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第61話 冬暁に旅立つ③

「復讐?」 「人生を変えられたと、そう思う出来事を経験したことはあるか」 「……すぐには思いつきませんね」 「だろうよ。俺は、お前のそういうところが憎らしくてたまらない。だから俺は、こうしているんだ。お前にはなくとも、俺にはある。俺はお前に、人生を根本から変えられた」  さっぱり意味が分からなかった。自嘲するように唇を歪めた直澄をぽかんと見上げて、幻乃は思いつくままに口を開く。 「直澄さんの女をどこかで寝取りましたか」 「お前と穴兄弟になった覚えはない」 「仕事で邪魔をしましたか」 「お前の立場では、しない方が難しかっただろう。榊とは三代前から揉めている」 「俺は、あなたから何かを奪いましたか? それか、壊した?」  話しながらも、互いに互いの体をゆるゆると高め合う。 「奪われたし、壊されたな」 「そうですか。よくあることなので、覚えがないです。申し訳ありません」  我ながら空虚な謝罪だと思いながらも口にすれば、弾けるように直澄は笑った。   「思ってもいないくせに」 「よくご存じで」 「知っているとも。お前はそういう人間だ、幻乃。だから俺はお前からも、思いつく限りのものを奪うことにしたんだ」    緩やかな快楽に目を閉じかけて、聞こえてきた物騒な言葉に、思い直して目を開く。首を傾げれば、直澄は面倒くさそうに言葉を足した。 「主。住処。仕事。体」 「はあ」  劣勢の旧幕府側についた時点で、俊一の死は遅かれ早かれ免れなかっただろうし、幻乃から住処を奪ったのは直澄というより俊次である。仕事は彦丸たちがほどほどに回してくれるし、体に至っては、すべて完全なる合意の上での行為だ。 「どれも直澄さんに奪われたとは、思っていませんが」 「度し難い男だな。あと何を奪えばお前のその胡散臭い笑顔を剥がせるのかと、俺はそればかりを考えているというのに」 「怖いですねえ。……でもまたどうして、そんなに恨まれているんでしょう? 本当に心当たりがないんですけど……」  他人に恨まれている覚えは数多くあれど、直澄に絞れば思い当たる節はなかった。うんうんと唸りながら記憶を探っていた幻乃は、ふと思い出した出来事に、「あ」と声を上げる。   「お父上を殺した敵討ち、でしょうか」  正確には幻乃が討ったわけではないが、三条の前藩主が亡くなるきっかけとなった戦に、幻乃は出ていた。俊一の下で情報の撹乱を担当していたことを思えば、間接的な死の要因には違いない。  直澄はぴくりと片眉を上げる。当たりか、と思った直後に、心底失望したとばかりに直澄はため息をついた。 「あのとき父上を手に掛けたのはお前ではない」 「……? 直澄さんも、あの戦にいらっしゃったのですか? 見た記憶はありませんが」  直澄は答えなかった。言葉を忘れてしまったかのように、がじがじと熱心に幻乃の首に歯を立てている。そのどこか子どもっぽい、拗ねたような顔を見ていられなくなって、幻乃はそっと目を伏せた。  そんな顔を見せてくれるな、と思った。直澄には、誰より強い、得体の知れない男のままでいて欲しい。この硬質な男の内面にも、かわいげのある柔らかさが確かに存在するのだと認めてしまえば、覗き込んでかき乱して揶揄って――うっかりすると自分のものにしたいと願ってしまいそうになるから。    これ以上何かがおかしくなる前に、時代の流れに押し流されてしまう前に、直澄との関係にも、蹴りをつけるべきなのだろう。 「斬り合いをしませんか」  努めて軽く、幻乃は言った。体をまさぐっていた手を、直澄はぴたりと止める。 「何?」 「竹刀ではない真剣で、あなたと斬り合いたいと言ったのです。直澄さん」

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