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第76話 春死なむ⑧

 ぱちぱちと残酷なほど軽やかな音を立てて、家屋が焼け落ちていく。  静かだった。静かであるはずがないのに、炎の音以外が聞こえない。直澄の視界に映っていた限りでも、倒壊に巻き込まれた者は多くいた。現に、耳を澄ませば悲鳴とうめき声がかすかに聞こえてくる。ただ単に、他の音が聞こえないほどに、炎の燃え盛る音が大きいのだ。  本来であれば、この場でもっとも静かであるはずがない男は、今は死んだように身じろぎひとつしていなかった。直澄が与えた傷のせいではないだろう。刀が幻乃の命に届いたあの一瞬、ほんの刹那の間感じたためらいが、剣先を鈍らせた。出血こそ酷いが、致命傷には至らなかったはずだ。屋敷が倒壊する直前、咄嗟に押し倒したせいで、頭を打ちつけたのかもしれない。  己が斬ったばかりの小柄な体を、直澄は自分の背に乗せるようにして右腕で支える。利き腕が埋まるのは好ましくはないが、幻乃の刺突を喰らった左腕はしびれが酷く、意識のない男ひとりを抱えられるほどの力は残っていなかった。  殺し合いなら容赦はしない、といつか言われた記憶があった。幻乃は、有言実行の男だった。目の潰れた左を狙われると、どうしても一瞬、反応が遅れる。心臓こそ外せたけれど、左腕は死んだも同然だろう。 (お前の勝ちだ、幻乃)    直澄は斬れなかった。最後の最後で、心がそれを拒絶した。屋敷の倒壊さえなければ、二手目で仕留められていたのは自分の方だろう。  出血の止まらぬ肩はすでに感覚がほとんどないし、辛うじて圧死は免れたとはいえ、焼け落ちてくる木片を受け止めた背は、火傷を負ったのか、焼けるように熱かった。前も後ろも分からぬ炎の中で、空気の流れだけを頼りに、直澄は燃える屋敷の下から慎重に這い出ていく。 「――は……っ」    炎の届かぬ場所まで辛うじて進むと、直澄は、地面に投げ出すようにして幻乃の体を横たえた。煙の中で目を細めて、辺りの様子をざっと伺う。  人影は見えなかった。代わりに屋敷の裏側から、かすかな怒号が風に乗って聞こえてくる。歓喜の声が上がっているところからして、誰かが敵将の首を落としたのかもしれない。 「ひ……っ」  怯えたような吐息が聞こえた。顔を上げれば、三条藩の|裃《かみしも》小紋を纏った男が、ひとりこちらを凝視しながら立っていた。見覚えのある顔だ。年若い武士は、たしか名を忠太といっただろうか。家族を失い、他藩からやってきたばかりなのだと会話をした覚えがある。  忠太は、鬼か悪魔でも見るような顔をして、こちらに刀を向けていた。近くに落ちていた誰のものとも知れぬ刀を直澄が拾いあげると、「あ、お、お屋形、さま」とさらに怯えの色を深くする。 「……警告は一度だけだ。命が惜しいなら、退け」  表情も声音も、取り繕うだけの余裕がなかった。冷淡に響いた直澄の声を受け止めて、忠太はぶるぶると震えながらも刀を握り直す。   「ち、父上は、人斬り狐に殺されました。お屋形さまだなんて、思いませんでした。今のあなたなら、俺だって……!」  向かってくる青年を、舌打ちしながら斬り殺す。一太刀すらも受け止めることなく腹を斬られた忠太は、怯えと驚愕だけをその顔に浮かべて、あっけなく地面へと沈んでいった。  藩主ではない直澄に向かい合う者は皆、怯えた顔をして死んでいく。一度たりとも恐怖を見せなかった者など、幻乃くらいだ。あの腹の底が見えない男は、昔も今も狂ったように斬り合いを求めては、血に塗れて笑うばかりだから。  初めて幻乃に刃が届いた夜も、今夜も、幻乃は自分が斬られる瞬間でさえ満足げに微笑んでいた。そんな常に変わらず強くあり続ける幻乃に、直澄は焦がれ続けている。直澄が狐の面をつけるようになるずっと前――十年前の初陣で、榊家のいけすかない従者であった幻乃に出会ったときから、ずっと。 ――敗者にはな、理由を聞く権利もないんだよ!    年若い狐顔の少年に、馬鹿にするようにそう声を掛けられた日のことを、忘れたときはない。

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