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第52話 藩主の仮面⑬

 忙しなく動く民衆たちを置き去りにして、直澄は幻乃の腕をきつく掴んだまま、ぐいぐいと引っ張っていく。  血に慣れていない町人たちを慮ってか、途中で直澄は自らの旅装を脱ぐと、返り血に濡れた幻乃の姿を隠すように、頭からそれを被せた。狭まった視界に映るものは、直澄に掴まれたままの腕と、悠々と歩く直澄の足、そして、もつれかけた己の足元だけ。混乱しながらも、幻乃はただ導かれるがまま、直澄の背を追った。  いつかもこうして腕を引かれたことがあった。三条に連れてこられたばかりの頃は、この傲慢さが鼻についてならなかったというのに、その強引さを嫌ではないと感じる今の己は、やはりどこかがおかしくなっているのかもしれない。  ぼんやりと足元を見ていると、己の歩いた跡に沿うように、点々と血痕が落ちていた。慌てて幻乃は「あの……!」と声を掛ける。   「何だ」 「お召しものが汚れます。お放しください」  直澄は旅装とは言え、手合わせするときに纏っている服と比べると、仕立ての良さがひと目で分かる装いをしていた。血まみれの自分が触れていい相手ではないのだと、今さらながら焦りが湧いてくる。 「……? 傷を受けたのか」 「いえ。ですが、全身血まみれですから。それに、今は状況が状況です。こんな格好の余所者を屋敷に連れて帰っては、皆さん、きっと怯えてしまわれます。川で身なりを整えてから、襲撃を受けたときの状況の報告に参りたく存じます」 「すべて無用な心配だ。湯殿で落とせ」  何を言っているのか分からないとばかりに顔を顰めた直澄は、幻乃の気遣いを一言で切って捨てた。  事件のあった場所に人が集まっているとはいえ、通りを歩く町人がいないわけではない。すれ違う者は皆、直澄に頭を下げては、隣の幻乃を見てぎょっとしたように顔色を変える。その度に直澄は、あの上に立つ者特有の頼りがいある声で、にこやかに民を宥めて屋敷へと進んでいった。  居心地が悪かった。  振り解こうにも振り解けぬほど強く握られた腕が、妙に熱く感じる。落ち着かない幻乃の内心とは裏腹に、二十五年間生きてきた経験は、ぺらぺらと普段通りの調子を装って勝手に口を回し始めていた。   「襲撃者は、旧幕府陣営の者だと思われます」 「見れば分かる」 「爆薬を使っていました。あの者たち単独で手に入るものとは思えません」 「だろうな。詳しい話は、ほかの者からの話も合わせて後で聞く」 「爆破されたのは遠野屋と越後屋です。悲鳴が上がってから爆発音が響くまでは、そう間がありませんでした。はじめに襲撃されたのは越後屋方面です。襲撃の狙いは――」 「先ほどからよく回る口だな。何をそうも焦っている?」    感情ひとつ取り繕えもしていないのだと突きつけられることほど、恥ずかしいことはない。ぐうの音も出ないとはこのことだ。 「……いえ。失礼しました」    辛うじて搾り出した謝罪の言葉をひとつ残して、幻乃は大人しく口を閉ざしたまま、粛々と歩くことに専念した。    直澄に手を引かれるがまま屋敷の門をくぐり、見慣れた湯殿へと連行される。痛かったはずの腕も、解放されてみればすうすうとして落ち着かない。ここまでのこのこと来てしまったが、何のために自分はここにいるのだろう。なんとなく直澄の顔を直視することができなくて、幻乃は俯いたまま、頭を下げた。 「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」 「謝罪されることではない」 「襲撃の経緯については、彦先生とお鶴さんがはじめの悲鳴から耳にしています。維新絡みで、以前からいざこざがあったとも聞いています。恐れながら、町人からも話を聞く方がよろしいかと存じます」 「そうだな」 「身を清めたら、すぐに参りますので――」  言い終わる前に、直澄の両手が幻乃の頬へと伸ばされる。そのまま、有無を言わさず首をぐいと上向けられた。無理矢理に視線を合わせられ、追い詰められた気分になる。

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