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第57話 藩主の仮面⑱
「状況は分かった。引っ張り込んでおいてなんだが、お主にはやるべきことはないのか」
「いえ、俺は、その……」
この状況においては、何もしないことが仕事のようなものである。とはいえ、まさかそんなことをこの意欲あふれる少年に言うわけにもいかない。言葉に迷う幻乃を見て、護久は憐れむように「よい。人には事情があるものだものな」と訳知り顔で頷いた。
「怪我か病気か、そのあたりか? 私も、ふたりきりの兄弟なのだから兄上を手伝いたいと常々主張しているのだが、この体のせいでままならぬ。動きたくとも動けぬ歯痒さは、よく分かるとも」
言いながら、護久はひどく咳き込んだ。気道のあたりに持病でもあるのだろうか。弟君の容体は冬になると悪くなる、と青吹屋も言っていた。
涙目でひゅうひゅうと苦しそうな呼吸をしながら、護久はそばに置いていた薬湯を、ゆっくりと喉に流し込む。
「お加減は大丈夫ですか」
「気にするな。冬はいつもこうだ」
「気道の具合が、よろしくないのですか」
「ああ。昼はまだ良いが、夜になるとどうにもな。……といっても、昔に比べれば改善はしてきたのだぞ。薬も自分で調合できるゆえ、周囲の手を煩わせることも少なくなったしな」
薬湯を飲んで落ち着いたのか、護久は指でさっと涙を拭うと、忌々しげに頭を振った。
「それでも、戦に立つどころか、剣術の稽古ひとつろくにできぬ体たらくではあるがな。己の体ながら、腹立たしいものよ。……まこと、ままならぬ」
心が望むことに体がついてこないというのは、どのような気持ちなのだろう。頭で理解していても心がそれを受け入れないことはよくあるけれど、護久の言う通り、人間とは本当にままならないものだ。かける言葉を探している間に、すっと襖が開く音が聞こえてきた。
「お前の仕事は戦に立つことではないと前にも言ったろう、護久」
「兄上!」
開いた襖に肩を預けるようにして、直澄が部屋の中を覗いていた。中に座る幻乃を見て、直澄は一瞬だけ眉根をひそめる。しかし次の瞬間には、民に向けるものと同じ柔和な笑みを、弟に向けていた。
ぱっと表情を明るくして立ち上がった護久は、ほとんど走るように直澄との距離を詰めていく。
「事件への対処はもうよろしいのですか? 護久にもお手伝いできることはありませぬか。同盟藩への文を書くのでも、怪我人の治療でも、お役に立てますよ。ああ、火が出たと聞きましたが、町の皆は大丈夫でしょうか?」
子犬が主人に纏わりつくような勢いが、何とも微笑ましい。
直澄と護久が並んで立つと、兄弟というよりもまるで親子のようだった。前藩主が戦死したのが十年前であることを思えば、十以上年の離れた兄は、護久にとって実質父代わりのようなものだろう。
苦笑しながら、直澄は護久の肩をそっと押さえた。
「一度にいくつ言うつもりだ? そう興奮すると、また発作が起きる。少しは落ち着け」
「大丈夫。今日は調子が良いのです。だから――けほっ」
「ほらみろ、言わんことはない。薬はもう飲んだのか」
「飲みました。子ども扱いしないでください!」
そうは言うが、文句を言う顔は子どもそのものである。護衛の武士たちも、心なしか頬が緩んでいた。
一度に言うなという兄の言葉を受けてか、護久はひとつひとつ聞き直すことにしたらしい。
「町の皆の様子はどうなのですか」
「ひとまずは落ち着いた。事情はこれから皆に聞く必要があるだろうが、火も消えたし、怪我人の手当も済んだところだ。……なんだ、幻乃に聞いたのか?」
抜け出そうとするだろうから知らせなかったのに、と言う直澄に、護久はバツが悪そうに目を泳がせる。
「誰彼構わず引き込むものではないぞ」
「それは……、悪かったと思っています。でも、手が空いていそうな者を選んだつもりです」
悪気のない言葉が胸に刺さる。たしかに幻乃は手持ち無沙汰だったので、間違いではない。
「私にも手伝えることはありませぬか、兄上。屋敷にお戻りになったばかりで、お疲れでしょう? 敵が商家を狙うのは、きっと序の口です。本命はこの後に――」
「護久」
言い募る護久の言葉を、静かに、けれど有無を言わさぬ声音で、直澄は制止した。
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