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第56話 藩主の仮面⑰

「失礼いたします」    招かれるがまま室内に踏み込んで、膝をつく。ちらりと辺りを伺ってみれば、一目で部屋の主の勤勉さが見て取れる、書物に囲まれた机が目を惹いた。丁寧に整頓された手習いのあとが何枚も積まれており、さらにその毛筆も、子どもとは思えないほど美しい。  何より特徴的なのは、部屋を満たす香りだ。 「生薬の香り……?」  彦丸の調合部屋を思い起こさせるような、独特な生薬の香りに、幻乃は鼻をひくつかせる。見れば、部屋の片隅には大きな薬籠(やくろう)が鎮座していた。  幻乃の前にいそいそと姿勢よく座り込んだ護久は、子どもが玩具を自慢するがごとく、目を輝かせて語り出す。 「この匂いが気になるか? 彦爺に頼み込んでな、薬のことを教わっておるのだ。自分の薬ならもう自分で調合できるぞ」 「彦先生に、ですか? それは、敬服いたしました。自分も時折手伝いをさせていただいておりますが、不勉強ゆえ生薬の見分けもろくろくできず、よく怒られます」 「お主も怒鳴られた口か。彦爺は厳しいからな」  からからと笑った後で、「ああ」と思い出したように護久は首を傾げた。 「知っておろうが、私は護久。藩主直澄の弟だ。狐顔の剣士、名は何と言う?」 「間宮幻乃と申します」 「そうか、幻乃か。その髪は自前か? 目も、わざと細めておるのか?」 「恥ずかしながら、生まれたときから目も髪もこの通りでございます」 「ふうん。愛嬌があって、良いではないか。私は狐が好きなのだ。庭によく来るからな。見ていて飽きぬ」 「さ、左様でございますか」    ぽんぽんと止まらぬ言葉に圧倒される幻乃を、緊張しているとでも思ったのか、「普段通りに話してよいぞ」と護久は笑いかけてくる。   「姿勢も崩して構わない。堅苦しい」  その言い方が直澄とあまりによく似ているものだから、思わず吹き出しそうになった。  崩せとは言うが、周りを囲むものたちの険しい視線は「まさかそんな無礼なことはしないだろうな」と語っている。恐縮する体で頭を下げて、幻乃は礼を失さぬ程度に足だけを正座の形に置き換えた。 「のう、町で何かあったのか?」  身を乗り出して護久が問いかける。   「先ほどから、普段見かけぬ商人たちまで出入りしておろう。気になって気になって、勉強も手に付かぬのよ」  正直に答えていいのか、はぐらかした方がいいのか、判断がつかなかった。周りの者が口を出す様子もないので、当たり障りのない範囲で情報を選んで、幻乃は説明する。 「他藩の者が、町で商人を襲いました。三条家御用達の商家を含めて被害者も多く、火も出たことで、皆さま総出で対処に当たっておられるようです」 「なんと……!」  絶句した護久は、しかしすぐに平静を取り戻すと、大人びた調子で顎に手を当てる。   「どうりで兄上も、帰ってくるなり忙しくしておられるはずだ。襲ってきたのは、旧幕府の陣営か? 榊藩……いや、あそこはもう余力がないから……相馬藩に町田藩あたりかな。越後屋を潰せば、一時的とはいえ武器の仕入れが止まるものな」 「お、仰る通りです。ご存知だったのですか?」  言ってもないことまですらすらと言い当てられて、驚嘆とともに見つめれば、照れたように護久は頬をかいた。 「知らぬ。が、歴史と情勢を知っていれば、次に何が起こるのかというのは、だいたい予想がつくものだ」 「お見それしました。護久さまは、知識も視野も、広くていらっしゃるのですね」  これが教養の違いというものか。あるいは護久の頭が殊更に良いだけか。いずれにせよ、子どもと侮っていたことを後悔した。   「よせよせ、褒めても何も出んぞ」  はにかみながらも、視線を下げた護久は、「兄上も少しは私を頼ってくださればいいのに」と寂しそうに独りごちる。大人びた話し方をする少年ではあったが、そのときばかりは、声音にも年相応の幼さが滲んでいた。兄に認めて欲しくて背伸びをしているのだとしたら、なんとも健気なことである。

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