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第64話 冬暁に旅立つ⑥

 藩主の立場にあるがゆえに、直澄は幻乃との斬り合いを受けてはくれない。『今は』できないと言っていたけれど、待っていればその時が訪れる保証など、どこにもないのだ。  これ以上の時間をそばで過ごせば、虫唾が走るような気の抜けた触れ合いが、遊びでは済まなくなるかもしれない。  守るべき家族ができてしまえば、直澄は変わってしまうかもしれない。  どうせ幻乃はここには長くいられない。新しい時代で自分が生きていけるとも思わない。俊一の下でやってきたことが明るみに出た瞬間、どの道幻乃を待つのは打ち首だけだ。    幻乃にあるのは今だけだ。  いつか刀を捨ててしまう直澄が、平和な時代で腐ってしまうと言うのなら。  いつ来るのかも分からぬ|い《・》|つ《・》|か《・》を待つくらいなら――。 (利用しない理由もないか)    そうと決まれば、夜までに少しだけやっておくことがある。見張りに張り付かれたままでは都合が悪い。  決めるや否や、幻乃はひらりと木の上に身を躍らせる。枝葉に紛れて移動すれば、幻乃を探すように木の上を見上げる者の姿が見えた。相手が背を向けた瞬間、幻乃は背後から猛毒を塗り込んだクナイを投擲する。喉を一瞬で刺し貫いたクナイは、声を出すことも許さぬままに、ひとりの男を絶命させた。  湿った落ち葉と雪の下に死体を隠せば、しばらくは見つからないだろう。     自分がこれからしようとしていることは、この地に戦禍を招く行為に他ならない。  親切にしてくれた彦丸やお鶴、三条の者たちを思うとわずかに心が痛んだけれど、瞬きひとつで罪悪感は消え去った。それで踏みとどまれる人間だったなら、幻乃は初めからこんな風に生きてはいない。  無造作に後ろでくくった薄茶色の髪を揺らしながら、幻乃は木々の影へと消えていく。  澄んだ空気の心地よさなど、味わう余裕はもはやなかった。人目を避けて足を動かし、幻乃はただひたすらに直澄の屋敷から遠ざかっていく。 「――おい、あいつ」    屋敷から街へと続く橋の上で、話していた武士たちが、早足で歩く幻乃に目を止めた。   「うん? ああ……、ただ飯ぐらいではないか」 「なんたってお屋形さまは、あんな平凡な男を飼ってるんだかな」 「さあな。どの道、身元もろくろく知れぬ余所者だ。昨日だって、あいつがろくでもないことをしでかしたと聞いたぞ」 「ろくでもないことって何だよ」  のんびりと話している男たちは、下級の武士なのだろう。幻乃が榊藩の者だということも、襲撃事件の詳細も、聞いていないらしい。   「本人に聞けばいい。おい、どこに行くのだ、この穀つぶ、し――……」    声を掛けられ、視線を上げる。  口封じをしようかどうか一瞬迷って、殺しすぎても後が面倒だと思い直して目を逸らす。見張りは消したのだから、後は適当に姿を隠せばそれでいい。  すれ違い様、一瞬だけ幻乃の顔を覗き込んだ男は、半笑いだった口をぽかんと開けた。言葉が続く様子もないことを見て取って、幻乃は無言で立ち去っていく。  あとに残された男は、幽霊でも見たかのような真っ青な顔で、知らず流れていた冷や汗をそっと拭った。 「どうした? 腹でも痛いのか?」 「ああ、いや……。お、俺の首は、繋がっているか?」 「はあ? 何言ってるんだ。繋がってるよ。いつも通りだ。白昼夢でも見たのか」 「見た、かもしれん。……あやつ、あんな恐ろしい顔をしていたか?」 「恐ろしいって、あの狐顔のごく潰しがかい」 「狐……」  通り過ぎていったばかり幻乃の背中を見やりながら、男はぽつりと呟く。   「『人斬り狐』って、いなかったか。要人たちに天誅を下して回って、たったひとりで侍百人を一晩で斬り殺したとかいう、化け物みたいな、人斬りが……」    すっかり魂を抜かれた様子で呟く男を眺めて、隣に立つ同僚は、呆れた様子で首を振った。   「与太話だろ? 幕府を倒した立役者はたしかに人斬りたちだろうが、人斬りだって人なんだ。たったひとりで百人、どうやって相手にする? 第一、ほとんど皆、死んだか逮捕されたかしたはずだ」 「そう、だな。そうだよな……。いるわけないよな、そんなやつ」  己に言い聞かせるように男は繰り返す。けれど、男の視線は、怯えたように幻乃の背に据えられたまま、動かなかった。

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