27 / 32

第27話 予兆

 心が軽くなると、アロイスともいつも通りの表情で顔を合わせられそうだ。アロイスが執務を終えて戻ってくるのを待ったが、彼はいつまで経っても戻ってこなかった。   「シリル様、申し訳ございません。陛下は本日の執務が長引いているようでございます。先にご夕食を召し上がっていただきたく存じます」    エリクがやってきて、申し訳なさそうに伝えてきた。   「執務が長引くなんて、最近では珍しいですね」    塔が安定してからは、あまり忙しくなくなったと聞いている。でも、たまにはこんな日があるのかもしれない。シリルはさほど疑問に思わず、一人で夕食を終えた。    そろそろ寝台に入ろうかなと思っている頃合いになって、やっとアロイスは姿を現した。重い溜息と共に。   「アロイス、ずいぶん大変だったみたいだな」 「ああ、シリルか。そうだな、大変な一日だった」    疲れた表情で長椅子に腰を下ろした彼の隣に、シリルも座った。   「数日前、塔の壁に亀裂が入っているとの報告があった。臣下が確認したところ、たしかにヒビのような線が見て取れたそうだ」 「それが問題になっているのか?」    アロイスは、こくりと頷いた。   「今日になって、塔のありとあらゆるところから壁に亀裂が入っているとの報告が殺到した」 「え、それって結構大変なことなんじゃ? 一体、どうして?」    塔の壁にヒビが入っているだなんて、どうしてそんなことが起こっているのだろう。アロイスの力は回復して、塔は安定しているはずなのに。   「理由はわからぬ。ともかく、明日は報告があった箇所の視察に赴くつもりだ。塔の一大事に際して、王が又聞きの情報しか知らないでは示しがつかないからな」 「それ、オレも行きたい」    視察の話を聞き、ついていきたいとシリルは主張した。自分なんかがついていったところで意味はないと思うけれど、部屋の中でじっとしていることなんてできない。   「そうか、お前がいてくれるなら心強い」    彼が何気なく口にした言葉に、シリルは耳を疑った。自分がいても何もできないのに、心強いとは一体どういうことだろう。  やっぱり嫌われていない、と思っていいのだろうか。ぼうっと彼の顔を見つめてしまう。   「報告は中層に集中している。主に中層を見て回ることになるだろう」 「わかった」    今の言葉の真意を直接尋ねてみることは憚られて、ただ首を縦に振った。  翌日。下層や花鳥園に他出した日と同じく、シリルは着飾られた。エリクや護衛の兵士、それに加え複数名の文官たちも同行してアロイスとシリルは中層へと向かった。   「こちらが報告にあった場所の一つでございます」    住宅街フロアの壁面を、文官が指し示す。    アロイスの身長よりも高い場所に、ギザギザとした線が走っていた。線が壁面を走っているだけのヒビで、ヒビの向こうから寒い風が吹き込んでくるといったことはない。だが、こんな風に塔の壁にヒビ割れがあるのを見たことがない。初めての光景に、胸の内がざわつくのを感じた。   「思いのほか目立つ亀裂だな」 「数日前に報告のあった亀裂は、これほど大きくはございませんでした。民たちは、不吉の前兆ではないかと怯えております」    周囲に視線を走らせると、中層民たちは誰もが不安げな顔をしているように見えた。   「亀裂の入った壁は塗り固めるべきでございましょうか。それとも、原因究明のために残しておいた方がよろしいのでしょうか」 「すぐには結論を出せんな。あとで会議の中で協議しよう」    シリルは、儀式を除けば王として働く彼の姿を初めて目にした。仕事の時はこういう顔をするのだな、と感慨深く思った。  ヒビが入っているフロアを、次々に見て回った。伐採所が設置されている森林フロアも、その一つだった。    森林フロアの壁面にも、大きなヒビが入っていた。文官の一人が、いつからヒビが入っていたのかなど伐採所の担当者から聞き込みしている。伐採所の人は、シリルも顔を見たことがある人だった。自分の正体がバレるのではないかとドギマギして、つい彼らの会話に耳をそばだててしまう。   「昨日出勤した時にはもう、はい」 「それでは深夜に亀裂が入ったのだと?」 「そうだと思います。木も上手く成長しなくなった上に、不吉なヒビ割れまでできるなんて、一体どうしちゃったんでしょうか」    伐採所の人の言葉に、木が上手く育たないからと木材が高騰していると言われたことを思い出した。アロイスと出会う前のことだ。もうずっと前のことのように感じられる。あれから半年程度しか経っていないなんて、信じられない。   「すみません、また木が成長しなくなったんですか?」    つい、彼らに声をかけてしまった。   「え? またというか、半年以上前に上手く成長しなくなってから、ずっとそのままなのですが……」    返答に、シリルは目を見張る。    森林フロアの木が上手く成長しなかったのはてっきり、アロイスの王としての力が弱まっていたせいだと思っていた。    だが、そうではなかった。王の力が回復してからも、森林フロアの不調はずっと続いていた。もしその不調の原因が、今回の壁のヒビと関係があったとしたら? 異変の予兆は、半年前からずっとあったのだ。    シリルは、ぞっと顔が青褪めるのを感じた。

ともだちにシェアしよう!