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第60話 冬暁に旅立つ②

「言い忘れていました。おかえりなさい、直澄さん。長旅お疲れさまでした」 「今さらか」 「申し訳ありません。刀に夢中だったもので」 「いつだってそうだろう」 「ええ。だって、刀だけがいつだって俺のそばにあるものですから。俺とあなたを繋いでくれたのだって、刀でしょう?」 「……そうだな」     直澄が目を細める。疲れているだろうに、その表情には疲労ひとつ滲んでいない。けれど、どれだけ表情を取り繕っても、体はごまかせない。   「目の下に隈ができていますよ。ここのところ、随分と忙しくされていますね」    そう囁きながら隈をなぞれば、くすぐったそうに直澄は目元に皺を寄せた。 「仕方がない。そうするだけの必要がある。世は未だ、落ち着いていない」 「戦力が必要なら、俺を使ってくださればいいのに。これでもそれなりに腕は立つ方だと自負していますよ?」 「知っている」 「光栄です。直澄さんに言われても、嫌味にしか聞こえませんけどね」  伸ばされた指に指を絡ませ、甘えるように握り込む。  甘い感情なんてかけらもないのに、想いを通わせた情人どうしのように身を寄せ合って、触れ合うだけの口付けを何度も交わす。互いに互いの何かを求めて目をぎらつかせながら、愛を交わす者たちの振る舞いをなぞって、ごっこ遊びに身を浸す。  馬鹿馬鹿しい戯れだ。けれど、くだらなければくだらないほど、現実逃避にはちょうどいい。 (こんなくだらない関係を、結局冬になるまでずるずると続けてしまった)  相手が直澄でなかったとしたら憤死しているか、とっくに首を落としているところだ。  しようと思えば、直澄相手でもきっとできた。共寝をしている今、直澄が最も無防備になる瞬間を何度も幻乃は共有しているのだから。  それでもそうしなかったのは、なぜなのか。  考えても仕方のないことは、それ以上考えない。代わりに幻乃は、からかうように笑顔を作った。 「縁談が進んでいると聞きましたよ」 「誰から」 「さあ、誰だったかな。……時間が経つのは早いですね。季節も時代も繋がりも、移り変わりというものは、とかく目まぐるしいものです。俺だけが、置いていかれているような気分になりますよ」    いつも通りに茶化して言ったつもりだったのに、直澄は訝しむように眉根を寄せた。それどころか、幻乃の頬を両手で包み込み、心までのぞき込もうとするかのように瞳をじっと見つめてくる。 「今日のお前は、おかしいな。どうした、幻乃」 「どうもしませんよ。そういう趣向だって、言ったでしょう? それだけです」    目を逸らし、それ以上表情を見られることを避けるように、幻乃は直澄の頭を胸に抱え込んだ。   「ねえ直澄さん。どうして俺を生かしたんですか」 「またそれか?」  くぐもった声が面白くて、幻乃はくすくすと笑った。直澄が身じろぎするたびに触れる、すべすべとした髪の感触が心地よい。   「いつまで経っても答えてくれないあなたが悪い。穀潰しを飼う悪趣味な藩主だと、噂になっていましたよ」 「悪趣味か。言い得て妙だな」 「おや。自覚はあるんですね」    躍起になって逃げようとする直澄の後頭部を押さえつけ、戯れにつむじへ口付ける。くすぐったかったのか、肩を揺らした直澄は、堪えかねたように幻乃の腕を力づくで剥がした。 「やめろ」 「残念です。直澄さんの髪、好きなんですけどね。男に言うのもなんですが、お綺麗な髪じゃないですか。魅力的だと思いますよ」 「初めて言われた」 「それは、皆さん見る目がないようで」 「お前の口説き文句は面白みに欠けるな」 「面白く口説いて欲しかったんですか」 「結構だ」 「残念です」    目元を緩ませる直澄は、どこか気の抜けた顔をしていた。眼光こそ普段通りに見えたけれど、そうは言っても一度寝入った後だから、気が緩んでいるのかもしれない。その顔を見て、つられて笑みを返す自分も、同じくらい気の抜けた顔をしているのだろう。    虫唾が走った。  生かされた恨みを忘れていないと己がこの口で言ったくせに、ふとした瞬間、疑わしくなる。 (俺は、斬れるだろうか)  幻乃を昂らせるものは命をかけた斬り合いで、直澄はそのための極上の相手。  それだけなのに、直澄のそばで暮らしていると、己を己たらしめるものを時折見失いそうになる。やれ新時代だ、やれ今後の身の振り方だとどれだけやかましく外野が騒ぎ立てたとしても、幻乃にとっての唯一不可侵の指針だけは、失くすわけにいかないのに。  口を閉ざして、肌を合わせる。直澄は、幻乃の首元に顔を埋めたまま頭を上げなかった。  言葉も交わさないまま、互いの肌の温度だけをぼんやりと感じて、どれくらい経っただろうか。ほとんど吐息のような声で、直澄は静かに言葉を紡いだ。 「復讐――と言ったらどうする」 「……え?」  何の話だと考えて、それが先ほどの問いへの答えなのだと気づいた瞬間、目を見張る。普段であれば頑なに語ろうとはしないその理由の片鱗を、その夜初めて、直澄は不用意に覗かせた。

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