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前編
盆休みの帰省シーズンから少し早めに、久しぶりに父親の家に帰省して、厚木圭 は驚いた。
家に見知らぬ男が住んでいたからだ。
「おう、圭、お帰り」
父親の豊はホース片手に、生い茂った庭に水をやっている。圭のほうを振り向くと「麦茶あるぞ」と言った。
「あ、うん。ありがとう」
そこで圭はTシャツの袖で額の汗を拭き、バックパックを背負い直してちらりと背後の和室を見る。暗いその部屋にぼんやり座っている男と目が合った。圭は軽く頭を下げる。
「あ、はじめまして。息子の圭です。ゆっくりしていってください」
最初は、見知らぬ男は父の友人かと思っていたのだ。男はうなずき、笑顔で「ありがとう」と言った。圭がバックパックを色あせた縁側に下ろすと、蝉しぐれがわっと高まった。何匹か、庭の樹から葉を揺らして飛び立っていく。後ろを振り返ると男はいなくなっていた。
「このひまわり、すごいだろ」水をやりながら父親が言う。「ハムスターのエサのさ、ひまわりの種から発芽させたんだよ」
「ハムスターなんか飼ってたのかよ」
「冬に死んだけどな」
あー、そう。そう言いながら縁側に腰を下ろすと、男がそばに立っていた。漆塗りの盆に小さな丸いガラスのグラスを載せている。どうぞ、と言った。
「あ、すみません。ありがとうございます」
圭は腰を上げてグラスを手に取る。中身は麦茶らしい。男はまた和室の、片づけられたテーブルの隅に座った。扇風機が静かに首を振っている。グラスから一口飲み、圭はさっと見知らぬ男に視線を走らせた。優しそうな顔立ちの、目立たない男だった。ちょっとハンサムである。着ている服はネイビーのポロシャツとグレーのスラックス。
父親が振り返りもしないまま言った。
「その人な、戸川恭平って人な。おれの大学時代の後輩」
圭は驚いて振り返る。視線が合うと、戸川はにこっと笑った。親父の大学時代の後輩? それじゃあこの人も六十半ばくらいなのか。そう思って、圭はすぐ自分の間違いに気がついた。
父親の豊は会社に勤めながら、通信制の大学で学んでいた。二十年ほど前の話だ。だから、戸川はきっとそのときの後輩なのだろう。圭の疑問に答えるように、戸川は言った。
「ぼくは四十三です。あなたのお父さんの、通信大学時代の後輩です」
圭は黙ってうなずいた。蝉の声は慣れるとあまり気にならないものだが、戸川の声はとても落ち着いているので少し聞きとりにくい。圭は麦茶を飲んで尋ねた。
「じゃあ、彫金の授業を受けてたんですか?」
「いえ、ぼくは学芸員になる授業を」
男の言葉に、圭はうなずいた。たしかに戸川は学芸員っぽい気がする。芸術家というよりも、愛する芸術家の芸術を深く理解したい、見守りたいというタイプ。自分の父親が彫金細工でアクセサリーをつくっていることを思いだし、圭はまた一人うなずいた。父親がまったくアクセサリー作家に見えないのに比べて、戸川はとても「らしい」気がした。
圭は急に、父親が愛読している現在絶版の推理小説のことを思いだした。
「なあ父さん、知ってるか?」
「知らねーよ」
「まだなにも言ってないだろ。黙って聞いてろよ。父さんが好きなあのミステリー、今度復刻されるみたいで……」
父と息子がだらだらしゃべっているのを、戸川は黙って聞いていた。ときおり自分の麦茶を飲み、庭に目をやって、日差しが眩しいように目を細める。彼のいる和室は影になって、そのために日向の庭が輝いて見えるようだ。
父親と話しながら、圭はちらちらと戸川のほうを見る。「いつでも話に入ってくださいね」という顔をして、じつは戸川が気になるからだ。落ち着いた面持ち、細身だが骨が太そうな体つき、和やかな瞳で静かに先輩とその息子の話を聞いている。
ちょっと裁判官ぽくも見えるな、と圭は思う。発言は相手の言い分をよく聞いてから。知性と注意深さと静謐。その三つで、彼にとってはすばらしく大人の男に見える(年齢から言っても大人の男だ。圭は二十四歳だから)。
圭が麦茶を飲み干して縁側に置くと、戸川が腰を上げた。二人の目が合うと、戸川は少し微笑んだ。
「お代わり、もってきますね」
「え、いや、いいですよそんな。あなたはお客さんなんだから。おれが行きます」
「とってきてもらえよ、圭」父親がホースをしまいながら言う。「冷蔵庫、買い替えたからな。おまえじゃ見つけられない」
「麦茶くらい見つけられるよ」
「いや、麦茶をめんつゆの容器に入れてるから。おれでも間違うんだよ」
なんでそんなものに入れてるんだよ。圭が抗議しているあいだに戸川は立ちあがっていた。静かに和室から出て、縁側の前を横切り、廊下を歩いていく。振り向いて、圭は気がついた。
戸川の足から影は伸びていなかった。
圭は縁側に座る自分の足元に目をやる。濃い影ができている。手を伸ばし、廊下の床に触れてみる。そこでも影ができる。彼が顔を上げると、戸川はいなくなっていた。
「なあ、圭」父親が言った。「戸川くんな、客じゃなくてうちに住んでるから」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。彼はうちに住んでる。彼のこと、よろしく頼むよ」
圭の眉間に皺が寄る。呆れた顔で口を開こうとしたが、父親が言わせなかった。
「戸川くんは、男としてはわりとかっこいい部類に入ると思うぞ」
「父さんがおれの好みについてあれこれ言うなよ。そして、またか。ほんと、困った人だな」
父親は振り向くと、まじめな顔で言った。
「男の同性愛者をけなすつもりじゃないがな、女は生物として、確実に男より格が上だ。だからおれは女が大好きなんだ」
「ああ、そう。それはおれもわかるよ。でも戸川さんを巻きこむなよ」
「言ったろ。彼はここに『住んでる』んだ。おれがいなくなったらきっと困るんだよ」
「おれだって、ここに越してくることはできないよ。向こうで仕事があるからな」
「だから、連れてってやってくれよ」
あと一歩でハンサムだった、そんな精悍な顔で圭が父親を睨む。豊はにやにやした。
「戸川くんはいい人だぞ。おとなしいが中身は情熱的で、叡智のきらめきがある。バカな男じゃない。飲みこみが早い」
その言葉で圭の思考は脇に逸れた。飲みこみが早い、ベッドでも? 彼は自分の頬を平手で叩く。助平な妄想をしている場合じゃない。
父親は話し続けている。
「彼は相手がなにを望んでいるのか、なにをしてほしくないと思っているのか、すぐに察する。頭がいいんだな。おれが『芸術家』って呼ばれるのが嫌いなこともすぐに飲みこんだ」
「父さんはだれかれ構わずそう言い張ってるじゃないか。ほんとに、戸川さんを巻きこむなよ」
「頼むよ。彼は居場所がないんだ。雨の夜にほっつき歩いてるのは可哀想だろ。それにお前いま、女も男もいないんだろ。だったらさ、戸川くんと駆け落ちしてやれよ」
そういうのは相手の意向も聞かなくちゃだめだろ。圭はじゅうぶんまっとうな反論をしたが、父親は聞いていなかった。インターホンが鳴り、玄関のほうに向かって声を張りあげる。
「はい、いま行きます! おい圭、宅配便受けとってくれよ」
圭がのろのろ腰を上げると、戸川とぶつかりそうになった。彼は片手に麦茶が入ったペットボトルを持ち、少し悲しそうな顔で豊を見た。
「すみません厚木さん、受けとれなくて」
「いいよいいよ、戸川くんは。圭、早く出て」
ぶっきらぼうにうなずいて、圭は廊下を歩きはじめる。ちらりと戸川の足元を見る。やっぱり影がない。視線を上げると彼と目が合った。
年上の男はかすかに微笑んだ。
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