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第2話

 前後の席に座る天音と流路は暇さえあればくっちゃべっていた。今となっては一体何が面白くてそれほど盛り上がっていたのかもほとんど思い出せないのに、とにかく流路と話すのが楽しかったのだけは覚えている。  中学から引き続きバドミントン部に入っていた天音は、高二の途中くらいからほぼ幽霊部員になっていた。全国大会を目指すでもない緩い部だったので、たまに気が向いては顔を出して身体を動かしたりするようないい加減な態度だったが、誰にも怒られなかった。  体育館に行くといつもネットで仕切った隣のコートで男子バレー部がコーチに檄を飛ばされながら激しい練習をしていて(あっちの部でなくて良かったな)と何度か思ったものだ。  だから高三で流路と同じクラスになったとき、身長が百八十五センチと高いのも当然目についた理由だが(ああ、いつも隣のコートで練習してる奴だ)と気付いた。真剣な瞳でボールを追う姿がなんとなく印象に残っていたのだった。  同じクラスになって日が浅いある日、「バレー部ってしんどそうだけど、楽しいの」となんとなく天音が尋ねると、「ああ。身体動かすのっていいぜ。ていうか、佐々乃だってバドミントン部じゃん」と言われて驚いた。 まだどの部活に入っているか話したことなどなかったからだ。 「え、よく俺がバド部だって知ってたな?」 「……ああ、だって、隣のコートで練習してるじゃないか」 「けど、俺、あんま部活出てないんだよ。せいぜい週に一度行くか行かないか……」 「そっか。だから、いない日の方が多かったんだな」  そのとき天音は「如月って記憶力いいんだなあ」などと笑って済ませたが、今思えば流路は天音のことを三年で同じクラスになる前から知っていたのだ。それが何故か、なんてその頃は考えてみたことも無かったけれど。  ともあれ二人は朝登校すれば他愛のない話をし、自習の時間が来れば勉強も大してせずにまた喋った。  文系クラスのくせに英語があまり得意でなかった天音は、自習時間や部活が無い放課後、よく流路に文法や長文の読み方を教えてもらっていた。 「なあ、流路、この文の中にくるwhichと文頭に来るwhichの違いって何?」  いつのまにか天音は流路のことを呼び捨てで呼んでいたが、流路はずっと天音を〈佐々乃〉と苗字呼びしていた。 「ええ……?そこから……?」 「だって、よく分からん」 「はー……。あのなあ、まず疑問詞と関係代名詞っての、あるの分かるか?」 「関係代名詞ってなんだっけ」 「佐々乃、よく文系の学部を受けようと思ったな……」 「うるせー。俺は理系も苦手なんだよっ。国語と日本史は得意なんだ」 「……なるほどね〜」 「流路はいいよなー。バレー部で県大会出たりしてちゃんと活動してるし、勉強もできるし、慶明でも早佐田でも楽勝じゃん」 「……別に楽勝でもないよ」 「まあ、お前は本当は専門学校行きたいんだもんな。専門行くならそんなにも勉強しなくていいんだろ?その余った学力、俺に分 けてくれよ〜!」 「ばーか、自分で頑張れよ。あ、ちょっとオレ、トイレ行ってくる」 「おう、いってらっしゃい」  流路がいなくなると「英語わかんねー」と天音は机に突っ伏した。「英語できたら俺も慶明に行けたのかな……」  そうひとりごちている間に、どうも天音はうとうとしてしまっていたようだった。自分でそれに気付いたのは頭の上に誰かの大きな手がそっと乗せられ、くしゃりと撫でられる感触があったからだ。  うつらうつらしている中で記憶が混沌として、子供の頃に保育園で描いた絵が褒められて父親に撫でられたときの嬉しさが胸に蘇ってきた。けど、俺はもうそんな歳でもなくて、ここは家の中でもないのでは?学校の教室なのではなかったか。じゃあ今、頭を撫でているのは誰だ――?  ハッ、と目を開けたときには手のひらの感触は遠ざかっていた。がば、と身を起こすと、驚いた様子の流路と目が合った。 「……ねえ、お前、さっき俺のこと触った?」 「ん?……あ、ううん、なんか、髪の毛に糸くずみたいのが付いてたから、取った」 「……そっか、ありがとう」  天音は寝ぼけていたわりにはきっとそれは嘘だということが分かった。流路が自分の頭を撫でていた。なんとなく、たぶん、愛おしそうに。  そのまま何事もなかったかのように二人は英語の勉強に戻ったが、帰り道の途中で流路と別れたあと、歩きながら教室でのことを反芻したら天音は急にドキドキして来た。 (なんだ?あいつ。どういうつもりで……)  どういうつもり、なんだろう。考えてみてもよく分からなかった。というか、いや、まさかな、と思って、そのまさかの考えは打ち消したのだった。  夏休みに入って本格的に受験勉強を始めた天音だったが、かといって一日中机に向かっていることも出来ない。しかし、夕方からは週に三回程度、夏期講習に通っていた。  勉強漬けの毎日に嫌気が刺して来た天音がリビングでゴロゴロしていると、 「そういえば来週、山ノ上町の花火大会ねえ」と、母親が話しかけて来た。 「んあー、そうだっけ?何日?」 「十八日じゃなかったかしら。あんたもゴロゴロしてる暇があるんだったら、行ってみたら?」 「えー?俺、一応、受験生なんだけど」 「そういう割にあんた、そうやって結構何もしてない時間多いわよね」 「ぐっ……。まあ、だって、勉強ばっかしてても捗らないし……」 「だから、気分転換にいいんじゃないの、って言ってんの」 「まあ、そうかあ」  まったく、変わった母親だなと思う。普通はこんな時期に遊びに行くなんて、と目くじらを立てるものなのではないか。まあ、一人っ子だというのに、のんびりした性格の天音には最初からあんまり期待していないだけかもしれないが。 「……花火大会かあ」  本当は彼女でもいればそれはそれは盛り上がるイベントなのだろうけど、天音は中三のころ付き合い始めた女子と高一で自然消滅して以来、彼女が出来たことはなかった。告白してきた子はタイプじゃなかったし、ちょっといいなと思う子はいつも彼氏持ちだったりした。  なので、友達のリストの中からなんとなく流路の名前を選んで誘いのメッセージを打ってみた。 【来週の十八日ってひま?花火大会があるらしいんだけど、行かね?】  流路は難関大を受けるのだし、きっと断られるだろうと思ったのに、【行く。何時?】と、すぐ返信が返って来た。 【六時半くらい?高校の校門の前で待ち合わせしようか】 【分かった。楽しみにしてる】  あっさり流路と行くことが決まった花火大会の当日、何故か張り切った母親に「そういえば、昔、マサシさんが着ていた浴衣をこないだクリーニングに出したのよね。あんた、着て行きなさいよ」と、紺色の生地に白いストライプが薄く入ったシックな柄の浴衣を出された。 「えー?一緒に行くの男友達だぜ?そんな浴衣なんて着てっても……」  天音はなんとなく気恥ずかしさも感じて拒否しようと思ったのに、 「いいじゃない、学校の女の子とも会うかもしれないでしょう?これ、割といい仕立てのものなのよう。あんたが使わなかったらもう誰も使わないんだから!お願い、着てみて」  と、懇願されて渋々着付けてもらった。母親は若い頃に着付け教室に通っていて、たまに腕試しをしたいのも本音らしかった。 「はい、出来た」  ぽん、と腰を叩かれ鏡を見ると、なるほど、なかなか風情があって良い。これが、女の子とのデートだったらなお良かったのだが。   下駄は古くて使えなさそうだったので仕方なく海外ブランドのサンダルを履いた。どのみち足元なんて皆見ていないのだし、いきなり履き慣れない下駄を履くよりはこちらの方がいいだろう。浴衣に合わせるバッグもなかったのでとりあえず小さなトートバッグに財布とタオルとスマホだけを入れて外に出た。  八月の夕暮れはまだまだ明るく、蒸すような湿気ですぐに肌が汗ばむ。浴衣じゃなくてやっぱりTシャツと短パンで来ればよかった、と半ば後悔しながら高校へ向かうと、同じような考えの者がたくさんいたようで、待ち合わせる生徒たちの姿があちこちにあった。その中に黒いリュックを肩に掛けて、白いTシャツとカーキのハーフパンツを着た流路が人待ち顔で立っていた。  なんだか自分だけ張り切って準備したようで恥ずかしさを感じつつも、 「流路!おまたせ」  と、天音は数メートル先から声を掛けた。すると、それに反応してパッとこちらを見た流路の顔がみるみる輝いた。  その表情の変化に(あ……)と、また天音はちょっとした違和感を覚えたのだった。 「佐々乃!すげえ、浴衣着て来たんだ?」 「……ヘンかな」  きっとそうだとは答えないはずだと分かっていたのに天音はそう言った。 「いや。すごく似合う」  流路のストレートな褒め言葉に天音は自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。でも、もう夕方できっと顔色までは分からないだろう、どうかそうであってくれと願った。 「……行こうか?」 「うん……」  それまでじっと天音を見つめていた流路は急にフイ、と顔を逸らして前を向いた。その背中を眺めて歩きながら、天音はまた鼓動が速くなるのを感じていた。   速足の流路のあとを付いて川沿いを歩いて行くと、やおら〈ドン!〉と大きな音が、鼓膜を破れるかと思うほどの勢いで叩いた。見上げると大輪の花火が頭上に咲き、キラキラと瞬いて散っていく。 「わぁ……」思わず天音は子供のように空を見て声を出した。 「キレーだな」 「うん、綺麗だ」  流路も空を見上げて言った。そして「なあ佐々乃、もうちょっと近くまで行こう」と、急に天音の手首を取って歩き出した。 「え」  流路の大きな手で手首を掴まれて引っ張られ、「ど、どこまで行くの」と言うと「もう少し川の上流で打ち上げしてるだろ。そこまで行けば、きっともっと迫力あるよ」と流路は手を離すことなく言う。 「うん……」  汗ばんだ手首はじっとりとしていて、同じく湿った流路の手の中で滑りそうになる。しかし、ぬるぬるしてともすれば離れそうになる手をしっかりと流路は途中で握り直した。  天音は胸が詰まって何も言えなかった。流路も腕をぐいぐい引いて先を歩くだけで何も言わない。人混みを流路は大きな身体でかき分けて歩いて行く。  やがて、川の上流の辺りに着くと【この先、打ち上げ地点のため立ち入り禁止】と看板が立っていて行き止まりになった。 「ここまでか……」  流路は残念そうに言ったが、天音の手首をまだ握ったままだった。 「そうみたいだね」  天音は言ったが、なかなか解放してくれない流路の手の熱さに鼓動が早くなってしまって、ただ俯いた。  完全に辺りが暗くなって来て、花火が〈ドン、ドドン〉と上がる音が頻繁になってきた。「あそこの木の下で見ようぜ」と流路にこちらを見て言われ、すぐに言葉が出なくてコクリと天音は頷く。  ここまで来ると人はまばらにしかいなかった。木の下に腰を下ろすと、ようやく流路は天音の腕を離した。  緊張で喉が渇いているのに気付いたが、屋台も何もかも通り越してまっすぐここまで来てしまったし、周囲には自販機もなさそうだった。 「あー、しまった、飲み物持ってくんの忘れた……」    天音は頭を抱えた。それを聞いた流路が、 「そっか、悪い。なんか途中で買えばよかったよな……。よかったらオレ、ペットボトルのお茶持ってるから飲めよ。まだ開けてなかったし」  と、リュックからボトルを出した。 「ダメじゃん、流路のがなくなっちゃう」 「半分ちょーだい」 「……二人で飲むのかよ」 「あ、割とそういうのダメなタイプ?」 「ダメじゃないけど……」  別にイヤなわけじゃない、けどなんだかつい意識してしまっている自分がおかしいのかもしれない。  ボトルを手渡されて、キャップを捻ってごくごくと飲むと「オレにもくれよ」と流路の手が伸びて来て奪われる。 「あ」と言っている間に流路もボトルに口を付けて何口か飲んだ。お茶を飲むたびに動く喉仏をいつしかじっと見つめてしまっていて、 それに気付いて目線を外した。  さっきから俺は何を意識しているんだろう、天音は思う。  ちょっと腕を掴まれて同じボトルに口を付けただけだ。受験勉強で碌に遊びにも行けず、部活も引退してしまったし、彼女もいないし――。もしかして欲求不満というやつだろうか。  チラリと横を見れば流路はじっと花火が上がっては散る夜空を見上げている。その横顔はやや丸顔で童顔の天音と違って、すっと伸びる鼻のラインも顎の線もゴツゴツとしていて男らしく、凛々しい。  こんなに見ていたら流路もこちらを向いてしまうかも、ということに思い至って天音も空を見上げた。打ち上げ地点が近いから〈ドン!〉という音も半端なく大きく耳に響く。だから、隣から話しかけられていることにしばらく気付かなかった。 「……さの」「ささの」 「……佐々乃!」  名を呼ぶ声が耳に届いてハッと横を向くと、思いのほか近いところに流路の顔があった。 「え、りゅう……」 「……きだ」 「え、なんて?」  流路の口元は薄暗くてよく見えず、花火の音で言葉がよく聞こえない。 「……だ」 「え?」  そう言ったときには流路の腕に左肩をグッと引き寄せられ、唇を重ねられていた。 「――⁈」  突然のことで天音の脳内はその瞬間、何が起こっているのか到底処理しきれなかった。   固まっている天音の肩に掛けた手にさらに力が籠められ、大きなもう片方の手で後頭部を抑えられた。最初は天音の上下の唇を躊躇いがちに喰むだけだったのに、隙間を見つけて濡れた舌が中に潜り込んで来るのが分かった。 「ンっ……んんっ……」  流路の大きくて分厚い舌が天音の薄い舌を捕らえて絡み取ったかと思うと、上顎の凸凹をぐるりと舐められ、ゾクゾク、と身体が震えた。 「ふ、ふぁ……りゅ……」  言葉を出そうとするたびに口が塞がれて妨げられる。自分の口腔のどこからか唾液がじわりと出てくるのを感じたが、それも舐め取られてしまう。 ――俺、流路に、キス、されてる。  そうやっと認識して、この手から逃れないと、と思うのだけど、筋肉が張って逞しい流路の腕を振り払うことが出来ない。 「ん……んん……」  絶え間なく舌を愛撫されて頭がぼんやりしてきてしまって、とんでもないことにジワリと腹の下あたりが熱くなるのを感じる。むく、と自分のそこが動くのを感じて、今度こそ慌てて天音はドン、と力を込めて流路の胸を押した。 「りゅ、りゅうじっ!なにすんっ……!」  ドン、と今度は拳で流路の厚い胸板を叩く。すると、 「……ごめん」  そう謝って、初めて自分のしでかしたことに気付いたかのように呆然とした流路の顔がそこにあった。 「な、なんで、おま……」 「聞こえなかった?」 「何が……?」 「……きだ」  また花火の音で語尾しか聞こえない。 「え?だから何て……」 「好きだ」  今度こそはっきりと聞こえて、天音は目をしばたたかせて流路を見た。花火の光に一瞬パッと照らされたその表情は思い詰めたように強張っていた。 「好き……?」 「……うん」  どうにかしてとぼけたかったけど、その意味はしっかり伝わってきた。さっきのキスの余韻が強くて『冗談言うなよ』と誤魔化したくても、そうすることもできない。 「……だって、俺たち――」 「オレ、佐々乃のこと好きだ。男同士なのにヘンだと思われるかもって、ずっと言えなかったけど――」  その日に待ち合わせたときには全く予想もしていなかった展開に天音は混乱し、戸惑った。  流路のことは友達として好きだ。そう。友達として――。  単なる友達だ、そう思うのにさっきキスされたときに自分の心も身体も流路に包まれてとろりとしていたのを自覚していた。俺、まさか、でも――。 「ごめん」  気付いたときにはそう言って天音は肩に置かれた流路の腕を振り払って立ち上がっていた。 「ささ……」 「帰るわ、俺」  流路に背中を向けてそう言うと、足早に天音は歩き出した。花火の上がる音の合間に「ささのっ……!」と叫ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。  今、振り返ってしまったら。俺は流路のことを受け入れてしまうかもしれない――。  それが、そのときはどうしても怖かった。  そこから二人は連絡を取ることもなく、夏休み明けに学校に行っても天音は流路の顔をまともに見れなくなってしまった。    一学期の終わりにあった席替えで、それまでは前後だった席も天音は廊下側の一番前になり、流路は相変わらず背が高いせいで窓際の一番後ろの席にされていた。だから避けようと思えば避けられたのだ。  対角線上から流路がこちらを度々チラチラ見ていることには気付いていた。けれど、天音は頑固に気付かないフリをした。流路の前に出て自分が何を言い出すか分からなかったし、流路の気持ちにどう答えるのが正解なのかも分からなくて、徹底的に向き合うのを拒否した。  そしていつしか流路は天音のことを諦めたらしかった。教室や廊下で擦れ違いそうになるときにはフイとあちらから目を逸らすようになったし、何か必要があっても人づてに伝えて来たりした。  一学期の頃は自習中のシンとした教室の中でも大きな声で笑い合ったりして白い目で見られたりしていたのに、新学期から急によそよそしくなった二人に気付いたクラスメイトに、「佐々乃って如月と仲良くなかったっけ?最近ツルんでないよな?」と聞かれたりしたけど、「ああ、席が近かったからよく喋ったりしてただけだよ」と笑って、なんということもない風に答えた。  その後は、今度は天音が流路をチラリと振り返ってみることがあっても、決して流路はこちらに視線を向けはしなかった。もともと真面目で静かな印象だった流路は受験勉強に真剣になっている様子で、クラスメイトを寄せ付けないような空気を放っていた。   そんないきさつがあったにも関わらず、天音はこうしてはるばるY県の奥地にまでやってきた。挙句に何故か泊めてもらうことになってしまった。  今の流路にあの夏祭りの夜に見た天音への強い気持ちは感じられなかった。まあ、それが当然なのだろうと思う。あれから八年以上も経ったのだから。  だから天音は流路があくまでも昔の友人として自分に接しているように、特に意識しないようにしようと思った。かつて二人の間に起こったことなど、すっかり忘れたという態度で。

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