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第73話 春死なむ⑥

体格で劣る以上、真っ向からの力比べでは勝ち目がない。速さと搦め手だけが、幻乃に残された勝ち筋だった。指の間に挟み込んだクナイを三本、人斬り狐に向かって投げつける。――と同時に、今の自分にできる最高の速度で、幻乃は刀を振るった。  きぃん、と耳が痛くなるような金属音が響く。受け止められた刀から、びりびりと手が痺れるほどの衝撃が伝わってきた。一合、二合と切り結ぶも、届かない。投げつけたクナイのうち、胴体を狙った二本は弾かれ、振り上げた刀は真正面から受け止められた。知ってはいたが、人斬り狐の見せたその技量に舌を巻く。  だが――。 「一本は、入りましたね」  ぴしりと音が響いて、狐の面が割れていく。ふたつに分かれた面の下から現れたのは、身震いするほど冷たい表情をした、玲瓏な顔つき。迫力ある隻眼が、ぎろりと幻乃に据えられる。  三条の藩主・直澄その人が立っていた。 「な……! あれは、三条の……?」 「お屋形さまが、人斬り? そんな馬鹿な!」  外野が呆然と呟く声は、幻乃の耳にはもはや届かない。目の前の男から目を逸らすこともできなければ、外に一切の意識を向ける余裕さえなかったからだ。他所に意識を移した瞬間、斬られて終わる。それが分かるから、目を逸らせない。  表情という表情を消し去った直澄は、頬についた傷口から流れる血を拭って、つまらなさそうに呟いた。 「……散歩は楽しかったか、幻乃」 「ええ、ええ。こんなにも月の美しい夜ですから、もちろん。生きるにも死ぬにも、良い日です」  ねえ、人喰い狐殿。  笑い交じりに呼びかける。 「せっかくお顔を隠していらっしゃったのに、見られてしまいましたね。申し訳ございません」  心にもないことを言えば、人形のような無表情のまま、直澄は「構わないさ」と答えた。 「どの道、生きて帰す気はない」  直澄は、誰を、とは言わなかった。敵陣たる旧幕府軍だけではなく、味方であるはずの者たちさえ、その言葉に息を呑む。普段と打って変わった冷たい声を出す直澄が、本当に己の味方なのか、誰も彼もが疑心に駆られていることだろう。  人斬り狐はひとりで動く。男も女も、老いも若きも、出会えば生きては帰れない。これまで素性の知れなかった()の人斬りが名を上げたのは、その圧倒的な強さと、一切の慈悲を見せない冷酷さゆえだと、刀を振るう者なら誰もが知っている。  緊迫した空気の中で、幻乃はひとり上機嫌に笑った。 「さて、できるでしょうか? 人の口に門戸は立てられません。急げば、間に合うかもしれませんけどね。これでよそ見をやめて、俺だけを見てくださいますか?」  飢えた獣のように、幻乃はじっと直澄を見つめた。  燃え盛る屋敷を背にした直澄は、当主であるにも関わらず、歴史ある生家を惜しむ様子すら見られない。周りには死体の山が積み重なっているというのに、動揺も逡巡も、かけらたりとも滲んでいなかった。そんな威風堂々とした立ち姿は、波紋ひとつ立たぬ水面を見ているかのようだ。  そして今、そんな強者の視線は、幻乃ただひとりに据えられている。  これ以上の喜びがあるだろうか?  この姿が見たかった。主人を害され、生き恥を晒すことを強いられたあの日から、ずっと幻乃は『人斬り狐』たる直澄に会いたくてたまらなかった。 「……お前は本当に度し難い。この状況でなお、望むのは斬り合いか」 「つれないあなたがいけないんです。あなたが藩主でなければよかったのに。こうでもしなければ、俺の身分ではあなたに手が届きません」 「榊俊次殿を唆したのも、旧幕府軍と新政府軍の争いが再燃するよう仕向けたのも、お前だな。誰かが糸を引かねば、こうまで争いが激化するはずもない」 「たかだか人ひとりに何ができましょう? 俺はただ尋ねただけです。『これでいいのか』とね。争う道を選んだのは俊次殿であり、剣士たちであり、鬱憤を溜め込んでいた皆さまです。これが人々の総意ですよ。皆さま、新時代の焚べ木となれて満足でしょう」  互いに刀を構え、出方を読み合いながらも言葉を交わす。最後に言葉を交わしてから一月も経っていないというのに、随分と久しぶりに直澄と向き合ったような気がした。  

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