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第63話 冬暁に旅立つ⑤

 武器の手入れをするなら冬の朝に限る。  刀は昨日研ぎ直した。クナイに短刀、毒に爆薬。人に見られれば、戦にでも行くつもりなのかと不審に思われる程度には念入りに、幻乃は朝からせっせと道具の手入れを行っていた。  三条家は昨日の事件の関係で今日も朝から忙しい。冷えた日にわざわざ川際に来る暇人は幻乃くらいだ。  明け方まで爛れた行為をしていた身には陽光が堪えるが、雲ひとつ見えない青空は清々しい。辺りには薄らと雪が積もっているものの、この分ならば夜にはあらかた溶けるだろう。  汚れた手を冷水で清めた幻乃は、足音を立てずに立ち上がる。屋敷に戻ろうとしたそのとき、鳥の囀りに混ざって楽しげな話し声が聞こえてきた。   「――おお、別嬪さんじゃねえか。このお姫さまが、直澄さまの奥方様になるのかい?」 「そう聞いたぞ。お屋形さまはあの通り美男だからなあ、これくらいの別嬪さんじゃなきゃ釣り合わんだろ。しかしこれはなんだい。絵にしちゃ、精巧すぎやしねえか」 「写真だ、写真。越後屋さんで働いてる外人さんが居たろ。そいつがこっそり撮ったって話だよ」 「ははあ……、面白いものがあるもんだ」  肖像画よりも精巧な白黒の写真を囲んで、数人の御家人たちが声を弾ませていた。 「越後屋さんも気の毒だったな。そんな怪しげなもんを持ってるから襲撃なんて受けるんじゃないのか」 「馬鹿言えよ。商家が面白いものを仕入れて何が悪いってんだ? いきなり襲いかかってくる卑怯者が全部悪いに決まってらあ。どうせ隣の榊藩あたりの仕業だろ? あそこは爺さんの代から碌なことをしない」 「直澄さまたちが、犯人を見つけてくれるさ。きっと」  仕事中の雑談にしてはいささか騒がしい。そう感じたのは幻乃だけではないらしく、見慣れた藍色の袴を纏った男が、共を引き連れつつも、ひょいとそちらに足を向ける様子が遠目に見えた。 「どうした。賑やかだな?」 「直澄さま!」  気さくに声を掛けてきた主人に驚いたのか、飛び上がるように御家人たちが姿勢を正す。せっかくの写真をぐしゃぐしゃと丸め込むように隠す様子には、笑いを誘うほどの必死さがあった。 「そう焦らずとも良かろうに。なんだ、やましいものでも見ていたのか?」 「いえ、そんな! まさか、とんでもございません」 「息抜きも良いが、ほどほどにな」 「は、はい。……お出掛けですかい?」    直澄が腰に佩いた長刀を見て、伺うように御家人が尋ねた。世間話の最中でさえ一切の隙のない直澄の立ち姿は、同性ながら何度見ても惚れ惚れする。間近で見ている御家人は、なおさらそうだろう。畏敬と憧憬を混ぜ込んだような目をして、一心に直澄を見つめていた。 「少し、町に出る。……そんなに刀が気になるか?」  御家人のうちのひとり――同僚に自慢げに写真を見せていた者が、忙しなく直澄の顔と長刀とを交互に見つめていたのが気にかかったのだろう。苦笑しながら直澄が尋ねる。声を掛けられ、気の毒なほど狼狽えたその男は、肩を震わせながらも、熱い目で直澄を見上げていた。   「い、いえ! その……、直澄さまが刀をお持ちになる姿は絵になると、よく妻と話すのです。ただ、その、いつまで見られるのかと思ったら、目に焼き付けておきたくなりまして……」 「おい、無礼だぞ」  慌てて同僚らしき男が嗜めるが、「よい」と直澄は苦笑しながら首を振った。   「廃刀令の話だろう? 噂が回っているとは聞いている」 「で、では、やはり本当なのですか。直澄さまや武家の方々も、刀を持たなくなる日が、近く来るのでしょうか」 「そうだな。すぐにとは言わないが、世がもう少し落ち着けば、刀を佩く必要もなくなるだろうな」  穏やかに微笑みながら、当たり前のように直澄は言う。その言葉に、幻乃は息を呑んだ。 「藩が消えて、争いの種もやがては消える。刀を振るう機会も、なくなっていくのだろう」    戯言と聞き流すには、直澄の声音は真摯すぎた。  間もなく藩は消え、政府が直接土地を治めることになる。外国を相手取るというのなら、国内で争っている暇はない。刀よりよほど強い武器が流れ出し、武器の管理は政府が厳しく行うことになる。平和な世においては人斬りなどただの犯罪者でしかない。危険の種は摘んでおくのが新政府の方針だ――。  青吹屋の主人が語ったものとそう変わらぬ言葉でも、直澄の口から聞くのは意味が違う。いつもであれば耳に心地よく聞こえるはずの声が、耳障りで仕方がなかった。無意識に、幻乃は腰に下げた刀の柄を、強く握り込む。 「直澄さまが刀をお持ちになる姿が見られなくなるのは残念ですけど、争いなんてなくなるのが一番ですからね」 「もともと、我々は平和な時代のために刀を振るってきた。刀を提げる必要がなくなれば、それに越したことはないさ。もっともそのときには、俺もとっくに藩主ではなくなっているだろうがな」 (必要が、なくなる?)  なくなることなんて、あるはずがない。あなただってそうではないのかと、唐突に直澄の胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたい気分になった。 「そんな、刀を振るう振るわないの前に、直澄さまは私たちの藩主さまなんですよ。藩が藩でなくなっても、いてくださらなければ困ります」 「そうですよ。奥方をお迎えして、これからもここにいてくだせえ。維新の争いも、もうそろそろ落ち着くんでしょう? お綺麗な奥方を娶って、お子さまをたくさん作って、そうやって穏やかに暮らす直澄さまを見なきゃ、死んでも死にきれませんとも」   (許せるものか、そんなこと)    呑気に笑う御家人たちも、彼らに囲まれて困ったように微笑む直澄の顔も、見ていられなかった。  自分のことは良い。幻乃はこの生き方を変えられない。もうその事実を受け入れ、諦めた。直澄は幻乃と違い、責任ある立場にあり、これからの時代に求められていることだって分かっている。  分かっているのに、許せない。  両の拳を強く顔に押し付ける。それでも歪む顔を隠しきれず、八つ当たりのように前髪をぐしゃりとかき乱した。 (そうだ。旧幕府軍が動くというのなら――)    ぴたりと幻乃は手を止めた。良からぬ考えが脳裏をよぎる。  幻乃を『狐』と呼んだ男は、今夜襲撃の現場で待つと言っていた。どこぞの戦場で命尽きるまで刀を振るう道があるというのなら、話だけ聞くのも悪くはないと思っていた。けれど、うまく唆してやれば、あの男の背後にいる者たちは、使

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