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第4話
ぼんやりと滝ばかりを見て、気付けば一時間以上経っていた。腹はまだ減っていない。一旦店に帰って車を出してどこかへ出かけようかと十三時近くに敷地に戻って来ると、何台もの車が停まっていて驚いた。しかし、そのほとんどが白い軽トラか古びたワンボックスタイプの車だった。
なんだなんだ?何かそんな大人数の予約でも入っていたのだろうか、と店の中に入ると、六十代から七十代に見える年配の男性たちが三つのテーブルに分かれてざっと九人ほど座っていた。
天音が入って来て「おや?」という顔をする者もいたが、すぐにガヤガヤと大声のお喋りに戻って行く。
「え、大丈夫、流路?」
天音は思わずカウンターに入り込んで忙しく立ち働く流路に小声で尋ねた。
「たまーに、こうして一気に常連さんが他のお客さん引き連れて来たりするんだよなあ……。まあ、みんな時間が掛かることは分かってくれてるから大丈夫」
「いや、でもさあ。一気にこんな人数を一人で……。なあ、俺、なんか手伝うわ」
そう言って天音が手をゴシゴシと流しで洗い始めると流路は慌てた。
「いや、いいって。天音もお客さんなんだから……」
「いいって、俺は暇なんだから。あと、飲食店で働いたこともちょっとあるんだ。ま、ファミレスだけどさ。簡単な手伝いくらいなら出来るから、言ってよ」
流路は手を止めて迷うような顔をしていたが、「ほら、早く。待たせてんだろ。なんか、指示くれよ」と言うと、「ごめん……じゃあ、朝食に使ったのと同じ白い皿を四つ並べてくれるか。あとはその皿の隣にあるサラダボウル出してくれる?で、そこにサラダが盛ったザルがあるから、適当に皿とボウルに盛り付けて欲しいんだ」と遠慮がちに頼んできた。
「オッケー。あ、エプロンとかあれば貸してよ」
「そこの引き出しにサロンが入ってる。……ありがと、佐々乃」
「それくらい、別に。さんざん食わせて貰ったし」
天音は焦げ茶色のサロンを腰に巻くと、サラダの盛り付けに取り掛かった。
「なあ、オーダーって何と何」
「ハンバーグプレートが四つと、スパイスカレーが五つ」
「カレーってあっためるだけでいいの」
「うん、そこにカレーを冷凍したタッパーがあるから、一旦レンチンして少しだけ溶かして、そのあとゆっくりフライパンであっためるんだ。急いで火を入れるとスパイスの風味が飛んじゃうから……」
「分かった、俺はそれをやる。流路はハンバーグ焼いててよ」
「うん、ありがとう。頼んだ」
ここ数年、ほとんど自炊などしていなかった天音だが、身体を動かすうちにファミレスで軽い調理や盛り付けなどをしていた記憶が手元に蘇ってきた。急に頼まれたことだからと言って手を抜かないようにしなければならない。流路の信用に関わることなのだから。
ゆっくりとカレーを温めていると、クミンやコリアンダーのようなスパイスが何種類も混ざっているのであろう、芳しい香りが鼻をくすぐった。さっきは腹いっぱいだと思っていたのに急に胃が収縮してくる。
「カレーはどうやって盛ればいいの」
「そっちの炊飯器にサフランライスが入ってるから、隣に置いてある楕円形の型に一杯分よそって皿に裏返してくれる?で、スパイスカレーをその周りにレードル二杯分盛り付けて。あとはあそこにあるピクルスとゆで卵を添えてくれるかな」
「分かった」
指示通りに盛り付けると、「佐々乃、上手いな」と褒められる。
「えー、盛っただけだぜ?」
「それだけのことでもセンスってあるなし分かるもんなんだよ。ちゃんとバイトしてたんだな」
「へへ、そうかな」
流路のヤツめ、人を使うのが上手いな、と思いつつも褒められると満更でもない。
「これで完成か?」
と言うと、流路はパラパラとパセリを細かく刻んだものを皿に振りかけ、「悪いけど、席まで持ってってもらってもいいか?」と言う。
「もちろん」と、まず手前のテーブルにスパイスカレーを二人前運び、またカウンターに戻ると残りの三枚を奥のテーブルへと運んだ。
「あれ、兄ちゃん、ここの新入りかい?」
農作業でもやっていた途中なのか、首にタオルを掛けて真っ黒に顔を陽灼けした客のひとりが声を掛けてくる。
「いや、僕は彼の友人で、たまたま昨日から遊びに来てて……。忙しそうだったんで手伝ってるだけです」
「そうかい。まあ、そうだろうな、こんな客がなかなか来ない店、従業員なんて雇えねえわなあ」
がはは、と同席のじいさんたちと顔を見合わせて笑うその人についムっとして天音は言った。
「そのうち、きっと人気の店になりますよ。ここの店の料理、何でも美味しいから」
「店のヤツが言ってりゃ、世話ねえわなあ。けど、たしかに旨いよな。だから、俺ら、たまに来ちまうもんなあ」
「ま、いつも一気に押しかけちまうから急に忙しくさせて悪りぃんだけどなあ」
「けどこんなハイカラなもんが食える店、ここらへんにはなかなかねえからな」
じいさんたちはまたガハガハと笑いあっている。悪い人たちではなさそうでホッとした。
「ごゆっくりどうぞ」と言って天音がカウンターに戻ると「悪いな、佐々乃。常連さんたちの相手までしてもらって……」と流路は申し訳なさそうにする。
「いや、別に。俺、営業やってたからおっさんたちには慣れてるし」
「頼もしいな。じゃ、悪い、ハンバーグも持ってってもらっていいか?」
「人遣い荒いじゃんか」
「あ、ごめん、甘えすぎか?」
「嘘だって。行ってくるよ」
天音はハンバーグのプレートを「よっと」と言いつつ左三枚、右に一枚持った。
「おっ、そんなことも出来るんだ?」
「あったりまえ。激務で鍛えられた元ファミレスバイトを舐めんなよ」
「はは、分かった、よろしくな」
嵐のような一時間が過ぎると、一斉に客たちは軽トラやワンボックスカーに乗って帰って行った。
「は〜〜、やっと帰った……」
妙な時期に都会から来た天音が物珍しいのか、散々あれこれと話しかけられて辟易していたので「あっ、そろそろ作業に戻らなきゃいかんべ?」と一人が言い出して、ワラワラとじいさんたちが帰って行ったのに天音は心底ホッとした。
「おつかれ。本当、助かったよ。ありがとな」
「ああ、それは全然。じいさんたち、若者に飢えてるんだなあ……東京の話ばっか聞かれてさぁ」
「はは、久しぶりに他所から来た人間を見てみんなテンション上がっちゃったんだろうな。なあ、佐々乃、パンケーキもう食えるか?」
「食える……けど、いいのか?疲れてない?」
「あれくらいで疲れてたら飲食店なんて出来ないよ。ほら、座って座って」
たったあれしきの労働で労われてしまって逆に申し訳ないなと思いつつも、天音は客という身分に甘えることにした。
パンケーキの前に「さすがに甘いものだけじゃなあ」と残ったスパイスカレーを出された途端、ガツガツ食べ始めた天音を見て「佐々乃って旨そうに食うよなあ」と流路は笑顔になった。
「そう?ウマいもん食えば誰だってそうじゃないか?」
「オレの作るもの、旨い?」
「昨日からウマいウマいって食べてなかったか、俺?」
「そっか。良かった」
ホッとしたように言う流路を見てヘンな奴、と思う。こんなに美味しいものばかり出しておいて、まだ自信が無いというのだろうか。
出された試作品だというパンケーキも天音が以前行ったことのあるハワイ発祥の有名店を凌ぐような味だった。あの店のようにどっさりと生クリームが上に載っかっているわけではなく、クリームもシロップも陶器に別盛りになっていた。
「うわ、なにコレ。生地、ふかふかなんだけど」
今までに食べたことのない、舌の上でとろけるようなパンケーキの味に天音は驚いた。
「生地に自家製のヨーグルトを混ぜてあるんだ。ふわっとさせるための配合が難しかったけどね」
天音は三枚のパンケーキと生クリームまでペロリと平らげると、
「ごちそうさん。なんか、ここにいると太りそうだなあ。ウマいもんばっか出て来てさ」
「そう?……佐々乃、痩せてるからもう少し食ってもいいんじゃないか。高校の頃より頬とかの肉、落ちてる気がするんだけど」
「ああ……まあ、働いてる間は忙しくて空いた時間にコンビニ飯とかファストフードのもの食べるくらいだったからなあ……。会社辞めて
からも食欲そんなに湧かなかったし」
「なあ……会社辞めた理由って聞いてもいい?イヤだったら話さなくてもいいんだけど」
流路は躊躇いがちにそう言った。
「別に……たいした理由じゃないんだけど。ま、時間もあるし話してもいいか?」
「うん。佐々乃がいいなら」
「……こっち座れば、流路も。ちょっと休憩しろよ」
「うん……」
そう答えると流路はサロンを取り、キッチンから出て来て天音の隣に座った。
「まあ、よくある話だよ」
その年の二月、夏のキャンペーンに向けて天音のチームが担当する大手の飲料会社のCMの製作が早くも始まろうとしていた。
その夏のキャンペーンCMはここ四年ほど恒例になっていて、天音の所属するメディア事業部の部長が懇意にしているX社というタレント事務所の大物男性俳優が出演することが決まっていた。
共演する女性俳優のキャスティングをどうするかという会議をしていたところに、その大物俳優から事務所を通して「Z社に所属するA子というタレントを相手役にして欲しい」という打診が入ったのだった。
Z社はX社に比べればかなり弱小の事務所ではあるが、A子や彼女と同じようにここ二、三年の間で知名度と人気を獲得しつつあるタレントを何名か抱えている会社だった。
話し合いの結果、Z社との交渉と撮影場所のセッティングは天音と同じチームの三年先輩の高岡が主に担当することになり、他のカメラマンやメイク、スタイリスト、編集などのスタッフチームを立ち上げることは天音がメインで担当することになった。
そのCMは毎年恒例で流しているものだったから、スタッフは前回の製作にも関わった人たちに連絡を取って交渉すれば良かった。大口のこの仕事をわざわざ断るような者は特にフリーでやっている技術者の中には誰もいなかった。
高岡のZ社との交渉も無事に終わっていて、あとは翌日に撮影に入るというその夕方のこと、一本の電話が入った。
事務をやっている二十代の女性が電話を取ると、ひとことふたことやり取りしたあと、顔を青くして部長を呼んだ。「川辺部長……!Z社様からお電話です。何か、明日の撮影の件で、ということなんですが……」
通話を変わった部長の顔もみるみる険しくなった。
「は……?降りたいってどういう……え……?なんですって……。あ、いや、そのように込み入った話なら、少しお待ちいただけませんか。こちらから掛け直しますので……」
そう言って一度通話を切ると、部長は自分のスマホを持って物凄い勢いでフロアから廊下へと出て行った。
なにかとても不味いことが起こったのだということが分かった。『降りる』って?きちんと高岡さんはZ社と打ち合わせをしてOKをもらったと言っていたはずだが。
そのとき、外回りに出ていて当の高岡は不在だった。フロアに戻ってきた部長は血相を変えて天音を会議室に呼び出した。
「お前と高岡にZ社との交渉は頼んだはずだよな?何故今さらになってCMを降りたいとか言って来た?きちんと契約は進めたはずだろう?」
「え、そんな、撮影って明日……!」
「そんな、じゃねえよ、佐々乃。きちんと確認をしたのかと聞いているんだ。撮影を迎える前に再度の確認をZ社と取ったのか?向こうが小さな事務所だからって舐めて放ったらかしだったんじゃないのか?」
「それは……!」
それは、高岡先輩が、と言いかけて天音は言葉に詰まった。自分だってその件に関しては高岡に任せきりだったとも言えるし、確認しようと思ったことさえなかった。
「……少し、お時間いただけますか」
とりあえず高岡に連絡したい。天音はそう思ったが、
「いや、時間はねえ。急いで他のタレント、手配しろ。A子と同じくらいの人気のコだぞ。いいな?」
と、ドスの効いた声で部長は言い捨て、フロアに戻って行った。
(ええ?同じクラスのタレントって言っても……どうすんだよ……?)
しかし、とりあえず何があったのかは分からないがA子がもう明日の撮影に来ないのは確かなようだった。
天音は同じチームのメンバーと共に他のチームの同僚にも頭を下げ、片っ端から芸能事務所に電話を掛けた。当然今日の明日でスケジュールが空いている人気タレントなど、さすがにどこにもいない。二時間電話を掛け続けても誰も捕まらず、天音は頭を抱えた。
主演は大物俳優で、関わるスタッフも大口の仕事を抱えている者ばかりだ。スケジュール的にも会社の面子的にも、翌日の撮影に穴を開けるわけには行かなかった。
そのうち、やっと高岡が社に戻って来た。天音がメールを送っておいたのを見たらしく、顔色が悪くなっていた。隣に座って高岡は小声で話し始めた。
「ごめん、佐々乃。きちんと話は通っていたはずなのに……さっき戻る途中でZ社のマネージャーに一体どういうことか聞いてみたんだ。あの俳優がA子を指名して来たのはお気に入りだったからで……A子、以前に彼からセクハラを受けていたらしい。イベントの打ち上げパーティで部屋に連れ込まれて襲われそうになったところを危うく逃げて来たらしくて……」
「マジすか?そんなことが……」
「あの俳優、性懲りも無くまだA子を狙ってるんだろうな。小さな会社だからセクハラ騒ぎがあったときも、何もX社に抗議できなかったらしい。そのうえ、今回も共演させようとして……。Z社はA子には内容を言わずに勝手に話を進めてたんだが、あの俳優との共演だって知ったA子がブチキレたか病んだかしたらしくて、ここ数日、連絡が付かないらしいんだ……。それで『ギリギリまで探したけどA子が捕まらないからキャンセルしたい』って前日の今になって言って来たんだ」
「……そんなことになってたなんて」
「ともかく、オレが数日前に念のため確認を取っておかなかったのも悪い。ここのところ他の案件に係りっきりで……まさかZ社が断って来ることなんてないと思って舐めてた。……佐々乃、悪いけど、一緒に他のタレント探すのを続けてもらっていいか?」
「分かりました。今のところ全て断られていて……」
「小さなとこでもいいから、X社とあの俳優が気に入りそうな相手を探そう。大口の案件だから急な話でも出たいってタレントは絶対にいるはずだから……」
「はい。探しましょう」
そして二人がその後の数時間、あらゆるツテを辿って探した結果、来年度の朝の連続ドラマに出演が決まっているという新人女性俳優が捕まった。中堅のタレント事務所のオーディションで準優勝だった彼女はまだ知名度こそないが、写真を見る限りスターになりそうなオーラを放っていた。
翌日の撮影は天音も高岡も下準備に奔走して徹夜で挑んだが、なんとか一時間押しで撮影は終わった。
当のセクハラ疑惑のある俳優は若くて美しい女性俳優相手に機嫌を直していたが、急にA子との共演が拒否されたX社側はまだ怒りが収まらないようだった。
撮影が終わった夕方、二人は部長に会議室に呼び出された。
「今日はあの俳優のご機嫌が取れたからなんとかなったが、X社は今後このようなことがあったら我が社との契約を一旦止めたいとまで言って来ている。X社には私が若いころから世話になっていてな。こんなことを言われたのは初めてだ。当然、向こう側にも非はある、が、今回はZ社への最終確認を怠っていたのが悪い。X社はそんな不手際を起こした社員はこの部から外して欲しいと言って来ている……。言い掛かりだと思うだろう?けれど、仕方ない。そういう業界なんだ。で、今回、どっちがZ社とやり取りしていたんだ?」
そう言われて当然、天音は言葉に詰まった。しかし、そのとき思い出したのだった。三年先輩の高岡は去年結婚したばかりで、一歳になる子供がいる。加えて、彼は最近どうもストレス性の胃潰瘍を患っているらしく病院通いをし、投薬しながら通勤していた。顔色が悪いのは今回の件ばかりのせいではないだろう。
「……僕が――」高岡がそう口を開くのとほぼ同時に「僕です」と天音は言い放っていた。
「え」
小さく声に出した高岡が、ぽかんとした顔でこちらを見る。
「……僕が、高岡さんに頼まれて数日前、Z社に契約の最終確認をするように言われてました。僕のミスです」
「……佐々乃。本当にお前のミスか?」
部長が眼光鋭く天音を見つめた。
「はい。僕です。僕が、確認を怠りました。申し訳ありません」
きっぱりと言い、腰を九十度に折って頭を下げる天音を隣で高岡が口をもごもごとさせつつ、目を見開いて見ていた。
「……分かった。処分は追って伝える」
そう言うと、くるりと踵を返して部長は部屋を出て行った。
しばらく無言で立ち尽くしていた二人だったが、ハッと気付いたように高岡が声を出した。
「……佐々乃!お前、オレを庇って……?」
「いいんです。まあ、なんて言うか……たまたま今回、Z社とやり取りしたのが高岡さんだっただけで、僕がやってたかもしれなかった仕事でしたよね。それでも結果は同じだっただろうし……まあなんて言うんですか、運命共同体っていうか、連帯責任っていうか……」
「だからって……!」
「僕、今、一人だし、あんまり困ってることってないんです。このメディア事業部にいるのも最近なんだか忙しくて疲れてたし……。高岡さんこそ、体調悪いのに部に残ってもらっちゃってすいません」
「……ええ?お前……」
「処分は僕が受けますんで。気にしないで下さい」
ニコリと笑って天音はそう言った。高岡に言ったことは半分強がりだったけど半分は本当だった。
AWK通信の花形とも言えるメディア事業部の仕事はその実とても過酷で、メンタル系の薬を飲みつつ業務を続けている者や、高岡のようにギリギリの体調でなんとか働いている者もいた。天音はまだなんとか保っていたが、激務で体調を崩すのは時間の問題だろうな、と薄々思っていた。事実、帰るのが朝方になるような終わりの時間が読めない仕事に追われる中で、あまりきちんと眠れなくなって来ていた。
その後、天音には総務部への異動の辞令が出された。天音の過失でないことを薄々分かっている様子の仲間たちは同情的な言葉を掛けて来たが、「まあ、総務だったら定時で帰れるし。楽させてもらってスイマセン、って感じっすね!」と明るく受け流した。
高岡は毎日のように謝り、「やっぱり俺が異動するから」と申し出て来たが、天音は首を振って笑顔で返した。
総務部にはミスをしたり仕事があまり出来ない社員が集まる掃き溜めのような部屋があると以前から噂されていた。まったく時代錯誤な話ではあるが、今日び、すぐに社員をクビにするようなことは出来かねるらしく、会社としても苦肉の策のようだった。
総務部に事務用品を貰うために立ち寄ったときにチラリとその小部屋を覗いたことがあるが、掃き溜めと言われつつもそこで働く者たちはごく呑気そうに見えて、仕事しているのかしていないのか、新聞を読んだりネットを眺めたりしている者ばかりだった。
日がな一日あれでいいのだろうか、と思ったがそれなりに彼らもこの大企業から給料を貰いつつのらりくらりと過ごすことで会社を利用しているのかもしれないな、とも感じた。
あそこで過ごすのか、と天音は思ったが、不思議と悲壮感はなかった。ただ(じゃあ辞めてもいいかな)と思ってしまったのだった。どうせ一日中、何をするとも無しにあの小部屋で過ごすくらいなら、会社を辞めてしばらくの間、呑気に過ごすのもいいんじゃないか。入社してからこの方、彼女とのデートもままならないほど土日も忙しくて、買い物も出来なければ旅行もしていない。貯金は慎ましく暮らせば数年はのんびりしててもいいくらいは貯まっていた。
「……で、辞めちゃったんだ?」
「うん。あっさりしたもんだったよ。同じ部の人たちは『そのうち戻って来れるのに』って言ってくれたし、高岡さんも『やっぱり今から俺のせいだった、て言いに行く』て部長のところに行こうとしてたけど、慌てて止めた。別に、本当に良かったんだ、辞めても」
「すっきりした?」
「……どうかな。体調崩すかも、って毎日こわごわ働いてたし、いつも目が覚めると心臓がばくばくするみたいなストレスがあったからもっと辞めて嬉しいかと思ってたのに……なんかモヤモヤが残っちゃったな。自分から言い出したことなのにさ。……あの、仕事を急に降りたA子はあのあと三ヶ月くらいメンタルクリニックに通って治療に専念してたって聞いた。そういう見えないところで被害を産んでるような業界にいるのもくさくさしてたのに……。どっか、やっぱりまだ第一線で働きたかったのかなあ、俺。カッコつけたけどさ」
「そりゃそうだよ、真面目に働いてたんだからさ。そう上手く割り切れるもんじゃないさ。オレの場合はこれからは自分がやりたいことをやろうと思ったし、もう人の金を動かす仕事にうんざりしてたから辞めて本当にスッキリしちゃったけど」
「そうだよなあ。羨ましいな。……けどさ、ここに来て……このカフェで流路とまた会えて、身体動かしたりして……なんか、吹っ切れた気がする。また、何か仕事を探せそうな気がして来たよ」
「……そっか。なら良かった」
「まあ、貯金もあるし夏の間は家に戻ってゆっくり過ごそうかな。都内は蒸し暑いけどさ。ここは涼しくていいよなあ」
そう言って天音が頭の後ろで腕を組んで天井を見上げていると、「……あのさ」と流路が躊躇いがちな口調で切り出した。
「もう少し、ここにいないか?」
「……ん?」
「予定とか……やりたいことがすぐに無いんだったら、もう少しここにいないか?……夏の間とか……今月とか、来月の間とかだけでも」
「……え」
「いや、もちろん無理にとは言わないけど……ほら、さっきだって天音に手伝ってもらって助かったしさ。店の手伝い、ちょっとしてくれる
代わりにメシと宿を提供するって事で」
「え、あんなことくらい、どうってことないし……。メシ代くらい払うけど」
「いや、そんなのいいんだ。食事は自分の分のついでに作るだけだし……」
流路は遠慮がちに言っているが、言葉の端々に〈もう少しいてほしい〉という気持ちが滲んでいる気がした。だから天音には、つい
それに甘える気持ちが芽生えた。
「……いいのか?」
そう言うと、パッと流路の顔が明るくなった。
「うん。ぜひ。佐々乃がいると……オレも楽しいし。ほら、ここって同年代のヤツにもあんまり会わないし、話が合う人もそんなにいないしさ……」
取り繕うような口調で言う流路に、
「そうか。うん、そうだよな。じゃ、もう少しここに居候させてもらおうかな」
と、天音もなんとなくそわそわと落ち着かない気持ちで答えた。
「よし、じゃ、決まり!自由にこの家、使ってくれていいから」
「なんか、俺にばっかり特典があって申し訳ないけどなぁ……あ」
「ん?」
「俺、着替えとか全然持ってないんだった。街に出て服とか要るものとか、少しだけ買って来ようかな」
「……そうだな。たいがいのものはあるし、服はオレのもの貸してもいいけど……下着とかは要るもんなあ」と、流路は考え込むような顔をした。
「いや、流路の服って悲しいことにデケーんだよな、俺には。車出して行ってくるわ。そうそう、それにレンタカーは乗り捨てだけど一度店に返して借り直さないと……」
「じゃ、オレも行こうかな。十六時くらいまでは誰か来るかもしれないから、その時間が過ぎたら一緒に車で行こう。オレ、先導するからさ」
「マジ?いいの、店は?」
「いいんだ、いつもそんな感じ。一人でやってるから用事があるときは【CLOSED】の札を出して出掛けたりするんだ。ま、夕方に来る客なんて昨日の澤木さんみたいな知り合いがたまに顔出してくれるくらいだし」
「そっか、じゃあ、よろしく」
「おう、任せて」
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