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第62話 冬暁に旅立つ④
直澄が俯く。耳から落ちた髪が、直澄の表情を隠すようにはらりと顔にかかった。
「まだ早い」
「そうでしょうか。傷はもう塞がりましたよ。命の取り合いは、お好きでしょう? 俺と直澄さん、ふたりで命の取り合いをしませんか。もう一度、あの夜をやり直しましょう。……きっと、楽しいですよ」
「楽しいだろうな。だが、一度しか楽しめない」
「だから良いのではありませんか。あなたを斬ったら、気持ちが良いでしょうね。直澄さん」
「お前の死に顔は、さぞ美しいことだろうな、幻乃。……だが、駄目だ。今は、できない」
「藩主としてのお仕事があるから?」
直澄が幻乃の首元に顔を埋めた。幻乃もまた、直澄を見る代わりに、月明かりも見えぬ障子をぼんやりと眺めていた。表情もはっきりと見えぬほどの暗さと、自他の境界線もあやしくなる心地よい体温は、常であればきっちりと閉ざしているはずの心の|箍《たが》を、不意に緩ませる。らしくもなく直澄の口が滑った理由が、少し分かった気がした。
「直澄さんの敵は、旧幕府軍ですか。それとも、味方面をする邪魔者ですか? 藩主のお立場は、時に足枷にもなりましょう。俺と斬り合ってくれないのなら、俺を使ってはみませんか」
冗談めかして言ったつもりが、うっかり声が震えかけた。
ここにいてもいいのだと、自分が必要なのだと言ってほしい。誰かに、思考を放棄する言い訳を与えて欲しかった。
「使える駒は、多いに越したことはないのでは?」
「俺は、お前の『俊一さま』の代わりになる気はない」
淡々と告げられた言葉は、思いのほか幻乃の心にぐさりと刺さった。別に幻乃は、嘘くさい藩主の笑みを向けて欲しいわけでも、直澄に主になって欲しいわけでもない。たしかにそう思っているはずなのに、突き放されると胸が痛むのだから、心というものはままならない。
「つれないお方だ」
「お前は俺の家臣でもなければ、三条の者でもない。余計なことは何も考えなくていいのだと、以前も言った。藩の問題に、お前は関係ない。誰を使うかも、どう動くかも、すべて俺が決める。お前はただ、好きに生きればいい。幻乃」
「……あはは! 相変わらず勝手な人だ。斬り合いも駄目。駒になるのも駄目。俺を住まわせるだけ住まわせておいて、働かせてもくれないとは。……関係だなんだと言うのなら、この趣味の悪い遊びも、いい加減やめた方がいいような気もしますけどね。俺で間に合わせてないで、縁談とやらでさっさと奥方を娶るなり、小姓をつけるなり――んっ」
続く言葉は、乱暴な口付けで封じ込められた。息もできないほどの深い口付けは、表情よりもよほど雄弁に、直澄の怒りを伝えてくる。言いたいことはまだいくつもあったというのに、直澄の熱に煽られて、思考することさえままならなくなってしまった。
喘ぐように息をする。呼吸の合間に身じろぎすることさえも、直澄は許してくれなかった。
「もう黙れ、幻乃」
再度名を呼ばれると同時に、幻乃は諸手を挙げて降伏した。もとより焦らす意味もない。互いの体の相性は抜群で、数月もの間、丹念に抱かれ続けた体は、すっかりと男を受け入れる快楽を覚え込まされている。焦点が合わぬほど近くで目を合わせて、幻乃はふっと力を抜く。
「いいですよ。一緒に、気持ちよくなりましょうか」
上に覆い被さる体に手を回す。その瞬間、直澄は飢えた獣のように唇を歪めた。恐怖さえ感じさせる、その獰猛な表情に、腰の奥がずくりと疼く。
障子越しに、白く滲む景色がちらりと見えた。夜明けが近いのだ。夜通し降り続いた雪は、どれくらい積もっただろうか。
(夜までに、多少は溶ければいいが。雪が降り積もったままだと、動きにくい)
「何を考えている?」
「ん? 何でもありませんよ」
瞳を覗き込んでくる直澄の視線を受け止めて、幻乃はからかうように口角をつり上げる。
「困ったお方ですね、直澄さん。生活の場にしたって斬り合いの場にしたって、あなたがいなければ俺は生きることもできないというのに。頭の中まで欲しいんですか?」
「暇を与えると、ろくなことを考えないだろう。お前は」
「さて、どうでしょう」
けたけたと笑ってやれば、視線ひとつ自由にさせてくれない直澄の手が、すっぽりと幻乃の両目を覆い隠してしまった。
睦み合うふたつの影が、絡み合っては淫靡に蠢く。すき間なく閉ざされた障子の内側からは、日が登る直前まで、すすり泣くような声が漏れ聞こえていた。
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