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第26話 乗り越えるもの

 ジョスランの授業は、毎日あるわけではない。    授業がない日は彫刻をして過ごしている。毎日授業があってはシリルが疲れるからか、それともジョスランが忙しいからか。その両方かもしれない。    彫刻制作に没頭する一日を過ごした翌日、ジョスランの授業がある日が訪れた。姿を現したジョスランは、嬉しそうに笑っていた。   「なぜだかわかりませんが、この間読んだ古文書の内容について国王陛下に報告書の提出を求められまして。そのために王宮書庫への自由な立ち入りを認められたのでございます。おかげで大忙しでございます、ほっほっほ」    ジョスランは大忙しと言いながらも、顔がつやつやとしていた。五歳ほど若返ったように見えるくらいだ。書庫へいつでも立ち入っていいと認められたことが、よほど嬉しかったのだろう。   「どんな本を読んだんですか?」   「授業の前に軽くお話ししましょうかね。昨日は、王室の歴史が記された書物を読みましたよ」   「王室の歴史? なんだか難しそうですね」   「いえいえ、日記のようなものでございますよ。昔あった出来事が書かれていて、とても面白かったですよ」    日記のようなものと聞くと、少し面白そうに感じる。   「特に興味深かったのが、この塔がその昔一度崩れたことがあるという話でございます」   「え、塔が崩れた⁉ 大変じゃないですか!」    軽い口調から出てきたとんでもない出来事に、シリルは目を丸くさせた。   「ええ、とても大変なことでございます。あわや、全人類が死に絶えるところでございました。その時、当時の楽士が命を犠牲にすることで、塔が復活したそうなのです」   「楽士が命を犠牲にって、具体的にどういうことですか?」   「この塔には秘密の最上階があり、そこで国王陛下が儀式を執り行うと言われておりますが……なんと、その儀式場と対になる秘密の最下層の儀式場がこの塔に存在するそうなのです!」   「もう一つの、秘密の儀式場!」    秘密の最下層というワクワクする単語に、シリルは目を輝かせた。   「その儀式場で楽士が自らを捧げる儀式を行うと、楽士の命を代償に塔は再生したそうです」    塔は生命の神が創り出したもののはずだから、神の力を増やすことのできる楽士が身を捧げれば塔が再生するのも道理かもしれない。   「へー、今度秘密の最下層を探しに探検してみようかな」    下層には長らく住んでいたが、下の方のフロアは寒すぎてあまり足を踏み入れたことはない。下層が暖かくなった今ならば、探検してみるのも楽しそうだと感じた。    今度アロイスを誘ってみようかとつい考えてしまい、ズキリと胸が痛んだ。勝手に自分が期待して裏切られているだけだけれど、二人の子供を産むことができることを喜んでもらえなかったのは、いささかショックが大きすぎたようだ。しばらくは彼のことを考えただけで、表情が曇ってしまいそうだ。   「おやシリル様、どうなされましたか?」    どうやら顔色が曇ったのを見抜かれたようで、ジョスランに心配されてしまった。自分の表情は、わかりやすいのだろうか。    ジョスランにならば、思い悩んでいる心を零してしまってもいいかもしれない。ジョスランが特別信頼できるからとかではなく、アロイスとはまったく関係のない人だから。   「その……オレが馬鹿なのがいけないんですけれど。好きな人に、自分も好かれているとつい勘違いしてしまうんです、何度も。こういう思い上がりをしなくなるためには、どうしたらいいんでしょう?」   「おやまあ、恋煩いでございますか。私にはいささか眩しい話題でございますな」    シリルの問いに、ジョスランは微笑ましそうに目を細めた。   「ジョスラン先生は賢い人ですから、きっとそのような勘違いはなされないですよね?」   「まあそのような経験はたしかにございませんが、それは私が恋とは無縁の日々を過ごしてきたからですね。学問の道に邁進し続け、気がついたらこの年になっておりました。ほっほっほ」    ジョスランの朗らかな笑いに、心が少し軽くなるのを感じた。   「しかしもしも若い時分に想い人がいれば、私もシリル様と同じように思い悩んだであろうことは想像に難くないです。恋に思い悩むことが、愚かなこととは思えません」   「そうですか……?」    自分が下層出身で学がないから馬鹿なことを考えてしまうのだろうかと思っていたが、ジョスランに肯定されて自信が湧いてくるのを感じた。学のある人も恋に思い悩むものらしい。   「お疑いでしたら、今度の授業では詩人の遺した詩集など扱ってみましょうか。きっとシリル様にとって、身近に感じられる詩がいくつか見つかることでしょう」   「はい!」    シリルは元気よく返事をした。学問が心の助けになるものだということを、初めて知った。にこにこと古文書に齧りつくジョスランの気持ちが、少しだけわかった。   「それに現在のシリル様には知識が足りておりませぬが、頭の出来が悪いようには思えません。シリル様が相手に好かれていると何度か感じたのであれば、それは根拠があるのではないでしょうか?」   「そんなわけないです、絶対に相手の人はオレのことが好きじゃないんです」   「おや、それはまたどうしてそのように考えるのですか?」    質問されて、考えてみる。   「えっと、オレは教養も礼儀作法もないので相手の人と釣り合わないんです」   「それを理由に嫌っていると、お相手の方は仰ったのですか?」   「いいえ、そんなことは言っていませんでした」    下層民だから釣り合わないとか、楽士だから大事にされているだけではないかとか、全部自分の頭の中で考えたことだ。   「でもはっきりと言われたことはあります……自分とオレとは無関係だ、みたいなことを」    想い人がアロイスであることを明らかにするのがはばかられて、「王と楽士でしかない」と言われたことを濁して伝えた。   「ふむ」   「それに一度『好きだ』と言われたんですけど、直後にそのことを『忘れてくれ』と言われました」   「なるほど」    極めつけに、二人の間に子供ができる可能性があることを喜んでもらえなかった。アロイスは絶対に自分のことを好いていないだろう。   「私が受けた印象を、お話ししてもよろしいですか?」    ジョスランがゆっくりと口を開いた。   「はい」   「お話を聞いただけなので、シリル様が感じていることとは食い違うかもしれません。ですがお話を聞かせていただいた限り、お相手の方は少なくともシリル様のことをお嫌いではないように感じられます」   「嫌ってはいない……そうですかね」    少し前までは、少なくとも嫌われてはいないとシリルも信じることができていた。でも嫌いではないのであれば、子作りの相手に選んでくれてもいいではないか。見知らぬ相手との務めは、サボりたいくらい嫌だと言っていたのだから。   「シリル様は、その方に好意をお伝えになったことはあるのですか?」   「いいえ、あるわけありません」    好意を気取られたりしたら、軽蔑されるに決まっている。ましてやはっきりと口にするなんて、論外だ。   「好意を口にしてみたら、案外すんなり話が進むかもしれませんよ。もちろん、拒絶されることは恐ろしいでしょう。しかし、その種の恐怖は恋する者ならば誰でも抱いているものでございますよ。皆、その試練を乗り越えているのです」   「乗り越えるもの、ですか……」    自分の恋を仰々しく捉えすぎていたのだろうか。普通に恋をしている想い人同士が踏むべき段階すら踏んでいないと指摘されれば、そうかもしれない。   「今の関係が変わるかもしれないのは怖いですけれど、少し考えてみます」    自分が楽士だから、アロイスが自分のことを嫌っていても離れられないのだと思っていた。でもそれはつまり、告白して嫌われてもこの生活は変わらないということなのではないだろうか。   「ジョスラン先生、ありがとうございます! 相談に乗っていただき、心が明るくなれた気がします!」   「それはようございました。さて、それでは本日の授業を始めましょう」    シリルは明るい顔で、ジョスランの授業を受けることができたのだった。

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