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第59話 冬暁に旅立つ①

 剥き出しの肌を、冬の空気が容赦なく苛んでいく。外はまだ闇が深く、夜明けにはほど遠い。  寒いと思えば、服を着ていなかった。雪が降る夜に裸で寝るなど馬鹿げている。己はなんでまたそんな無謀なことをしたのだったか。寝惚けた頭で考えて、ああ、と思い出す。 (好き勝手されたんだった……)    護久と遭遇した後、幻乃は結局、屋敷に呼び出されたお鶴や彦丸たちとともに襲撃の状況の聴取を受けた。ようやく解放されたと思ったのも束の間のこと、幻乃は直澄に首根っこをつかまれるようにして部屋へと放り込まれて、「暇なら刀の手入れでもしておけ」と襖を締め切られたのだった。  ふらふらさせておくとろくなことをしないとでも思われたのだろう。幻乃とて好きで事件の現場に居合わせたわけでもないし、弟君に自分から関わりに行ったわけでもないというのに、信用のないことである。  血と脂で汚れているのもたしかではあったので、幻乃は直澄の言いつけ通り、普段の三倍以上の時間をかけて愛刀の手入れをした。冴え渡った空気の中で眺める刃文は、我ながら今までになく美しく仕上がったと思う。    日が沈んでも、直澄は戻ってこなかった。それをいいことに、斬り合いのせいで昂った体を持て余した幻乃は、部屋の主を差し置いて、部屋の中央で早々に寝入っていた。おそらくは、それが直澄の癪に触ったのだろう。  長旅で溜まっていたのか、はたまた幻乃だけが上質な獲物にありつけたことへの腹いせか。夜中にようやく部屋に戻ってきた直澄は、寝こけている幻乃を見るなりたたき起こして、人の体で好き勝手遊んでくれたというわけだった。  おかげでこの有り様だ。寝支度もしていなかったというのに、体を清める余裕もなく眠り込んでしまったらしい。そっと嘆息して、幻乃は身に染みついた習慣で、愛刀を手に取った。   「……痛」    身を起こした拍子に、腰がじくりと痛んだ。まだ何かが体のうちに埋め込まれているかのような感触に、そっと腰をさすろうとしたそのとき、蛇のように這い寄った手が、幻乃の手首を素早く掴んだ。   「――どこへ行く? 幻乃」    低く掠れた声は、先ほどまでの情交の色を濃く残した艶やかな響きを帯びていた。名を呼ばれるだけで、肌がぞわりと粟だつ。薄々自覚はあったが、すっかり己はこの男にいかれているらしい。 (だからと言って、何がどうなるわけでもないが)  直澄は男で、幻乃も男。仮にどちらかが女であったとしても、血筋も知れない流れ者と、由緒正しい藩主の間に、何が起こるわけもない。  どうせ今だけの戯れだ。 「直澄さん。すみません、起こしましたか」 「謝罪はいらない。どこへ行くのか、と聞いたんだ」    今の今まで寝ていたとは思えない直澄の鋭い眼光に、幻乃はうっとりと目を細める。寝息だけを聞けば眠っていたようにも思えたけれど、考えてみれば、この獣のような男が他人の前でぐっすりと寝入るわけもなかった。  昼こそ藩主らしく生真面目に振る舞っているが、直澄は夜には野生的な印象が強くなる。普段は凛々しく結えられている濡羽色の黒髪が、肩に無造作に流されているせいもあるだろう。   「別に、どこにも行きやしませんよ」  少なくとも、今夜は。  言わなかった言葉を察したわけでもないだろうが、手首を掴む手の力が不機嫌そうに強まった。   「体を清めようかと思っただけで――……っ」 「まだ足りない」  最後まで言わせてもらうこともできないまま、腕を引かれて押し倒された。ごく自然に刀を手から遠ざけられて、あっという間に幻乃は寝台に引きずり込まれる。 「お前もそうだろう、幻乃」 「……っ」    隠すもののない剥き出しの胸を、ゆっくりと舌で辿られる。隠しようもない官能の気配に、幻乃はたまらず体を揺らした。  幻乃の胸から腹にかけては、塞がってなお存在感のある、大きな刀傷が刻まれている。ただでさえ敏感だった傷跡は、共寝のたびに直澄が執拗にいじるせいで、すっかり性感帯のひとつへと作り替えられていた。   「幻乃」    乞うているのか、命じているのか。  直澄の瞳の奥には、暗い熱が燻って見えた。刀を構えて向き合うときとまったく同じ、強い視線だ。幻乃を魅惑してやまないその眼差しに身を震わせながらも、焦らすように幻乃は身をよじる。 「怖いですねえ。獣のようなお方だ」 「どっちが? 昂っていたのは、お前の方だ。違うか」 「さて、どうでしょう。直澄さんは俺をちっとも戦いへ連れて行ってくださらないから、久しぶりの血に酔ってしまったのかもしれません」 「それだけで、そんなにも飢えたような顔をしていると?」 「直澄さんに触れるのは久しぶりだから、というのはどうでしょう」  茶化す言葉の中に、ほんのわずかな本音を混ぜ込み笑う。  閨の中ではふたりだけ。面倒なことすべてを忘れて、ただひとりの同類を隣に感じることができる。  そっと手を伸ばして頬に触れれば、直澄は幻乃の手にすり寄るように首を傾けた。   「そういう趣向か?」 「そういう趣向です」    音を立てて口付ける。途端に、殺伐としていた空気に、かすかな甘さが滲んだ。

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