、何の不都合があるというのだ?」
「はあ? 何言ってんだよ……あるに決まってんだろ……?」
アロイスが何を考えているのかわからず、睨みつける視線は戸惑いで弱々しいものとなる。蒼い瞳を見上げてみても、意図が読み取れない。
「そうか、お前にとっては不都合な事実なのか」
蒼い目が伏せられ、長い睫毛がよく見えた。
寂しげに見えて何か答えようと思ったが、その前にアロイスの方が先に口を開いた。
「シリル、お前に聞きたい。エミールという男とはどういう関係だったのだ?」
「え、どういうって?」
なぜ突然エミールのことが話題に上がるのかと、頭の中が疑問符でいっぱいになった。
「お前はエミールの死を契機にして、塔の外を目指そうと王宮に忍び込んだのだろう? そんな衝動を生み出すなど、よほど……大切な存在だったのだろう?」
絞り出すような、小さな声だった。
どうしてアロイスがそんなことを気にするのだろう。疑問に思いながらも、答える。
「一番の親友だったからな。まあ、大切だったと思うよ。親方が殺された時に、復讐に走ろうとするオレを止めてくれたのも、エミールだったし。なんか、アイツがこの世のどこにももういないなんて実感が湧かないな」
話を差し向けられ、エミールとの思い出の数々が蘇ってくる。
小さい頃、よく二人で遊んだこと。楽士検査に合格して、彼が上層に行くことになった日の悲しさ。それからもよく下層まで遊びにきてくれたこと、人を小馬鹿にしたような物言いにムカついて喧嘩になったけど仲直りしたこと……。
「……そうか」
アロイスの表情は、目に見えて悄然としていた。一体どうしてしまったのだろう。
「なあアロイス、どうしちゃったんだよ。お前なんか変だぞ」
「変。変か。たしかに、私がアレコレと詮索する筋合いはないな。所詮私とお前は、王と楽士でしかないのだから」
「な……!」
所詮王と楽士でしかない。
なぜ、今そんなことを言い出すのだろう。まるで「本当は好意を抱いてくれているのではないか」なんて思い上がったことを考えていたのが、バレてしまったかのようだ。
彼の言う通りだ。
自分が外に脱走した時に我が事のように心配してくれたのは、自分が楽士だからに過ぎない。自分さえいれば塔のほぼすべてを暖められるのだ、いなくなれば痛手だろう。だから大事にしてくれている。それだけのことだった。
アロイスは自分に特別な想いなど、抱いていない。
友情を抱いてくれているから、あるいはもっと特別な感情、例えば好意を……なんて思い上がりかけた自分が恥ずかしい。
楽士であること。自分とアロイスとを繋ぐ接点は、それだけなのだ。
「わかってるよ、そんなこと……!」
彼が自分を抱くのは、自分が楽士だから。彼が少し優しくしてくれたぐらいで、勘違いなどしてはいけない。言葉とは裏腹に、ちっとも理解できていなかった。
涙が出そうなのを、俯いてぐっと堪えた。
二人の間に、沈黙が下りた。
「お掃除が終わりました。あらかた綺麗になったと思うのですが、いかが……おや? どうなされました?」
そこにエリクがやってきて、二人の間の気まずい空気に気がついた。
「なんでもない」
アロイスが答える。その答えに、エリクが顔を顰める。
「なんでもないわけがないでしょう! 陛下、王宮に戻ったらお話を聞かせていただきますからね!」
腰に手を当て、ぷりぷりとアロイスを叱りつけた。
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