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第53話 藩主の仮面⑭

「先ほどから、なぜ目を合わせない?」 「……っ、あの、直澄さま」 「『さま』? 誰も見ていないのに、飾りだけの敬意を払う意味はあるのか」 「ですが」  先ほどまでの直澄は、まるで別人のようだった。藩主としての顔を見たことは何度もあるけれど、あんな風に自分から膝をつきたくなるような威厳ある振る舞いは、初めてだった。あるいは幻乃が今まで見てきた姿の方が偽物だったのではないかと思うほど、藩主としての直澄は、民を導く者として完璧な男に見えたのだ。 「……直澄さんのあれは、演技では、ありませんよね」 「どういう意味だ」 「知らぬお方のように見えました。夜に人斬りをするあなたに、勝手ながら親しみを覚えていたことを申し訳なく思う程度には、ご立派なお姿でした。俺は……あなたのことを、何も知らないのですね」  言葉にして初めて、自分は直澄に裏切られたような、子どもじみた寂しさを感じているのだと気付く。元より生きる世界が違う人に、勝手に仲間意識を持って、勝手に裏切られた気分になるなんて、独りよがりにもほどがある。しかし、何を馬鹿なことを言っているのかと自嘲する間もなく、至極真面目に直澄は頷いた。   「立派。立派か……。俺はそうあるべくして育てられたのだから、当然だ。誰しも(おおやけ)の姿と私的な姿くらい、持つものだろう。お前とて、敵と向かえ合えば自然に女子どもを背に守るし、主人の盾となることも厭うまい」 「それは……、そうですが……」  幻乃の言いたいことはそういうことではないのだが、皮肉を言えば皮肉で返し、答えられる問いには極めて律儀に答えを返すのが直澄という男だ。  この人らしい、と苦笑が滲む。翻って自分はどうだろうと考えたら、唇に浮かべた笑みは、いつしか自嘲へと変わっていた。 「俺は……、違います。直澄さんのようには生きられません。自分では器用な方だと思っていたんですが、どうやらそうでもないようです。刀を振るうのが楽しくて、それしか考えていませんでした。皆さんを、怯えさせてしまったようです」  幻乃は命の取り合いを心から愛している。けれど周囲の人間は、そうではないのだ。  血を厭い、死を厭い、殺し合いを嫌悪する。きっとそれが普通なのだろう。おりんの、お鶴の、彦丸の――周りを囲む町人たちの、異常者を見る怯えた目つきが、瞼の裏にこびりついて離れない。 「俺は、こういう風にしか生きられないんでしょうね。……よく分かりました」  血に濡れた己の腕に視線を落とす。  新時代。平和な時代。刀を取り上げられる時代。  身の振り方を考えろと言われても、これ以外の生き方は幻乃にはできない。  平和を待ち望む人々とは真逆に、制度の改革が進むたび、幻乃の居心地の悪さは増していく。彦丸やお鶴が気にかけてくれればくれるほど、自分のいるべき場所はここではないのだと、ひしひしと肌で感じるのだ。  そもそも、他に行く宛もなかったとはいえ、ここに居着いてしまったこと自体が間違いだったのかもしれない。 「直澄さん。食客などと勿体無いことを言っていただきましたが、俺は――……って、なんですかその顔」  伏せていた目線を上げた瞬間、目に飛び込んできた直澄の表情が見たこともないほど引きつっていたものだから、幻乃は思わず突っ込んでしまった。

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