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第30話 吸血鬼の取扱説明書、その一

 ある日の休日の昼。  俺はシュメッタリンで忙しく働いていた。  こんな寂れた様な喫茶店、さほど客なんぞ来ないだろう、と初めは舐めていた俺なのだが、シュメッタリンはそれなりに繁盛店なのだ。  シュメッタリンではまだまだ仕事に慣れずに失敗ばかりしていた。  マスターからは、失敗する度に、「まだまだキッドだな」と言われる。  要するに、坊やだなって事だと思うとやり切れないし、接客業は大変で、自分に向いていないんじゃ無いかと思う。  そもそも人見知りの俺が喫茶店で働く事には無理がある。  正直辞めたい気持ちになったりするが、河瀬さんから紹介された仕事を辞める訳にはいかないので必死でやっている。 「キッド、会計もたもたするなよ」  三人ほど会計待ちのお客が並んでいる。 「はい」と言いながらも俺は心の中で悲鳴を上げていた。  こんなに忙しいのに俺が来る前までマスター一人で店を切り盛りしていた何て信じられない。  マスターは超人なのか。  いや、マスターは吸血鬼だ。  河瀬さんと同じく。  店のゴールデンタイムが終り、お客が途切れた時間帯。  テーブルを拭いている俺に「一ノ瀬君、もう休憩していいぞ」とマスターが声をかける。 「ありがとうございます」  ふぅ、やっと休憩か。  ここでは、お昼のゴールデンタイムが終わると休憩を貰える。  しかも、休憩中はマスターの作った賄いを頂けるのだ。  マスターは中々の料理上手だ。  吸血鬼というものは料理上手なのだろうか。  店の味を知るのも店員の仕事の内、と店のメニューを休憩中に食べさせてくれる。  メニューは実に美味しく、どれも店のコーヒーにとても合う。  俺はカウンター席の端っこに腰掛けた。  ここが休憩中の俺の定位置だった。  俺が席に落ち着くと、マスターがカウンター越しに今日の賄いを出してくれた。  フレンチトーストだった。  黄色くて、美味しそうな焦げ目がついていて、蜂蜜の入った小さな白いミルクピッチャーが付いている。  それと、こんがりと焼けたソーセージが二つ。  添えられた自慢のコーヒーの良い香りが食欲をそそる。 「お、美味しそう」  込み上げて来た唾を飲み込み俺は言う。 「熱いうちに食べろよ」とマスター。  俺は元気良く、「はい!」と言うとフォークをフレンチトーストに突きさした。  あ、蜂蜜をかけないと、と蜂蜜をフレンチトーストに垂らす。  そして頂きます。 「お、美味しい。ふわウマ」  にこにことフレンチトーストに食らいつく俺をマスターが満足そうに見つめる。  俺は夢中で食べた。  カウンターの向こうでマスターはコーヒーを味わっている。 「一ノ瀬君、君、最近あいつに血を吸わせただろ」  突然マスターからそう言われて口の中のフレンチトーストが吹き出そうになった。  俺はこの前、河瀬さんに血を吸わせた。  それ以外にも、こう、イケナイ事を河瀬さんにさせてしまった。  その事は俺には忘れたい過去になっていた。  でも、中々忘れられない。  あの時、河瀬さんにしてもらった事をどうしても思い出してしまうのだ。  そして、思い出すたびに俺の体は芯から疼く感じになる。  もう、毎日でも河瀬さんに血を吸ってもらいたくて仕方なくなる。  河瀬さんは普通の事だと言ってくれたけど、もう、俺はやっぱり変態なんじゃないのかと疑いたくなるほどに。  それに河瀬さんに触られた、あの感覚をまた感じたくて。  どうにも気持ちが押さえられなくて、自分でも河瀬さんがしてくれた様にしてみた事はある。  でも、気持ち良さがジワジワ湧いてくると怖くなって途中で止めてしまうのだ。  そんな訳で、実にモヤモヤした毎日を送っていた。  はぁっ……。  吸血後の行為の事は言わずに「何で分かったんですか?」とマスターに問うてみる。 「そりゃ、分るさ。君からあいつの強い匂いがするから。もう、プンプンしてるよ。それに、君の発情の匂いも」  俺は思いっ切り咳き込んだ。 「ごっ……ごほっ! は、発情?」  俺が発情してるって?  何で?  訳が分からないというのを露骨に顔に出した。  すると、マスターが、「くくっ」と噴き出した。  マスターの目が笑っている。  この人も笑うのか。 「なるほどな。本当にキッドって訳だ」 「なななっ……もう、からかわないで下さいよ。発情なんて、知りませんから」 「そんな匂いせさて何を言ってるんだか。キッド、あいつの事を考えてムラムラ来てるんだろ?」 「む、ムラムラ?」  頭の中にクエッションマークが浮かぶ。  俺は生まれてから今まで、ムラムラした事は無い。  知識として、ムラムラするとはどういう事かは分かっている。  でも、実際、自分がムラムラしているか、何て計れる物差しを持っていない。  それに。 「河瀬さんは男性ですよ。俺が河瀬さんにムラムラするなんて……」 「相手が男だって関係無いさ。それにあいつは吸血鬼だぜ。身を任せたい、と思えるようにフェロモンがあいつの体からは出てるんだ。あいつ、良い匂いだろ」  た、確かに河瀬さんは良い匂いがする。  甘い様な、そんな匂いが。 「吸血鬼は人間の性に訴えかける事で人間を捕食するんだ」 「マスターも……そうなんですか?」  意地悪のつもりで訊いてみる。 「当然だ」と鼻を鳴らしてマスターは言う。 「まあ、この店の中じゃ、コーヒーの匂いに紛れて分からんだろうがな」 「へぇぇー」 「だから、君が俺に発情する事は無いから安心しろよ」 「べ、別にそんな心配してません!」  俺は不機嫌は表情を作り、フレンチトーストに食いついた。 「まあ、血を吸われると性欲が高まるから、ほどほどにしとけよ」  マスターは真顔でそう言った。 「よ、余計なお世話です!」  とてつもなく恥ずかしい。  からかうにしてもほどがある。  顔が熱い。  天井をグルグル回るファンは俺の体の熱を冷ましてはくれなかった。

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