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第54話 藩主の仮面⑮

 カメムシでも間違って食べてしまったかのような、ひどい顔。涼やかな美貌が台無しだ。 「人の顔を掴んでおいてなんて顔してるんですかあなた」 「いや……。まさか今まで自分が常識人だとでも思って生きてきたのかと思ったら、信じがたくてな……」 「他人に理解されないということは、さすがに分かっていましたよ。今までだったらそれで、問題なかったんです」 「ならばそれで良いだろう。余計なことなど考えるから、せっかくの楽しみに水を差されるのだ」 「楽しみ?」  眉根を寄せて尋ねれば、仕方のないやつだとでも言いたげに、直澄は表情を緩めた。  乾きかけた返り血を落とすように、直澄は幻乃の頬を親指で柔らかく撫でていく。くすぐったさに目を細めれば、ますます勢いがついたように直澄は幻乃の頬をこね始めた。   「斬って、斬られて、たった一秒間の生死の境で、相手の命をこの手で奪う。あの瞬間以上に楽しいことは、この世にはない。――だろう?」 「……っ」  内緒話をするように声をひそめて、直澄は語る。その目に浮かぶ暗い熱は、斬り合いに出掛ける夜に見せる顔そのものだった。皆が慕う藩主ではなく、幻乃のよく知る、幻乃だけが知っている直澄の顔だ。 「楽しかったろう。今なお旧幕府軍で生き残っている者は、強者揃いだから」 「は、い……。はい……!」  鼻の奥がつんと痛くなる。喉の奥が詰まって、声がうまく出ない。 「皆さん、お強かった。俺ひとりでもらってしまうのが、申し訳なくなるくらいでした」 「お前は、どんな顔をして奴らを斬ったのだろうな。見ていたかった」 「いつものように、ですか? 直澄さんも、あの場にいれば良かったのに。……ああ、いえ、藩主の『直澄さま』は、人斬りなんてしませんね。それじゃあ結局俺の独り占めだ」  頬に触れる手の感触を追うように、幻乃は首を傾ける。くつくつと喉を鳴らして、上機嫌に直澄は笑った。 「……やっと、言葉が戻った」 「言葉?」  おうむ返しに呟いて、崩れ掛けた己の言葉に気づいて舌打ちする。色々と一気に起こりすぎたせいだろう。気が緩んでいるらしい。 「失礼しました」 「いいや? お前に礼を尽くして欲しいとは元より思っていない。胡散臭い言葉回しは嫌いではないがな。……前の主に仕込まれた言葉など、疾く忘れてしまえ。幻乃」 「え」  耳元で囁かれた言葉にどう応えるべきかと悩んでいる間に、さっと直澄は身を離す。一秒遅れて、湯殿の扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。 「お話中、失礼いたします。直澄さま、早急にご判断を仰ぎたい用件がございまして――」 「ああ。すぐに行く」  申し訳なさそうにかけられた声に快活に答えた直澄は、「着替えは外に置いておかせる」と幻乃に言いおくと、扉に足を向ける。 「ぁ……――」  遠ざかる背に、無意識に手を伸ばしかけ――、寸でのところで我に帰って、伸ばした手を握り込んだ。    直澄は藩主なのだ。  どれほど近しく思えたとしても、たとえただひとり幻乃を理解してくれる男だとしても、幻乃とは根本から立ち位置が違う人なのだ。  忘れるな、と自分に言い聞かせるように心中で呟いて、幻乃はきつく目を瞑った。

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