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第3話

「ここ使って」と通された部屋はまだ誰も使ったことがないのか、真新しいパリっとしたシーツの匂いと、新築の建物特有の木材の香りがした。 「悪いな、なんか急に来たのに」 「いいんだ、使ってくれる人がいて嬉しいよ。……あ、でも佐々乃、今日帰るつもりだったなら着替えとか持ってないのか?」 「いや、もし遅くなったら高速沿いのカプセルホテルに泊まるか、道の駅にある温泉施設にでも行こうかと思って、一泊分の着替え は持って来たんだ」 「そっか、なら良かった。風呂、入るだろ?」 「いいのか?」 「ああ、自慢の風呂だから使って」  風呂場に天音を案内すると「ごゆっくり」と流路は引き戸を閉めた。  まるでちょっとした宿泊施設のように広い脱衣所だった。洗面台には大きな鏡があり、ドライヤーや男性用らしき化粧水やヘアワックスが鏡の横にある棚に置いてある。洗面台の前にはラタン製の椅子があり、その背後の棚の上に置かれた木製の籠には白いフェイスタオルとバスタオル、そして使い捨ての歯ブラシまで用意されていた。 「あいつ、ペンションでも始める気なのかな……」  限定一組しか泊まれないだろうが、やってやれないことはなさそうだった。風呂へと続く扉をガラリと開けて、ますます天音は「旅館かよ……」と驚いた。  直径二メートルほどの円形の、グレーの石造りの浴槽には温泉でも引かれているのか竹で作られた給水口からチョロチョロと湯が流れ込み、掛け流しになっている。浴槽から少し離れたところにはシャワールームが設置されていて、棚にはシャンプーやボディソープが置いてあった。  風呂の上はガラスの屋根で覆われていて、雨が降っていても浴槽に入ることができそうだし、もう少し暗くなれば星が見えるのかもしれない。そして、目の前には鬱蒼とした森が広がっている。 「すげえな…」  天音は感嘆してまたひとり呟いた。証券会社の営業で稼いだとか言っていたが、まさか悪どいことはしてないだろうな、と疑いたくなる。それくらい、それなりの財力が無いと作ることが出来なさそうな風呂場だった。    ゆったりと脚を伸ばしてちょうどいい温度の風呂に浸かり、うっかりするとウトウトして眠りこけてしまいそうだった。  会社を辞める少し前から――いや、たぶんそのずっと前から天音の身体は常に緊張していて、ゆったり安らげることなどほとんど無かった。  来てよかったな、心からそう思う。  高校の頃にあんなことがあったのを天音ははっきりと覚えていたのに、それでも葉書一枚の誘いでやって来たのは、どこかであやふやになってしまった流路との関係にはっきり決着を付けたいと思っていたからかもしれない。  けれど、たぶん拘っていたのは自分だけで、きっと流路の中ではあのことは若い頃の出来心的な想い出として昇華されているのだと思う。でなければ気軽に遊びに来ないかと誘ったり、飯を食わせたり、泊まって行けなどと言わないはずだ。  風呂から出てタオルを手に取ると「あれ」と声が出た。さっきは気付かなかったが、タオルの下に黒いスウェット地の部屋着が置いてあった。そういえば、着替えを持って来たとは言ったものの、寝るときに着る物など持っていなかったのだ。 「あいつ、気が効くなあ」天音は唸った。やはり、カフェをやって人をもてなそうというからにはこういう気配りが大事なのかもしれない。  ただ、その部屋着はさすがに新品ではなくて流路が使っているものらしく、サイズはXLだった。身長は百七十三センチで、完全に日本人男性としては一般的な体型の天音がいつも選ぶのはMサイズだ。着てみたら思い切りブカブカして服の中で身体が泳ぎ、体格差を感じて少し情けなくなる。  髪を乾かしてから、部屋着のボトムスのウエストを紐でギュッと絞って縮め、長い袖を腕まくりして「流路、ありがとう、風呂。お先に」と二階にあるリビングに入って声を掛けると、ソファに座っていた流路がこちらを見てパチパチ、と瞬きするのがわかった。  その一瞬の表情に(ん?)と若干の違和感を感じたものの、「すげえ風呂だなあ」と笑顔になって天音は言った。 「……ああ。ここらへん、温泉が出ててさ。引いてくる工事がちょっと面倒だったけど……なかなかいいだろ?」 「おう。すごい寛げたわ。ほんと、旅館に来た気分」 「よかった、気に入ってくれて」  そう言って流路は顔を綻ばせた。 「あ、このスウェットありがと。置いといてくれたんだよな?」 「うん。寝巻きは持ってないだろうと思って……。オレがいつも使ってるやつで悪いけど、ちゃんと洗濯してあるから」 「そういや、なんか流路の匂い、する気がするなあ、これ」  天音はほんのりと生地から漂ってくる香りにくんくんと鼻を動かした。 「あ、ごめん、臭かった……?」 「え、ぜんせん。なんとなくスパイシーな香り?がすると思ってさ。けど、お前ってタバコとか吸わないよなあ?」 「うん、吸わない。柔軟剤の香りかもな……」 「そうなのかな。でも全然イヤな匂いじゃないぜ?」 「そっか、なら良かった」  本当にホッとしたような口調で流路は言う。こいつってヘンに気ィ遣いなとこがそういえばあったなと、天音は懐かしく思い出した。 「佐々乃、なんか酒でも飲む?ビール、ワイン、スパークリングワイン、焼酎、日本酒……まあたいていのものはあるんだけど」 「じゃあ、とりあえずビール」 「了解」短くそう言って流路はリビングの脇にある冷蔵庫を探り、キッキンでごそごそし始めた。  そして、ほどなくして「おまたせ」と目の前にビールと共に枝豆やポテトサラダ、トマトとチーズのカプレーゼや胡瓜の漬物などが陶器の小鉢で出された。 「うわ、すげえ、居酒屋みたい」 「こんなので大袈裟だなあ。常備してるもんばっかだよ。店で付け合わせに出すこともあるし」 「へえ。なんか至れり尽くせりで悪いなあ」 「まあ、せっかくはるばる都内から来てもらったからね、これくらいは」 「そうか?ごめんな、手土産もたいしたもの持って来ずに。本当に会えるか分からなかったから……」 「いや、佐々乃が来てくれただけで十分嬉しいよ。……あんな葉書だけでさ」 「そうだよ、お前、なんも情報書いてなかったじゃん」  天音が口を尖らせると、流路は少しバツが悪そうな顔になった。 「まさか、本当に来てくれるなんて思わなくて……。ただ、元気かなって、そう思って、つい葉書なんて書いた。返事が来るなんて思わなかったんだ」 「そうなんだ。俺、暇だったから勢いで来ちゃったけど、良かった?」  流路は本気で誘ったわけでもなかっただろうに、割とすぐにここに向かう決意をした自分がなんだか恥ずかしくなって〈来たのは暇だったからだ〉と、そう聞こえるような言い方をついした。  それなのに、 「うん。ありがとう……また会えてよかった」  と、心の底から言うようにして流路が目を細めた。 「そっか……じゃ、来てよかったよ」  天音はその視線から目を逸らして、誤魔化すようにポテトサラダに箸を伸ばした。 「……あ、旨い」  何の気なしに摘んだのに思いのほか美味しくて天音は口の中でじっくりとそれを咀嚼した。じんわりと芋と肉の味が舌に広がる。 「だろ?それ、カリカリに焼いて黒胡椒を振ったベーコンを混ぜてあるんだ」 「へえ、普通はハムが入ってるくらいだもんなあ。初めて食べる味だよ」 「バイトしてた居酒屋で同じようなもの出してたんだ」 「なるほどね。お前、洋食屋とか居酒屋でほんとにちゃんと料理習ったんだなあ。さっきのオムライスも旨かったし」 「そんな簡単な料理で褒めて貰えるなんてこっちこそありがたいな。また明日の朝、なんか作るわ。別に早い時間に出発しなくてい いんだろ?」 「ああ、別に早く帰らなきゃいけない用事もないし……」 「じゃ、朝食も楽しみにしてて」 「うん、そうする」  気まずい関係のまま別れた流路とこんな風に穏やかに寛いで過ごせるなんて。来て良かったと改めて天音は思った。そして楽しくなって流路が出すツマミに合わせてビールだの、有機レモンを漬けたシロップを使ったレモンサワーだの、近所のワイナリーから貰ったとかいうワインだのをさんざん飲んで完全に酔っ払い、気づけばソファで眠りこけていた。 「……さの。ささの」と流路の呼び声が聞こえるのだが、意識が体の奥深くにあって返事ができない。『分かってるけど、頼む、このまま寝かせておいてくれ』と天音は心の中で流路に応える。 「どうすっかな……」と呟きが聞こえたが、またどろりとした眠りに意識が遠のく。そのとき、フワ、と身体が浮く感覚があった。 (……⁈)と驚いたものの、目は堅く閉じてしまっていて自分の意志で開けることが出来ない。  温かい体温と吐息を間近に感じ、がっしりとした腕に抱えられているのを意識の深いところで感じた。 (まじか。こいつ、俺のこと持ち上げられるんだ……)  バタン、と扉を開ける音がして、ほどなく冷たいシーツの上にふわりと横たえられたのが分かった。都内ではもう蒸し暑くて夜もエアコンを付けていたが、避暑地の瑞坂町の夜は涼しいらしく、少し肌寒いなと感じていたところにフワッと布団が被せられた。 「……おやすみ、佐々乃」  流路の低い声が耳に触れそうなくらい近くで聞こえた、ような気がした。 『おやすみ、ありがとう』と返したかったのにやっぱり意識は眠った身体の中に閉じ込められていて、言葉に出して言うことはできなかった。  真新しいシーツとフカフカの布団の感触に包まれて、そのまままた深い眠りに天音は落ちて行った。  目覚めて枕元にあるデジタル時計をふと見ると午前十時を過ぎていて天音はギョッとした。昨日は早い時間から酒を飲み始めたから、最後に時計を見たときにはまだ二十一時過ぎくらいだったのではないか?一体何時間、寝ていたんだろう。   朧げな記憶の中で、何やら昨日のことがモヤモヤと蘇って来た。俺、ソファで寝ちゃったんじゃなかったか?いつのまにベッドに入ったんだっけ……。 (ん?なんか……俺、流路に運ばれてなかったか?)  意識は朦朧としていたが、確かに流路の腕の中に包まれた感覚が二の腕に残っていた。天音とは違う、厚い胸板の感触も。  ――やば。  思い出したら何故だかドキドキして来た。けれどすぐに(だから何だよ、ドキドキって)とまた自分にツッコミを入れる。あいつは親切心で俺をベッドまで運んでくれただけだ。そのほかに意味なんてあるはずない。  そういえば朝食を作ってくれるとか言ってなかったか。店はお客が来る見込みはあまりないとはいえ、一応十一時にオープンすると言っていたような気がする。 唯一持ってきた黒いTシャツに着替え、昨日着てきたワークパンツを履いて、トントンと木の階段を降りて店に続く扉を開けると、何やら流路が料理をしているのが目に入った。 「……おはよ、流路。ごめん、昨日いつのまにか寝落ちしたあげく、こんな時間になってて……」 「ああ、おはよう、佐々乃。ちょうど今、朝メシ作ってたとこ。本当はもっと寝ててくれても良かったんだけどさ。開店してお客さんが来るとゆっくり話せなくなるし、そろそろ起こそうか迷ってたんだ」 「気を遣わせて悪りぃなあ。……けど、なんか、いい匂いする」 「卵、好きだよな?」 「うん、好き好き」 「エッグベネディクト作ってるんだ。今度、メニューにも加えようかと思ってさ」 「えー、あれって、普通に作れるもんな んだ?」 「そりゃあ、まあ。別に難しくないよ?酢を入れた熱湯に卵を落としてポーチドエッグを作るんだ。それが面倒といえば面倒かな。あとは、マフィンに焼いたベーコンとポーチドエッグを乗せてオランデーズソースをかけるだけだよ」 「へえ」    カウンター越しに目を遣ると、手際よく料理を作る流路の手元に見惚れた。 「うまいもんだなあ」 「……そう?」と、流路は嬉しそうな顔をした。そうだ、こいつのこの笑顔、仲が良かった時期はよく見たなと天音は懐かしく思い出す。そして二人の仲が気まずくなってからは、いつも教室では堅い表情だったことも。  やがて「はい、どうぞ」とハンドドリップで淹れた深煎りの珈琲とともにサラダが添えられたエッグベネディクトが出て来て、天音は「すげえ」と目を輝かせた。 「佐々乃、おおげさ。たいした料理じゃないから……」 「いーや。こんなの普通、食卓に出てこないぜ?それに、見れば分かるよ、いろんなとこに気を遣って作ってるんだなって……」  盛り付けられた白い陶器の皿は一見シンプルに見えるが、ゆったりとした楕円形でよく見れば縁が緩やかに波打つような形になっている。そこにイングリッシュマフィンに挟まれたピンク色のベーコンと卵黄で作った黄色いソースが映えていた。 「料理人になりたいって、本当だったんだなあ……」  あの頃は自分も子供だったから流路の言うことの真剣味を分かっていなかった。賢くて感じの良い流路なら、体力的にも経済的にも大変そうな職人なんかを目指さず、大企業の会社員になる方が似合っていると思っていたのだ。  しかし今、その楽勝だったはずのエリートコースを捨ててカフェを立ち上げた流路からは心の底から満ち足りている感じが伝わってきた。きっと、やりたかったことをやっと叶えたのだろう。 「あのとき、応援してやらなくてごめんな」 「え、いつのこと?」 「……高校の頃……料理の専門学校に行きたいって言ってただろ。俺はあんまりよく分かってなかったから軽く流しちゃったけど、きっと 流路に本当に向いてたのはこっちの道だったんだな」 「……うん。時間掛かったけど……。まあ、結果的には会社員で資金も稼げたしさ、社会経験も積めたし、良かったと思ってるよ」 「そうか。無駄なことなんてなかったんだな」 「……そんなこと、覚えててくれてありがとな」  流路は少し微笑んで言った。 「ああ。覚えてるよ」  覚えてる。そのことも、それ以外のことも、はっきりと。でも、今は――こんな朝日の中で美味しい朝食を出されて、込み入った話はまだしたくなかった。  そう、まだ。俺は帰るまでに流路にその話を出来るのだろうか?  開店のために仕込みを始めた流路の横顔を朝食を食べながら天音は盗み見た。  流路は今朝は髪は結ばずに耳に掛けていた。長髪というほどではないが耳の数センチ下まで長さがある。髪色は相変わらず真 っ黒だ。  白いロンTを肘まで捲っていて、その二の腕はともすればバレー部にいた頃より逞しく感じた。  泡立て器で生クリームをかき混ぜるその腕を思わずじっと見ていたのに自分で気付き、フイと目線を外して食べることに集中しよ うと努める。 「……佐々乃」 「ん、なに?」 視線に気付かれたかと、思わずビクリとしてしまう。 「今日、何時ごろに帰るの?」 「あ、ごめん、ゆっくりしてちゃいけないよな。もうすぐ開店の時間だし」 「いや、違う違う。ゆっくりしてって。あのさ、今日、パンケーキを試作しようと思ってて……。良かったら、ランチの時間が終わるまで待っ ててくれないかな?食べてみて欲しいんだ」 「え、いいの、まだいて」 「……そんなの、いくらでも居てくれていいよ。佐々乃が退屈じゃなければ」 「退屈なんかじゃねえよ。なんか、ここ、居心地いいし……。あ、そだ、じゃあ開店の時間になったら近所の散策にでも行ってみようか な?」 「うん、行って来なよ。買い物するような店は車で隣町まで出ないとほとんどないんだけどさ、近くに川があって……散策路の奥へ歩いて行くと滝があるんだ。高さがあって迫力があってさ、いい景色なんだよ」 「へえ。行ってみるわ」  時間なんてどうせいくらでもあるのだ。昨日はうっかり飲み過ぎて眠りこけてしまったし、まだ流路と腰を据えて話してみたいことが沢山あった。  食べ終えてゆっくりしていると開店の時間になり、駐車場に車が入ってくる気配があった。 「じゃ、俺、散歩したりしてブラブラしてくるわ。十四時くらいには戻って来ようかな」 「ああ。ゆっくり観光してって……つっても何キロ行っても自然しかねえけどな」 「自然ばっかで充分だよ。都会にはお腹いっぱいだし」 「そっか。気をつけて行って来いよ」 「うん」 「あ、そうだ、ちょっと待ってて!」  流路はそう言うと棚から保温できる水筒のボトルを取り出した。 「珈琲、持って行きなよ。熱いのがいい、冷たいのがいい?」 「え、いいの。じゃ、あったかい方で」 「分かった」  天音は流路が渡してくれた珈琲が入ったボトルと、財布とスマホだけをトートバッグに入れると、教えられた通りに店から少し坂を下ったところにある川沿いの散策路に入って行った。【瑞澤川ハイキングコース】と古い看板に書いてあって、ここがあの葉書に写っていた場所なのだと分かった。  木々が頭上を覆って木漏れ日が差し、森を通り抜ける風はそよそよと冷たく心地良かった。都内では梅雨の時期の今、それほど雨は降らなくても湿気でじめじめとして蒸し暑さが日々増していたが、ここは夏でも天然のカーテンのおかげで涼しいのかもしれない。  散策路の入り口にあった地図によると滝までは三キロほど歩くようだった。それくらい、と思っていたのに川沿いの細い道は木の幹がゴツゴツと盛り上がって歩みを妨げ、案外骨が折れた。  六月半ばの平日に山の中を歩いている人など他には誰もおらず、なかなか目的地が見える気配もなくて徐々に天音が不安になって来たころ、ようやく〈ザー〉という大量の水が流れる音が聴こえ始めた。  徐々に川幅が広くなってきて、水の音も大きくなってくる。角になっているところを曲がると突然、視界が開けた。   おそらく三十メートル近くある崖の上から大量の水が滝壺に流れ込んでいた。滝は思っていたよりずっと高さがあって、幅も広い。  さっきまでは〈ザー〉というような音だったのに今やゴウゴウと轟音とも言える音が耳に響く。水飛沫が岩に当たって弾け、細かくベールのように霧状になった水分が辺りを満たしていた。差し込む太陽の光に反射して時おり小さな虹が掛かっているのが見える。 「すげえ…!」  やはり誰も他にいなくて、滝の圧倒的な存在感が怖さを感じさせるほどだった。天音は滝壺の脇にある平たくなっている岩の上に、静かにそろそろと腰を下ろして胡坐をかいた。細かな水滴が粒になって髪の毛や肌に降ってきたが、それが気持ち良かった。  しばらくぼうっと滝を眺めたままだったが、ふと思い出してトートバッグからボトルを取り出した。蓋がコップになっているタイプのものだ。熱いものを飲む時には直にボトルに口を付けるタイプよりこういう方が飲みやすい。  気を遣ってくれたのかなとも思ったが、そういえば直に口を付けるタイプのものだと流路と共有することになるのだ、ということに思い至った。さらにそれは、高校の頃のあの夏祭りの夜のことを思い出させた。  すっかり忘れたつもりになっていたのに、流路の舌が自分の口の中にぬるりと入って来たときの生々しい感覚が急に蘇って来て、天音はゴクリと喉を鳴らした。  何、思い出してるんだ、俺は。あんなの、若い頃の悪ふざけみたいなもんだろ――そう思いたかったけど、あまりにもあの瞬間の流路の眼差しも、天音の肩を掴む手も、熱くて強かった。  目の前の、天音を欲している眼だった。  湧き上がってくる唾液を流すように幾度も珈琲が入ったコップに口を付けた。やばいやばい。何を思い出してる。何、考えてんだ。  そして、精一杯考えないようにしていたが――やはり何故、流路は天音を誘うような手紙を寄越したのだろうか、と、また思考はそこに戻ってしまう。  キスをされた自分が昨日のことようにあの感触を生々しく思い出せるくらいなのだから、あんな切羽詰まった顔で唇を貪ってきた本人がすっかり忘れているなんてことはあるまい。  天音はそっと自分の唇を指で触った。さっき滑らかに動いて料理を作っていたあの大きな手が、長い指が天音の肩を抱き、頭を押さえ付けた。優しく低く響く声を出すあの唇が、天音の唇を甘噛みし、舌が口腔内を舐め取った。 「あ、やば……」  思わずぞくぞくとしてきてしまって、天音は下腹を押さえた。やばい。だから、何考えてるんだ、俺はこんなところで。変態か。  だいたいあいつがいけないのだ。あいつがあの夜、キスなんてして来なければ――。  やはり、早く帰った方がいいのだと天音は思った。流路が口に出さないならあの夜のことももう心の中だけに留めておいた方がいいのだろう。  自分から余計なことを口走ったりしてやぶ蛇にならないうちに、また都会のひとり暮らしの部屋に帰ろう、そう心に決めた。

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