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後編
なんにせよ、相性というものは重要だ。
相性がよくなければいっしょにいてもつまらないし、ベッドの上では気分が乗らないし、見えないものは一生見えないもののままだ。
しかし、圭と戸川はそうではなかった。一生見えないはずのものが、圭には見えた。
帰省したその日の夜は市の花火大会だった。海に近い町で、港には人が続々と集まってくる。しかし、圭に見る気はなかった。人混みが嫌いなうえ、暑い夏も嫌いだ。夜になっても気温がほとんど下がらず、そんななか出歩くのは嫌だった。
父親は町内会の集まりで、花火を見に出かけていった。と言っても、クーラーの効いた集会所の、三階の会議室の窓から見るのだ。
圭は花火より涼しい部屋を選んだ。和室の窓を閉め、障子まで閉めて、花火の音を聴きながら本を読むことにした。冷やしたビール缶も冷蔵庫から取ってきてある。酒を飲みながらよく本が読めるなと人に言われるが、彼は二、三杯飲んでからのほうが読書に集中しやすい。登場人物の心の機微がいきいきと感じられるし、構成に感心する冷静な眼も持てる。
ただ気になるのは、戸川がそんな圭につきあっているらしいことだ。
「戸川さん、花火見たかったら、二階のおれの部屋で見てくださいね。一応、親父が掃除しておいてくれたみたいだから。あそこ、冷房も入るし」
戸川は首を振り、「この部屋のほうが落ち着きます」と言った。
「それに、ぼくはそんなに花火が好きじゃない。じっと見ていると、疲れてしまって」
「真剣に見すぎなんですよ、きっと」
圭がそう言うと戸川はにこにこした。
可愛い笑顔だなと圭は思う。彼は視線を伏せてページをめくり、一行だけおざなりに読んで顔を上げた。戸川は虚空をぼんやり見ていた。圭が見ていることに気がつくと、年上の男はにこっと笑った。
「圭くんは、なんのお仕事をしているんですか?」
「翻訳家です。まだ、かけだしですけど。戸川さんは、やっぱり学芸員を?」
「そうですね。昔は」
どれくらい昔のことなんだろう、と圭は思う。なんとなくの印象だが、戸川は過去というものを感じさせない男だった。ついさっき撮ってもらったポートレートを切り抜いて、「これがぼくのすべてです」と言って、それだけを人に見せて生きているみたいだった。
しばらく沈黙が落ちた。
部屋は涼しくて、静かで、ときおり外で遠く花火の音がする。色あせた畳に敷いた、ぺたんこの座布団の上で膝を揺らし、圭はつぶやいた。
「花火、おれも好きじゃない。それよりもこうやって、静かな部屋で音だけ聴くのも風流です」
「若いのに、粋な人だ」
戸川はなんだかうれしそうだった。圭も思わずうれしくなる。年上の男は麦茶を飲み、テーブルに置いた古い本を手にとった。昭和三十六年発行の翻訳推理小説。圭が見ると、名前も聞いたことのない作家の本だった。戸川は本を読みはじめるかに見えたが、表紙を開いたところで圭を見た。
おれが話さなくちゃ。圭はすぐに、戸川がきっかけを待っていることに気がついた。だから彼を見て、言った。
「親父からまったくなんの話も聞いてないんですけど、戸川さんはここに住んでるんですか?」
「はい」
「なぜ……とは思うけど、でも言いたくなかったら答えなくていいですから」
「ほかに頼る人がいなくて。厚木さん、あなたのお父さんは、大学時代ぼくによくしてくれました。スクーリングのときに初めてお会いして」
「親父は面倒見がいいってタイプじゃないけど。あの人、適当でちゃらんぽらんとしてるでしょう?」
「ええ。でもそこがよかった」戸川の目がかすかにきらめいた。
「なれなれしいようでいて、適切な距離をとっている。さばさばしてて、でも親切。そういう人といるのは楽です。歳がとても離れているのもあって、気にかけてくれました」
たぶんあなたのこと、おもしろい男だと思ってたんですよ。息子はそう思ったが、口には出さなかった。黙って戸川の話を聞いている。年上の男は沈黙した。
花火の音がする。部屋が冷えすぎて、圭はエアコンの設定温度を一度上げた。
「厚木さんの家に来たのは」戸川は言った。「この春です。親切にも住ませてもらって、感謝しています」
「親父には、あなたみたいなまっとうな人とのつきあいが必要ですよ。すごく変人なんだから。……父から聞いていますか? たぶん、もうすぐいなくなるみたいだけど」
「聞いています」
戸川はうなずいた。圭は閉じた本の栞をいじり、年上の男の目じりの皺が目に映ると視線を伏せた。
「うちの親父は女好きなんです。おれが物心ついてから、二度も別の女といなくなってる。今度で三回目でしょうね」
「驚かないんですか?」
「むしろ、呆れます。おれが子どものころは憎んでました。でも、しょうがない人だ。母が泣いても更生させられなかった人を、息子のおれが更生させられるはずがない。もっと言うと、親父の新しい彼女でも父をまともにさせるのはむりです。賢い人なら、きっとじきに気がつくと思う。あるいは知ってて、あえて親父と行くのか。でも、恋は人を愚かにしますからね」
そうですね、と戸川は言った。本当にそう思っているのだろうか? 圭には信じられなかった。この年上の男が愚かになる瞬間などあるのだろうか?
「父がいなくなったら、戸川さんはどうするんですか?」
圭の質問に、戸川は机の上で骨ばった両手の指を組んだ。
「まだ、決めていません。この家はこのままにしておく、と厚木さんは言っていました。ここにいてもいいとも言ってくれました。でも、それは図々しすぎるし……一人で暮らすのは寂しいと思う」
うなずきはしたが、圭は一人暮らしが寂しいと思ったことが一度もなかった。
「他に、あなたがいっしょに暮らせそうな人のあてはないんですか?」
「ありません。厚木さんは特別です。あの人はいきなり訪ねてきたぼくを置いてくれました。すごく度量の大きい人なんです」
「それが親父の唯一のとりえですからね」
戸川くんと駆け落ちしてやれよ。圭は父親の言葉を思いだした。そういうのは、相手が自発的に「うん」と言って初めて可能になることで、言わないままの駆け落ちは単なる誘拐だ。
疲れたように座っている戸川を見て、圭は言った。
「おれはバイなんです」
戸川はじっと圭を見た。それからなにをするのかと思えば、盆の上に乗せたペットボトルをとって圭のグラスに注いだ。
「ありがとうございます。……おれのうち、昔からオープンなんです。というか、親父が破天荒に自分の女好きをさらけ出すので、こっちもつられてオープンになってしまったというか。親父はおれがバイであることを知ってます。で、それもまたよし、と思ってるらしい」
「度量の大きい人ですね」
圭はうなずいて、続けた。
「で、さっきの告白はこの伏線なんですけど……。おれ、一人暮らしなんです。もし嫌じゃなかったら、うち、来ませんか?」
「ありがとう」
そう言って微笑んだ戸川の目は和やかで、静かだった。
「でも、お願いするわけにはいきません。あなたはきっと責任感が強い人なんでしょう。でも厚木さんの息子だからと言って、そこまでしょいこむ必要はありません。あなたは、ぼくとはなんの関係もない。義理を義務だと思って、優先させなくていいんですよ」
やっぱりこの人はちゃんとした大人の男なんだな。そう思うと、圭の心は穏やかになった。だから気楽にこう言えた。
「親父の息子だから、義理で言っているのではなく。あなたがうちに来てくれたら、きっと愉しいかな、って思ったんです」
「愉しい?」
「はい。戸川さんは学芸員だったんでしょう? おれ、美術も好きだし。家は京都にあって、古い一軒家に一人で住んでます。この家で暮らしていたみたいに部屋がたくさんあるから、たぶんいっしょに住んでてもそんなに気づまりじゃないと思う。お互い、一人になりたいときは自分の部屋にいればいいし。戸川さん、おもしろい人ですよ。おれは好きです」
戸川は目を丸くした。明らかに、圭の下した評価をふしぎに思っていた。しかし、戸川はかすかに笑った。そしてありがとうと言った。
圭は軽くうなずく。
花火の音がして、日焼けした障子の紙が鮮やかな赤に染まった。
「ぼくもバイですよ」
戸川はそう言った。圭は微笑もうとして、なぜか口元が引き攣った。戸川の答えがうれしかったが、素直に表そうとするのに失敗した。胸で花火が小さく音を立てた。
二人は黙って麦茶を飲んだ。
「それから、最後に質問です」
圭は戸川の目を見つめ、言った。
「戸川さん、ほんとに生きてるんですか?」
年上の男は目を細める。微笑んでつぶやいた。
「あなたも度量が大きい人だ」
見えちゃっただけです、と圭は答えた。
○
こうしてその夏から、厚木圭は年上の幽霊男といっしょに暮らすことになった。
父親はとうとうオランダにまで行ってしまい、アムステルダムから届いた手紙を二人で読んだ。手紙には、父親の新しい恋人のポートレートが同封されていた。派手な美貌の彼女は華奢な首に、豊がつくった彫金細工のシルバーのネックレスを身につけていた。そばかすが浮いた豊かな胸元が眩しく、圭と戸川はしばし見入った。
圭は手紙の返事に、「おれと戸川さんは元気です」と書いた。封筒に入れ、封をして、切手を買いに行かなくちゃなと思う。
リビングの隅に置かれたテーブルにかがみこみながら、戸川が呼んだ。
「圭くん、メダカの卵がかえってるよ」
ほんとですか、と言いながら、圭は戸川の後ろから水槽の中を覗きこむ。
二人にとって、こんな日常はあたりまえのことになった。もし霊感のある人間が見たら、圭はただ「とり憑かれている」だけかもしれない。
でも、いいんだ。本当には死んでいるとしても、いま生きていないものだとしても、心に思いだせるなら、心の眼に見えて触れることができるなら、それが過去の幻でもかまわない。圭はそう思って生きてきた。だから、戸川がそばにいることがうれしかった。自分の信じてきたことは正しかったと思えるからだ。
戸川はあいかわらず過去を感じさせず、だから圭の目にはいつも新鮮だ。年上の男はいつも静かにリビングで本を読んで、圭が軽口をたたくとにこにこしている。この人のいろんな顔が知りたい、と圭は思う。
そしていつか、その愚かさと情熱を見たい。
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