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第三夜

 目が覚めると真っ暗闇だ。  ああ、包帯のせいだ。目はもう痛くない。ここはどこだ?  体の周りがやたらとふかふかする。布団?  いい匂い。畳の匂いだ。…なつかしいな。 ――ちりん  鈴の音。  真下から聞こえる。  はっとして手を伸ばすと、のどに革みたいなものが巻き付いていて、また鈴がちりちりと鳴った。  首輪に鈴をつけられている。 (猫でもあるまいし!)  外そうとしてみるが硬くて取れない。鈴の音だけがちりちりと鳴った。 「おう、起きたか。」  突然あの若い男の声がして、驚いて動くのをやめる。 「蜂蜜と団子がある。腹減ったろ。」  畳の上を男が近づいてくる気配。 「っ」  布団をはぐられ、体を抱えられて上半身を起こされるとくらくらした。 「ふらっふらだな。まずは体力を戻さんとな。俺の部屋だ。安心して休め。ほら、蜂蜜だ、わかるか?」  口のなかに(さじ)が入ってきた。  舌の上に何かが触れる。歯を軽く動かすとシャリシャリとした歯ざわりがして、そのあとにねっとりとしたものが舌に溶けだす。 …甘い。  コクとうま味と、頭のてっぺんが震えるような甘露。滴った花の密を凝縮したような風味に思わず息を吐くと、いいようのない芳しい香りが鼻を突き抜けた。  それは、親父がくれていた飴とは比べようもないほどに美味かった。  右足を動かすと、足のほうからもジャラジャラと鈴の音がする。 「用事があるときはそうやって足を振って鈴を鳴らせ。すぐに来るから。この部屋には鍵がかかっているから、俺以外は入らない。とにかく寝てろ。包帯は取るなよ。」  男がくれる蜂蜜に夢中になっていると、そんなことをいわれた。 ――寝てろ。  目も見えないことだし、久しぶりの布団も気持ちがいいので、いわれたとおりにたっぷりと寝た。  昼か夜かもわからなかったが、ときおり遠くで人がさざめく気配がしていた。  山深い場所らしい。起きている間は、鹿の鳴く声や、鳥のさえずりを聞いて過ごした。  (かわや)も部屋の奥の縁側から手すりをつたって直接いける。 「手すりを越えるなよ、向こう側、崖だから。」  最初、手を引かれながら教えてもらった。  手すりにつかまると、なるほど向こうから風が吹きあがってくる。 「厠で失敗しても気にするな。俺は気にしない。」  雑な男だ。  足の鈴がうるさいので動くときは足をこするようにしてそろそろ動いた。 「お前、少しは鈴を鳴らせ。死んでるのかと思う。」  男は日に何度か様子を見に来て、食事を置いていく。  私をやたらと赤子扱いして粥や団子を口に運びたがったが、蜂蜜以外は自分でも手さぐりで食べられるから断った。なにしろ運び方が雑で荒い。  蜂蜜だけは、失敗するとそこらじゅうベタベタするので男に食べさせてもらった。  ときどき男の寝息で目が覚めた。  布団を別に敷いて寝ているらしかった。私の布団に入ってくることはなかったが、一度体を拭いてもらっていたときに付け根を探られたので、そういう趣味はあるのだろう。  病人だぞ、やめろ卑怯だ。たしなめると、少し笑って「わかった、もうしない」といった。  薬草の染みた布を交換されるときも目がしみるので文句をいうと、そのたび男は、ふふっ、と笑った。  それにしても、不思議だな。  今までは金さえ払えばどんな奴にでも触らせてやっていたのに、大金をつんで私を買ったこの男には、反抗できる。  どうやら私は…“回復”しつつあるのではないか。  ふかふかした布団で寝て、蜂蜜を食べさせてもらって、服を着替えて…、まるで一人前の人間のようだ。  亡者だったころの私から、人間だったころの私を、少しずつ、取り戻せている気がしていた。  鍵の()く音で目が覚める。もう食事の時間か? 「…くくっ…」「ひひ」 …押し殺した笑い声。  あの男じゃない。  身体がこわばる。  布団が乱暴にはぐられ、体を押さえつけられると同時に口の中に布の塊を突っ込まれた。 「……!」  二人組の男のようだった。  足の鈴がじゃらん、と鳴った。 「おい、なんだこの鈴?」 「取れねえな。しょうがねえ、すぐ済まそう。」  帯がほどかれ、着物をはぎ取られ、みるみる裸にされる。 「…んむ…!」 「だまってろ、すぐ済むから。」  背中に張り付いた男に後ろから腕を抑え込まれ、前の男に足を開かされて腿を押さえつけられる。 ――じゃら、じゃらん!じゃらっ…  鈴の音はすぐにやんだ。 「…いい眺めじゃねえか…。」  にやついた男の声。 「けっこうなご身分だなあ?ほんの数日前まで汚ねえ見世物小屋にいたってのに…」  男の鼻息が胸にあたった。 「…ああ、いい匂いだ。」 「おい早くしろよ、俺がやる前に若が帰ってきちまう。」  背中の男がいう。 「大丈夫だって、そんなすぐ帰って来ねえよ。」  腿を押さえつけたまま男は続けた。 「ガキ、今からすること、若にいうんじゃねえぞ?平気だよなあ?見世物小屋じゃいつものことだったろ。…お前、夜鷹だったんだろ?…俺が見つけたんだぜ。若より先に、俺が目をつけてたんだ。」  男のざらざらした舌が胸を這った。  ほんの数日前までなんでもないことだと思っていたのに、男の舌先が触れたとたん、ぞわぞわとした嫌悪感が身体中を走り回った。 「ああ…震えてやがる…。たまんねえ…。…おい、若に、『布団は自分で汚しました』っていえよ?…若はな、今、てめえのために…っくく…ハチの巣を取りに行ったんだ。お前が蜂蜜、好きだからって…子分を、何人か、引き連れてな。…ひひっ。その間に、お前は、元の夜鷹に戻るんだ…」  むきだしになったそこに、男の先端が触れてきた。 「…ぐ…」  初めて男を受け入れた、あのときの恐怖がじわじわと蘇る。 「じきに気持ちよくしてやる…好きなんだろ…?」 ――ちがう… 「ああ、そういやお前、目の色が互い違いだってな?…きれいなんだってな…見せてみな?」  背中の男が耳元で汚くささやき、私の手首をつかんだまま包帯に手をかけてくる。 ――いやだ…!  男が、狙いを定めて、力を入れてきた。 (――ああ!)  私は馬鹿だ。  この世は、無機質で空虚。  どうあがいたところで、そこには絶望しかない。  そんな単純なことを、この数日で忘れかけてしまっていた。  こんな私でも人間に戻れるのではないか…などと、わずかばかりの期待を抱いてしまった。  そのせいで、今、また、地獄の底を突きつけられ、ひどい気分になっている。  愚かしいにもほどがある。  どこへ行けども同じ地獄。 「んぐ…――!」  地獄だ。 「…えっ、うわ…」  包帯がゆるむ。  布が下にずり落ちた。次の瞬間、 ――ドン  胸の上に男の重い体が乗ってきた。同時に、顔にぬるま湯のような何かがかかる。 「うわあああ!」  背中の男が絶叫して私の手首を離した。 …なんだ?  薄目を開けてみる。  久方ぶりの世界。飛び込んできたのは真っ赤な、人間の、体。  首がない。  首があるはずのところから、しゅうしゅうと大量の血を吹きだしている。  その向こうに背の高い男が立っているのが見えた。右手に刀を持っている。  立っていた男は少し動いて、首のない男の体を横へ激しく蹴った。  蹴られた男の体が人形のように畳の上に転がる。  目がしばしばとして、うつむくと、男の頭があった。  下衆びた笑いを浮かべたまま、首だけが転がっている。 「…わわ…わ、…わか…」  背中の男がそれだけいうと、“若”と呼ばれた男はこっちを向いた。顔はまだよく見えない。 「離れろ。」  男がいうと、背中の男はものすごい勢いで私から離れた。 「俺、なにもっ…そそ、そいつが、勝手に…」  後ろで男が何かぱくぱくいっている。 「合い鍵はどこで手に入れた。」  男の声は冷静だった。 「…マ…マサ兄に…そいつが、若が失くしたからって嘘ついて…そいつが…そいつ…」  うわごとのようだ。 「そうか、じゃあお前マサに、今から俺が殺しに行くから首洗って待ってろと伝えて来い。」 「…ああ…そんな…」 「じゃあお前を殺す。」 「ひっ、ひい!あか…わかりましたあ!」 「それからこれ、持ってけ。目障りだ。」  男は私のそばによって、傍らにあった男の髪をつかむと、首をほおった。 「あぎ…ひいい!」  首を持たされた男は血だまりのせいか畳のうえで何度か足を滑らせるようにし、部屋から出た。  その背中に向かって男は最後に、「あと俺、もう“若”じゃねえからあ!」と、おどけたようにいった。  男の足音が遠のくと、部屋は静まりかえった。  はぐられた布団の、白かったであろう敷布は真っ赤に染まり、若草色の畳も血で浸食されている。  口に突っ込まれた布を取り出すとその布も真っ赤で、血の味がした。返り血をたっぷりと浴びているらしい。 「あぁ~。あの馬鹿小便漏らしやがった。まあいいか、ここまで汚れちゃ畳ごと総入れ替えだな。」  男がつぶやいたので、声のするほうを見上げる。  男が私を見てにやりと笑った。 「俺が見えるか?」 …人ひとり殺しておいて、そのすぐあとで聞くことだろうか。 「…見える。」 「お!そうか。」  男は血だまりの出来た敷布の上にしゃがんで、私の顔を覗き込む。  それからすぐに私を掬いとるように抱き抱えると、厠のある縁側のほうへと進んだ。  かなり高い場所だった。  “崖”どころか絶壁で、幾重にも重なった山の向こうに青い湖が見えた。  目が見えていたなら、足がすくんで厠になんか行けなかっただろう。  まぶしい。空が青い。  男は私を縁側に座らせると、同じ目線になり、もう一度、今度はゆっくりと私の顔を覗き込んだ。  男の顔を、初めて見た。  きれいな顔をしていると思った。  物怖じしない、人懐こそうな面持。眉が太くて、唇もあついが、吸い込まれそうなほど真っ直ぐな黒い目をしている。  厳しい眼差しをしていたのが、ふっ、とゆるんだ。 「…空の青が映るのを見たかった。やっぱり、思ったとおり。…相当いい。」  笑うと、顔全体が優しくなった。 「その目に最初に映るのは俺だと決めていた。」  男は置き去りにされた屍体をちらっと見て、「あんなのに汚されてたまるか。」といった。  それからちょっとはっとしたように、「おい、見てないよな、あんな奴ら?」と続ける。  へんな男だ。  生まれて初めて見たものがあの男というわけでもあるまいし。  包帯が取れてまず最初に見えたのは、首のない真っ赤な人間。  どう答えようか少し迷ったが、まず見えたのが屍体だった、などよりは、この男を見た、と思っておいたほうが、私の気もいくらか楽だ。  こくん、とうなづいてみせると、男は安心したようだった。 「籠のなかでやってたあの顔、見せてみろ。」 「……。」  少しやりにくいと思ったが、それでも小首を傾げ、困ったような顔を作って上目遣いに見上げてみた。  男はふふっ、と笑って「やっぱり似合わんな」といった。自分でやれといっておいて。 「そう、お前はそうやって少しむくれたくらいが一番それらしい。」 (……。) 「俺以外の誰にも見せるなよ。お前の全部、これから俺が見つけてくんだからな。」 …本当に、へんな男だ。  男はそれからいたずらっぽい顔になり、 「あいつ、今頃俺が何をしたのか皆にいいふらしまくってる。」 と、首をかついで追い出された男のことをいった。 「これでお前に近づく奴はいなくなる。」  男はまた優しく笑った。  だから、もう安心しろ。  男はそういって、私の頬を拭い、抱き寄せた。  もう泣かなくていい。  男の肩は、返り血を浴びて少し濡れているが、血の匂いの向こうからやはりいい匂いがする。  男の大きな手が、私の頭を何度も、何度も、あやすようにぽんぽんと叩く。 …それでも体の震えは、涙は、止まらなかった。 ――止まらない。  怖くて、悔しくて、たまらなかった。  ふかふかの布団で寝たし、蜂蜜だって食べた。人間としての世界を、私は知ってしまったのだ。  それを、あの二人にまた引き戻されそうになった。 …あそこには、もう、戻りたくない。 ――…そうだ。たとえ死んだとしても、あの地獄には戻りたくない。 「…私は、人間だ……」 「うん。だな。」 「…だから…… …もう、いくら積まれても、この体は…誰にも触らせない…ッ。」  何をいっているのか自分でもよくわからない。  でも、いうべきだと思った。  いいきかせておきたかった。自分自身に。 「うん、俺以外な。お前は俺のものだ。俺が誰にも触らせない、」 「阿保が…!…貴様にもだ…!」  男はふふっ、と笑った。  私のなにもかもを、見透かされているようだった。  男の体は、あたたかかった。  ひいひいと泣いた。  有用な人間でないと守ってもらえないのだと思っていた。だから地獄に落とされるのだと。  そんなことは当然だ。この世は無情で残酷だから。  自分の力だけではどうにもできないのだとしたら、ひたすら受け入れて、流し続けるしかない。  そう思っていた。  でも、… ――もう安心しろ。 ――もう泣かなくていい。  ずっと。  ずっと待っていたんだ  本当は――  しゃくりあげるたびに首の鈴がちりちりと鳴った。  落ち着いた頃、男がいった。 「蜂蜜食おうか。」  恐ろしくもあたたかな、その男の名は、斎東(さいとう)といった。 ~ 終 ~

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