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第1話
【カフェを始めました。良かったら来ない?】
そんな簡単な文面が書かれた葉書が届いたのは佐々乃天音 が会社を辞めて腑抜けた生活を送っている真っ最中のことだった。
「流路 ……?」
ものすごく驚いた。というのも如月流路 とは高校を卒業して以来、一度も会ったことがなかったからだ。今の一人暮らしのマンションは新卒で就職した後に借りたもので、当然彼に住所を教えた記憶など無かった。
それなのに、何故?
葉書の裏には、山あいに流れる川の周りを紅葉した木々が真っ赤に染める風景の写真があった。水面にも落葉が散って積み重なり、さながら紅い絨毯のようになっている。その美しい情景を見ていたら心が少し慰められる気がした。
一体、どこに流れる川なんだろう、と思ってもう一度表面を見ると、小さく〈Y県瑞澤川 〉と印刷されている。送り主の住所はY県瑞坂町 3008〉とあった。流路が今住んでいるところの近くなのだろうか。
スマホのマップで調べてみれば、随分とY県の奥地にあることが分かる。
Y県?天音は記憶の糸を辿った。
流路の口からY県のことを聞いたことがあるような気がした。誰だったか……母親の祖父だとか、親族の家がある?それがY県と言っていたような。
「『良かったら来ない?』って言われても……」
手紙が届いたくらいなのだから天音が地元である東京の大学を卒業し、そのまま都内で働いてることを知らないことはあるまい。いや、働いていた、だけど。今は無職なのだから。
スマホのナビでルート検索をしてみると、下道なら四時間以上かかりそうだが、高速を使えばそれほど時間はかからないことが分かった。
(え、俺、なんか行く気になってない?)
いや、まさか、そんな、と思ってみたものの、行かない理由も特に無いのだった。
今は無職で、一人暮らし。断りを入れなければならない恋人もいない。半年前に振られたのだ。大きな案件を抱えて忙しくてデートを三回連続ですっぽかしたのが直接の原因なのだけど、たぶんもうその前から関係は駄目になっていたような気がする。
天音と流路は高校三年で初めて同じクラスになった。185㎝と背が高い流路は、担任の指示でクラスでも一番後ろの席にいつも座らされていたのだが、始業式の日、たまたまクジ引きによる席決めで彼の前の席になったのが天音だった。
流路は目が悪いのにその日メガネを家に忘れて来たと言い、『なあ、黒板になんて書いてあるか教えてくれよ』と話しかけて来たのが仲良くなるきっかけだった。
流路はバレー部に入っていて、セッターとしてかなり期待されている選手のようだったが、バレーが強い大学に行く気は無さそうだった。
「オレ、本当は料理の専門学校に行きたかったんだよね」
春の終わり頃のある日、彼はそう言った。
「そうなんだ。なんで?今からでも専門にすりゃいいんじゃないの」
天音が不思議そうに答えると、
「いや、ここ進学校だろ。ほとんどのヤツが四大行くし、俺んちだって両親は当然四大に進んで普通に会社員になると思ってるんだよ」
「親に話して許可もらえばいいんじゃねえの?」
「当然もう話したって。あっさり駄目だって言われたよ。料理人なんて体力も根気もいるし、不安定だし、お前に務まるのかって。とりあえず四大は出ろってさ」
「ふうん……。でも、専門学校を出なくても料理人にはなれるだろ?」
「まあな。でも大学であんまり勉強したいこと無いんだよな〜」
「如月って割と頭良いんじゃなかったっけ。親はエリートになるのを期待してるんじゃないの」
「成績なんてちょっと勉強すれば上がるさ。勉強が好きなわけじゃないんだよな」
「へえ。贅沢な悩み〜」
そして結局のところ親の言う通り流路は偏差値が高く、大企業への就職率もずば抜けて高い大学に進学した。天音はもう少し下の偏差値のマンモス大に進学し、大学に入ってから二人が会うことは無かった。
それなのに流路がこうして意味深にも思える葉書を送って来たのは当然、例のあのことに起因しているのは分かっていた。
――いいよ、行ってやるよ。俺だってなんであのとき、あんなことになったんだか、理由を知りたいんだ。
そう決意してからすぐ天音はレンタカー会社のページを調べてネット予約を入れた。そして、手土産か何かを持って行かねばならないのではと気づき、百貨店のホームページを検索した。思えば、能動的に何かをするのは会社を辞めて以来久しぶりのことだった。
首都高を抜けて中央自動車道に入り、Y県に差し掛かった頃には、車が進むに連れ、だんだんと大きくなって存在感を増す富士山に圧倒された。子供の頃、父親に連れられて来て早朝から登り始め、途中頭が痛くて吐きそうになりつつも引き摺られるようにして歩みを進め、夕方近くになってようやく山頂に辿り着いたことを覚えている。
都会の景色がびゅんびゅんと背後に流れ、どんどん高い建物が見えなくなっていく。 木々や山々が視界を覆い始めて、徐々にここ二ヶ月ほど頭をどんよりと支配していた重い気分が晴れて来るのを感じた。雲ひとつない青空は澄み渡っていて、天音はとにかく爽快な心持ちになってきて、スマホから好きなバンドの曲を流し始め、いつしか曲に合わせて鼻歌を歌っていた。
流路には【分かった。今度行きます】と一言だけ、数年前に彼女とのデートで行った美術展で買った絵葉書に書いて返送しておいた。なにしろ流路から来た葉書には向こうの住所しか書いてなかった。今どきカフェをやるならホームページだって作っているのだろうから、そのアドレスを書くなり自分の携帯番号を書くなりしておけばいいものの、そういった情報は何も記されてなかったのだ。
しかし、住所をマップで調べたらそれらしき建物の写真は出てきた。二階建てのログハウスのような建物で、軽井沢や清里のような避暑地で今でも見かけるような、一昔前に建てられたどこか垢抜けないペンションみたいな造りではなく、それなりの建築士に依頼して新しく建てたのか、洗練されたデザインだった。
まだ出来たばかりのせいか店の名前や番号の情報はマップにも出て来なかった。何の具体的な連絡も無しに急に訪ねて行って果たして本人がいるのだろうか、と高速の途中で思ったが、もしいなかったら駅の近くのホテルにでも泊まって出直せばいい。時間は腐るほどあるのだから。そう考えて車を走らせ続けた。
高速を降りると急に何の商業施設も高い建物も周りに建っていない、一車線の国道に入った。道は整備されているが人は誰ひとり歩いていないし、行き交う車もまばらだ。見渡す限り田んぼが道の両側に広がり、四方に山の稜線が見える。
「すごいところでカフェやってんな…」
軽井沢からも遠く、富士山も通り越したこんな場所にお客など来るのだろうか。天音は首を傾げながらさらに細い山道に入って行った。ナビによると目的地の近くには湖とダムがあるらしい。そこに来る観光客がついでに立ち寄ったりするのだろうか。
〈このまま四キロメートル道なりで走ると目的地です〉というナビの案内を聞いて、それまでは至って冷静だったのに何故だか突然ド
ギマギしてきた。
葉書一枚届いただけで、高校を卒業して以来一度も会ってない、もはや友人でもなんでもない相手に急に会いに行くなんて。自分はやはりどうかしていたのではないか、という気持ちに急に襲われる。
高三で同じクラスになって友達になったのに、会わなくなったのはそれなりに理由があってのことだ。それなのに一体どのツラ下げてノコノコ会いに行くと言うのか。
流路だってもう自分のことなんてとっくに忘れているだろうと思っていたところに届いたあの葉書を見て、つい舞い上がってしまっていたのだ。
けれどもそう思った途端に疑問が湧いた。
舞い上がる?『良かったら来ない?』と言われただけで?
――まだ俺、あいつのこと気になってるのか?
天音は自分に問いかける。
いやいや、まさか。もうとうに記憶の奥底に仕舞い込まれていた名前だったのに。
山道は緩やかにくねくねと続く一本道で、たまに横に民家へと続く細い道が走っている。もう少しどこで曲がるか迷ったりするかと思っていたのに、ナビに従ってハンドルを切ると、あっさりスマホのマップで見た覚えのある建物が視界に入った。
時間は午後三時で、店の前のだだっ広い敷地には二台の車が止まっているだけだった。入口を通り過ぎるときにひっそりと木の看板が出ていることに気付いたが、一瞬のことで何と書いてあるかまでは分からなかった。
仕切るための白線も目印も何もない砂利の駐車場に車を停めようとして今さら迷い、はるばる何時間もかけてやって来たというのに(やっぱり帰ろうかな)という気分になってくる。一体、会って何を話すというのだろう。『久しぶり?元気?』か?
そうやって天音が逡巡してしばらく車をアイドリングさせていたためか、三十メートルほど先にある建物の扉が開き、人が出てくる気配がした。ハッとして顔を上げると、逆光の中、長身のがっしりした体格の男が目を細めながらこちらに歩いて来るのが見える。
気付かれた、どうしよう、と思って天音は慌てたが、ハンドルを握って固まっている間にどんどんその距離は近付いて来た。男は車の中の天音に気づいて(あれ?)という顔になる。そしてさらに足早になった。
「佐々乃……?」
ウィンドウ越しに声が聞こえ、天音は観念してボタンを押して窓を下げた。
「流路。久しぶり」
「佐々乃……!なんでここに……?」
「なんでって……。お前が手紙くれたんじゃないか」
「そうか、そうだったよなあ。返事が返ってきたから驚いてたんだけど……まさか本当に来てくれるなんて……!」
大きな身体を屈ませて窓から覗き込むようにしながら流路が顔を綻ばせた。嬉しそうな表情を見て歓迎されていることを知りつつも、
「なんだよ、来ちゃ悪かったか?」
と、天音は照れ臭さからなんとなく眉間に皺を寄せて口を尖らせた。
「な、わけないだろ!ほら、早く車停めろよ。どこでもいいから」
そう言われて、やたらと広い敷地をノロノロと運転し、大きなカーキ色のステーションワゴンの隣に停車させた。
エンジンを止めるといよいよ動悸がしてきた。喜ばれているのは分かるが、なんだかどう振る舞っていいのかまだ分からない。
車をゆっくりと降りると、グレーのシャツに黒いパンツ、その上にサロンタイプのエプロンをした流路が腰に両手を当てて笑顔で天音を迎え入れた。
「ようこそ、〈森の音〉へ」
「もりのね?」
「うん、それがこのカフェの名前」
店の中に入ると、そこには窓際でこちらに背を向けて一人の女性が座っているだけだった。何やらパソコンで作業していた彼女は、流路に続いて天音が店内に足を踏み入れるとくるりと振り返った。
「あれ、お客さん?」
「うん。昔からの友達が来てくれたんだ」
〈昔からの友達〉。何年も会っていなかったというのにまだそう呼んでくれるのかと、天音はチラリと流路の横顔を見た。
「あその女性とどんな関係かわからなかったが、とりあえず点音は自分から名乗った。女性とどんな関係かわからなかったが、とりあえず天音は自分から名乗った。
「あ、初めまして。わたしは澤木彩花っていいます」
ニコッと微笑んだ彼女は、なかなかの美人だった。肩に届かないくらいの長さの茶色かかったボブヘアーで、Tシャツにデニムというラフな格好だった。年齢は天音と流路より少しだけ歳上に見える。
「澤木さんは家業の傍らウェブデザイナーをやっててさ。今、この店のホームページを作ってもらってるんだよ。SNSをやるくらいでいいかなと思ってたんだけど、集客のためにはちゃんとしたページがあった方がいいんじゃないかって言われてさ」
「そう。ウチの家業はここらへんの飲食店に食材や調味料を卸す仕事をしてるんだけどね。こんなど田舎のカフェ、情報を流さないとまず誰も来ないでしょう?わたしが破格で引き受けてあげたの」
二人の間に流れる気安い雰囲気を感じて天音は思わず、
「あの……二人ってもしかして付き合ってたりするんですか?」
と、開口一番に聞いてしまった。
「ええ?違う違う!澤木さんは単に常連さんで、取引先の人だから……」
何故か慌てる流路に「何よ、如月くん。わたしとそういう風に見えたら不都合でもあるわけ?」と澤木が不服そうな顔をする。
「いや、そういうわけじゃないんだけど。ねえ?」
「ねえ、じゃないわよ」
やや本気で気分を損ねている様子の澤木を見て(流路はそうじゃなくてもこの人はもしかして……)と天音はつい二人をじっと見比べてしまっていたが、ハッと気づいた。
「や、ごめんなさい。なんか来た早々、不躾なこと聞いちゃって」
「いえいえ、気にしないで。確かに、わたしがよくこの店に入り浸って珈琲飲んだりしてるから、集落のおばちゃんたちにも冷やかされるのよ」
「そうなんですか」
まあそうだろうな、と思う。なんせ、周りには大自然しかなく、たまに歩いている人は農作業をしているおじいさんやおばあさんばかりで、そもそも人の気配が薄いのだ。
「まあ田舎だからな。そういう話にみんな飢えててちょっとしたことで噂したがるんだよ」
と、流路が肩を竦めた。
「そうなんだよね。若者がいないからフリーの男女がいるとすぐくっつけたがるのよ。やんなっちゃう」
そう言いながらもなんとなく澤木の口調は嬉しそうに感じた。特に人の感情に敏感なわけでもないが、これはやはり……と天音は密かに思う。
澤木の気持ちに気付いていないのか、それとも気付いているのに知らないふりをしているのか、流路は「やれやれ、お年寄りには困ったもんだよな」と笑った。
しばらく三人で世間話をしてから澤木は「あ、ごめん、親に夕方から受注の仕事手伝ってって言われてたんだった!」と慌てて帰って行った。
明るい雰囲気の澤木がいなくなって、急にカフェには静けさが訪れる。
店内は外の木材より一段階暗めのトーンの焦げ茶色に統一されていた。六人くらいが座れるカウンターに、ボックス席のように仕切られた四人がけのテーブルが四つ。
カウンターの向こう側にはキッチンがあり、その後ろの棚には陶器のカップとソーサーが並べられている。天音が半年前まで付き合っていた彼女は焼き物が好きで休日にはよく地方で行われる陶器市に連れていかれたりしていたので、それが萩焼だったり益子焼だったり美濃焼だったり……という様々な地方で作られた陶器だということが分かった。
「ウェッジウッドとかロイヤルコペンハーゲンみたいなやつじゃないんだね?」
カウンターに座った天音がついそう漏らすと、
「あれ、詳しいね。そう、そういういかにも海外の高級ブランドのものじゃなくて、こういう無骨でシンプルな、あったかい感じのする陶器の方がいいかなと思ってさ」
と、嬉しそうに流路が答えた。
「……うん、店の雰囲気に合ってるよ」
「そう?」
目を細めて顔を綻ばせた流路を見て、何故だかドキリとして視線をふいと逸らした。そしてすぐに〈ドキリ〉って何だよ?心の中で自分を問い詰める。
流路は当然のことながら高校時代より大人になっていた。あの頃から身長が高く、バレー部で自然と鍛えられた身体つきはがっしりとしていたが、あれから八年以上経ってさらに胸板は厚みを増し、肩幅も広くなった気がする。
そして当時は黒髪をただ短髪にしていて優等生的な雰囲気だったのに、今はサイドを刈り上げてトップの髪は少し長めに残したツーブロックのスタイルで、頭の後ろで結んで小さくひとつに纏めている。やや野生的で男性っぽい雰囲気が出て、同性の天音にも仄かな色気のようなものが感じられた。
天音はといえば高校時代から髪型はたいして変わっていない。今は前髪を長くし、マッシュルームっぽい形のショートヘアにしている。その髪型とどちらかというと童顔なせいか、二十六歳になった今も大学生に間違われることが度々ある。男らしさや大人っぽさという意味で流路との差が開いたように感じて、なんとも言えない気分になった。
「……ところでさ。さっきからお客さん来ないけど、ここの店って今、営業してんのか?」
ドギマギしている気持ちを悟られないように、わざとぶっきらぼうに天音は尋ねた。
来た時に停まっていたワゴン車は流路のもの、軽自動車は澤木のものだったらしい。着いて一時間以上は経ったが、それからまだ他に客は訪れていなかった。
「まあ開店休業って感じ?お客さんがもし来たら食べ物でもデザートでも、何か出すことは出来る」
「ええ?そんなテキトーなことで大丈夫なのかよ?」
「まあ、半分趣味みたいなもんだからなあ」
「……てか、流路、今までどうしてたわけ?ずっとカフェの準備してたわけじゃないんだろ?」
「話せば長くなるけど聞きたい?」
「そりゃあ、まあ」
「ま、いいよね。時間があるから佐々乃も来てくれたんだろ?」
「うん、まあ。時間は持て余すほどある」
「じゃあいっか」
そう言って流路はカフェを開くまでのことを掻い摘んで話し始めた。
高校の頃に料理人になりたいと言っていた流路は結局、都内の私立では偏差値が一、二を争う大学の経済学部に進学した。そこまでは天音も知っていた情報だ。
「そういや、覚えてるわ。流路、慶明大に受かったっていうのにあんまり嬉しそうな顔してなかったよな」
「……ああ、知ってたのか。そう、第一志望は専門学校だったからなあ」
卒業式の日、「如月は慶明大なんだろ?おめでとう!」と言うクラスメイトに「うん」とだけ答えて流路がどこか寂し気に微笑むのを天音は教室の離れたところから見ていた。
そのときにはもう二人は以前のように親しくしていなかったから、流路の冴えない表情に気づいても話し掛けに行くこともしなかった。
流路は大学ではバレーをまたやっていたが、実業団に入るだとかプロになるだとかそういう目標もなかったので三年の秋で引退した。
そしてインターンを経ていくつかの企業にエントリーし、すんなりと証券会社に内定をもらって、そこに入社したという。
「え、料理人になりたいってのはどうなったんだよ?」
「親がとりあえず一度は就職しろってうるさかったんだよ。せめて三年、社会人経験を積めって言われてさ。だから、三年頑張って、辞めた」
「辞めたって……そんなあっさり。外資系の一流企業だったんだろ?」
「うーん。確かに割とオレ、その仕事には向いてたみたい。結構お客さんにも利益を出させてあげられたし、給料もどんどん上がってさ」
「それでよく辞められたなあ」
「うん。会社にも貢献したし、かなり貯金も出来たし……通帳見せて、親を説得したんだ。もしダメだったらまた証券マンに戻るから、しばらく好きにさせてくれって」
「通帳って……。一体いくら稼いだんだよ?」
「まあ、この建物をキャッシュで建てて……元々ここは母方のじいちゃんが持ってた土地だったから建物の建築費用だけで済んだんだけどさ。その費用プラスあと一年か二年はお客が来なくてもやっていけるくらいは稼いだかな」
「マジで?すげえな、流路……」
確かに高校の頃から流路は何事においてもソツがなく、賢くて要領が良かった。本人は決してそんな自分の事を誇らしく思ってはいないようだったが。
「いや、器用貧乏なだけなんだよ、オレなんて。その代わりその証券会社にいた三年間はほぼゾンビみたいなもんだったな。大きな金が動くときは何日も一睡もできないこともあったし、海外の市場を見るために徹夜で会社に泊まり込んだりもしょっちゅうだったし。マトモに人付き合いも出来てなかった」
「そうか……大変だったんだなあ」
しみじみ天音が言うと、
「佐々乃も……。きっと、大変だったんだろ?」
と、何かを察したように流路が言った。
「そう見えるか?」
「……なんとなくな。じゃなければ大型連休でもない六月のこんな時期に、こんなド田舎にフラっと来たりしないだろ?」
「鋭いね。まあ、俺も色々あった」
「教えてよ、それも」
「まあ、それはまたおいおい、な」
天音が言葉を濁すと、それ以上追求せずに流路は頷いて続けた。
「オレ、中学生の頃から料理人になりたかったんだ。父方のじいちゃんが日本料理の板前だったんだよ。子供の頃はよくじいちゃんの店で飯を食わせてもらってた。従業員に出す賄いみたいなもんだったけど凄く旨かったんだよ。天ぷら茶漬だとかカツ丼だとか、何でもパパっと店の冷蔵庫にある材料で作ってくれてさ。料理人ってかっこいいなって、憧れてたんだ。ただ、高校に上がる前にじいちゃんは亡くなって、店は一番弟子の人に譲ったんだ」
「だから専門学校で料理習いたいって言ってたのか……」
「そう。じいちゃんが生きてりゃ、味方になってくれたのかもしれなかったんだけどな。親父はどうもじいちゃんと仲があんまり良くなかったみたいでさ。じいちゃん、オレには優しかったけど親父やお弟子さんたちには厳しい人だったからね。親父はバリバリの銀行員だし……オレが料理人になりたいって言うのもじいちゃんの方を尊敬してるみたいでイヤだったみたい」
「なるほど、だから余計に反対されてたんだな」
「うん。けど、オレがちゃんと就職して結果も残したのに、やっぱりカフェやりたいとか言い出してさすがに親父も呆れて諦めたみたいだね。ダメだったらちゃんとまた就職しろとは言われたけど、オレはビジネスマンってやつには向いてないみたい。仕事はできるけど、精神的には向いてないんだ。全然楽しくなくてさ」
「……うん、分かるよ」
天音も広告代理店で四年近く働いてみてよく分かった。大きなプロジェクトが成功したときだとか難しいプレゼンが通ったときだとか、仕事は充実していて楽しいと感じることもたまにはあったが、概ね苦しかった。辞めることになったのも、実は結局のところ自分が辞める理由を探してのことだったのかもしれない。
「佐々乃は……今、働いてないんだろ?」
「分かる?失業中だし、まだ就活もちゃんとしてない」
「そりゃそうだろうな、こんな時期にぶらぶらしてるんだから。なんか、顔色も良くないしさ」
「え、血色良くない?俺」
「うん。なーんか、疲れてるように見える」
そうか分かるんだな、と天音は思った。やはり流路は観察眼に長けている。たぶん澤木の気持ちにだって本当は気付いているのだ
ろう。
「最近、ロクな飯も食わずに家でゴロゴロしてたからなあ」
「今日は昼飯食ったのか?なんか作ってやろうか」
そう言われて、自分が空腹なのに初めて気付いた。時間はもう十六時過ぎになっていて、高速に乗る前にファストフード店で軽く昼食を取ってから何も口にしていなかったのを思い出した。もしかして流路に会う緊張感が勝って腹が減っていることに意識が向かなかったのかもしれない。
「マジ?何が作れるの?」
「もちろん。たぶん、材料があるものなら何でも作れるよ。チャーハン、オムライス、天津飯、親子丼とか……はは、何でもって言いつつ卵料理が多いか?あとはハンバーグとかも冷凍してあるし……甘いものがいいならパンケーキとか。サンドイッチとかでもいいぞ」
「すげえ。本当に何でも出来るじゃんか。そうだ、料理は結局どうしたんだ?習ったのか?」
「ああ。高校の頃から自分で料理はするようにしてたし、大学でも一人暮らしだったから自炊して、飲食店でもバイトしてたし……。
去年の春に会社を辞めて、店の準備しながら上野にある洋食屋と居酒屋を掛け持ちして半年くらい働いたんだ。だから洋食とかツマミならたいていのものは作れるようになった。本当はじいちゃんが生きてるうちにちゃんとした日本料理も習えれば良かったんだけどな……」
「ちゃんと就職してたのに、急にフリーターみたいな生活送るのって大変じゃなかったか?」
「まあね。やりたいことだったから苦じゃなかったよ」
「そうか。流路は意思が強いんだな」
「で、何がいいの」
「じゃ……オムライス食いてえ」
「いいよ、オムライスね。それなら大得意。ケチャップとデミグラス、どっちがいい?」
「……ケチャップで」
「はい、かしこまりました」
笑ってそう言うと、カウンターの向こうで流路は冷蔵庫から卵や野菜、冷凍のご飯を取り出して手際よく作業を始めた。素早い手つきで魔法のように細かく野菜が刻まれ、ケチャップライスが炒められるのをカウンター越しに天音は見入った。そして、バターとケチャップの芳しい匂いが鼻先に漂ってきたときには、ぐうぐうと盛大に腹の虫が鳴り始めていた。
「はい、おまたせ」
たった二十分くらいで出て来たそれを天音はしげしげと眺めて「すげえ、プロみたい」と呟いた。猫の目のような形に整えられた薄焼き玉子の黄色に真っ赤なケチャップが映える、老舗の洋食店で見るような昔ながらのオムライスだった。
「いや一応、店やってるからにはプロだから……」
「まあ、そっか。いただきまーす!」
「はい、どうぞ」
まるで作り物のように綺麗な黄色をした玉子にすっとスプーンを入れると、中から赤く染まったケチャップライスが顔を覗かせる。一口
掬って口に入れると、何とも言えない芳醇なバターの風味が口の中いっぱいに広がり、内側が少し半熟になってトロリとした玉子がライスに絡まって、舌の付け根がキュっとなるくらい口腔内を甘く刺激した。
「……うまい」
心の底から天音はそう言った。ここのところ ――会社を辞める何ヶ月も前から、そして辞めたあとも――何を食べてもあまり美味しいと感じていなかったことに気付いた。
しみじみと一口一口を噛み締めている天音に「なんだなんだ。最近そんなにもマトモなもの食ってなかったのかよ?」と流路が笑った。
「うん。飯があんまり喉を通らなかったんだ」
「……そうか。ここにいる間は、オレが旨いもん、食わしてやるよ」
「え、俺、今日帰ろうと思ってたんだけど」
天音は流路の言葉に目をぱちくりさせた。
「え、何?佐々乃、わざわざこんなとこまで来てとんぼ返りするつもりだったのか?」
「ああ。なんとなく、流路の顔が見れたらいいかと思って来ただけだったから……」
オムライスを掬いながらそう言うと、流路は天音をじっと見て「はぁ……」と溜め息を吐いた。
「なあ、佐々乃。もうそろそろ暗くなって来るし……とりあえず、今日、泊まっていけば?」
「え」天音はまたドキリとした。「泊まってく、つっても……」
「この店の二階にオレ、住んでるんだ。ゲストルームがひとつあって、ベッドもある。そこに泊まれよ」
「いや、悪いし……」
「ぜんぜん悪くない。というか、オレが佐々乃ともうちょっと話したい。どうせヒマなんだろ?ダメか?」
流路に曇りのない瞳でじっと見つめられて、なんだかまたドキマギして来る。過去のことを思い出して少し意識してしまっているのはこちらだけで、たぶん流路は何とも思っていないだろうに。
食べるのに集中しているフリをして、「じゃあ……今日は泊らせてもらおうかな」と、できるだけ何でもないことのように天音は答えた。
「ほんとか?じゃあ、ちょっとオレ、上の部屋、整えてくるわ」
「え、そんな、テキトーでいいし……」
と天音は言ったが、嬉しそうな顔をした流路はさっさとカウンターの奥へと歩き、居住スペースへと続くらしき扉を開け、トントンとリズミカルな音を立てて階段を昇って行ってしまった。
取り残された天音はぽかん、として食べる手をしばし止めた。
あいつ。なんであんな嬉しそうにすんだよ……。
(まさか。まさかとは思うけど。まだ、俺のこと、好きだったりするのか……?)
天音は高校を卒業してから何年も押さえつけていた記憶の扉が久しぶりに開きつつあるのを感じた。
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